追想者のコトノハ《セクション4のクイーン&ナイト》
咲部眞歩
午前二時の夜明け ― ダニエル ―
ベランダから眺める景色がダニエルは好きだった。眼下に第四区の街並み、その先の左手には二区、一区と弧を描く特区を見渡し、右手には広大な海が広がる。
淹れたての珈琲を飲みながら、もう片方の手で煙草を取り出して火をつける。深く吸い込み、静かに吐き出す。聞こえるのは煙が宙に広がる音だけ。
空が少しずつ明るみを帯びてくる。eyeOSのスリープモードを解除すると、目の前に半透明のレイヤーが映り、待機画面に表示される時刻は午前二時。夏の朝は早い。それでもまだこの時間は街も人も寝静まっている。
静寂の中の始まり。夏だけど少し肌寒いこの時間をダニエルは楽しんでいた。
珈琲がじわりと体に染み込む感覚。始まりの中で終わろうとしている一日。今はもう何かに追われることもなく、ただ自分の時間を過ごすだけの日々。
――いいじゃんか、それで
尊敬される仕事を辞め恋人も去った。家族はそんなダニエルに大して期待もせず、このマンションのオーナーという立場を与えて放置している。だが一人にはひとりの気軽さがあった。
煙草を消し、独り暮らしには広すぎる部屋に戻る。短い螺旋階段を昇り寝室に移動すると、自動で間接照明が点灯した。ネクタイを外しワイシャツとズボンを脱ぎ捨て、ベッド横のソファに投げ捨てる。下着とシャツでベッドに入り、再度eyeOSを起動する。公開している連絡先への新規依頼はない。
十分に生活していけるが、働くという行為を辞めることはできなかった。
どこからともなく腕の立つやつがいるという噂が広まり、時折金持ちの護衛や警察ではピックアップしてくれないような事件の調査を受けている。
ダニエル・フォシェーン私立探偵事務所所長。これが今のダニエルの肩書きだった。
eyeOSで寝室の照明を消す。外は既に明るい。靄が出ているのかわからないが、窓の外には牛乳を流し込んだような白い空見える。eyeOSが着信をアナウンスしたのは、その白い空と自分の意識が混ざりあったような微睡みの中だった。
非通知ではないが未登録の番号。発信先も公開している連絡先ではなく非公開の番号。あまりいい予感はしなかったがダニエルは応答した。
「もしもし」
しばしの沈黙。だが向こう側では相手が嫌な笑いを浮かべているような気がした。そしてその感覚は相手の声を聞いた瞬間に裏付けられる。
「久しぶりね、ドニー」
ほんの一年前までは毎日聞いていた声。ダニエルにとっては忘れようにもわすれられないその声は、一瞬で過去に引き戻されるトリガーとなる。
「……ルドバリ、一体なんの用です?」
「悲しい。もうカロリーナとは呼んでくれないの?」
「女性の嘘には騙されないようにしてるんです。あなたは悲しんでなどいない」
「本気よ、わたしは」
一瞬だが本当に傷ついたような響きが感じられるも、同時にこれがルドバリの手口だとダニエルは覚えている。ベッドで上半身を起こし煙草をさがす。
「煙草をさがしているの? あれほどやめなさいと言ったのに。きみは何も変わらないのね」
「用件をどうぞ、ルドバリ。こんな時間に連絡してくるなんて現役時代ならともかく、いまのぼくたちにとっては普通じゃない」
主導権を握るために攻勢にでる。用事があるのは自分ではなくて相手だ。何も相手のペースに合わせる必要はない。ダニエルは脱ぎ散らかしたジャケットから煙草を取り出し火をつける。
これは今日最後の煙草か、それとも最初のそれなのか。
相手側でもライターの音がする。ルドバリも煙草に火をつけたのだろう。言い返したかった。
――あなただって何も変わってはいない。
「そういうこと。単刀直入に話すわね。数時間前、第四区で殺人事件が起きた。死体発見現場では
「都市コンピュータは特区すべての魔術発動をモニタリングしている。そこに引っ掛からないということは野良の魔術師か……ゲットーの魔術師ということになる」
都市コンピュータは特区の魔術師が着用を義務付けられているチョーカーによりすべてを管理している。犯人が逮捕されていない時点でその網をすり抜けているということになり、何らかの方法でトラッキングを無効化している。
「ご明察。今こちらは特区との関係を悪化させたくないの。ゲットーの魔術師だとしたら魔対課より先にこちらで捕まえたい」
「それはそうでしょう。で、ぼくに何をさせようとしています? いまや何の資格も権利もないぼくに」
「でも調査力まで失ったわけじゃない。ドニー、きみは組織を抜けるときにはわたしに借りを作ったわよね? それをこのタイミングで返してもらいたいの」
「それは……何度も謝ったじゃないですか。あなたも納得してくれたと思っていたんですが」
「納得することと、許すことはイコールじゃない」
当時からルドバリに口論で勝てたためしがなかったダニエルは、こういうときはいつも……と、思いを巡らせかけてすぐにそれを取り消す。こう何度も過去に引きずられるのは嫌だった。
ナイトテーブルにある灰皿で煙草を揉み消し、このやり取りをさっさと終わらせようと決める。ルドバリの依頼がなんであれ、これ以上、過去の足音が聞こえることに我慢が出来なかった。
「わかりましたよ。今回限りです。これで貸し借り無しです。約束してくれますね?」
「話が早くて助かるわ、ドニー。ええ、約束する。もうきみに
――それじゃあまるで、今後自分が進んであなたに協力するみたいな言い方ですね。
ダニエルはその台詞をどうにか堪え、依頼内容を尋ねた。
「きみはまだeyeOSを使っているのね。それはいま、こちらでもわかってる。ソーサリーマップ等のアプリも変わらず使えると思っていい?」
ソーサリーマップはその場に魔術痕がある場合にそれを検知、分析し、仮想レイヤー上に魔術の五大種別に応じて色をつけてくれるeyeOSアプリで、魔術犯罪捜査には欠かせない。
「ええ、当時のままですよ。ヤバめのシステムは使用者コードを偽装するようチューニングしたので、トラッキングされることもありません」
「オーケー。期待通りだわ。じゃあ説明する。今日の朝イチでこちらから一人、魔術師をそっちに派遣する。きみにはその魔術師と組んで事件の全貌を明らかにして、さっきも言った通り犯人の身柄を特区より先に押さえてほしい」
「一人の探偵が警察を出し抜けると、本気で思ってます?」
「そういう一般論はいらないの、ドニー。だからこそこちらからも魔術師を派遣するんだから。魔対課が捜査に関わってくるのはわかっているけれど、あいつらは一区のことしか頭にないからどうせ派遣されてくるのはお飾りみたいなクイーンとナイトで捜査に深く関わるとは予想しづらい。魔術犯罪の捜査には魔術師とeyeOSが必須なんだから、特捜だけだと捜査は難航するはず。こちらではその二つの要素を用意することができるというアドバンテージを最大限に活かす」
「四区の特捜を仕切っているのはジーン・フライという刑事で、あいつはチームリーダーとしても捜査官としても優秀だ。部が悪いですよ、……ルドバリ」
カロリーナ、と呼びそうになったことがばれないようにとダニエルは祈った。過去はまだまだ容赦なくそこにいる。それどころかどんどんその存在感を増している。
「先に失敗する原因を挙げ始めるきみの話し方、あれだけ指導したのに最後まで直らなかったし、まさかまだそのままなんて。フライのことは知ってる。魔対課に引き抜くっていう話もあったから。でもこちらだって遜色ない。かつて魔対課のナイト長目前だった男と組むのは秘蔵のクイーンだから」
「え? ちょっと待って。クイーン? キングではなくて?」
「女性魔術師の方が優れているのはきみも知っているでしょう?」
「くそっ、それとこれとは話が別だ! ぼくにまたナイトをやれとあなたはその口で言うんですか? カロリーナ・ルドバリ!」
「そういう子どもみたいなところも、そのまま。悲しいな。やっとわたしの名前を呼んでくれたと思ったら、怒りも一緒にぶつけられるなんて」
もう限界だった。整理したはずの過去が津波のように襲いかかり、ダニエルはその奔流に呑み込まれ、流される。
置いてきたはずの人々の顔がいくつも蘇る。あのときこうしておけば良かった、こう言えば良かった。泣かせるつもりなんてなかった。差し出された手を握り返せば良かった。震える背中を、抱き締めれば良かった。
数分間の沈黙。自分の発言がどのような影響を与えるか試したのだろう。それが予想通りの結果だったから、ルドバリはダニエルを待った。
気がつくと空は明るく、白から青に変わっている。夏の朝はあっという間に変わっていく。
「……あなたに連絡をしたいときはどうすればいいです?」
「この番号にコールしてくれればいいけれど、念のため暗号化された秘匿回線を使ってもらえる? eyeOSのやりとりは監視されるかもしれないから」
「わかりました。クイーンはいつ、オーダリウスのトンネルを抜けますか?」
「九時半くらいかなと思う。いま、ゲットーと特区は文化交流の一環として、こちらの楽団を受け入れているの。体調不良で遅れたメンバーということにして、トンネルを抜けさせる。あと何か、訊いておきたいことは?」
「……クイーンの名前は?」
eyeOSの表示を確認すると、今から約六時間後。ダニエルはパートナーとなる魔術師の名前を訊いた。
「アニヤ・プリンシラ」
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