秘密の庭園 ―― アニヤ ――

 ミシェルの元を後にして、ダニエルは明らかに安堵していた。アニヤは先ほどミシェルが何をやったのかよくわかっていなかったが、なんらかの偽装工作なのだろうと判断した。

 さらにダニエルはドラッグストアで腕時計とシールタイプのヘッドセットを買いアニヤに渡した。

 

「そのチョーカーはもう外しても大丈夫。代わりにこのシールを耳朶の裏に貼って。それからこの時計も」

 

 チョーカーを外すと先ほど痛みを感じた場所に小さな赤い点が出来ていた。ダニエルはそれを見て舌打ちをすると、あとでコンシーラーも買うと言った。

 

「今からきみに電話をかける。すると、時計に緑のボタンが表示されるからそれを押してみて。あとは普通にしゃべるだけだから」

 

 ダニエルが車から降りる。アニヤは彼が同じように時計を操作するのだろうと待ち構えていたが、そんな素振りを見せる前に腕時計が振動し音を発して驚いた。時計を見ると緑と赤のボタンが表示されていたので、言われた通りに緑のボタンを押す。

 

「聞こえる?」

 

 シールを貼った辺りからダニエルの声が聞こえた。

 

「……聞こえる」

「オーケー、きみの声も聞こえる。発信のしかたはあとで教えるよ。取り敢えずは作戦会議だ。切るね」

 

 プツンという音が鳴りダニエルが車に戻る。景色が住宅街から商業施設に移り変わるのを見つめながら、アニヤは混乱する頭を必死に整理しようとした。

 

 未知の景色を見たとき、アニヤは興奮した。自分はこの素晴らしい世界で何かを成し遂げると心の中で誓った。しかしその後のミシェルという女性が行ったこと、いまの時計と電話のこと。これらに関してはまったく理解が追い付いていない。キーボードと呼ばれる道具を用いるコンピューター、外でも通話できる携帯できる電話。そういったものが存在するということは知識として知っている。写真も見たことがあった。だがミシェルもダニエルもそれらを使ってはいない。

 アニヤは腕時計を見た。現在時刻が表示されている。これは確かに腕時計だった。それが先ほどは電話だった。腕時計が電話になっていた。受話器もなにもない、それに。

 

 ――自分はいつかこういう時が来ると信じて他人より特区について勉強していると思っていた。でも実際に目の当たりにすると、ただそう思っていただけだった。

 

「どうしたの、そんな顔をして」

 

 気がつくと唇を噛んでいた。静かに息を吐き出してアニヤは頭を切り替えようとする。まだ特区に入ってから二時間程度。まだまだこれから自分の知らないことが出てくるだろう。初めてのことは覚えていけばいい。わからない、理解できないということは恐怖ではない。

 

「いえ、別に……」

「心配するなよ、いろいろちゃんと説明するから。気になることがあれば都度訊いてくれればいいし」

 

 横目でダニエルを見ると、彼も横目でアニヤを見ていた。ミシェルの言葉が思い出される。

 

 ――こいつの目には気を付けな。抜け出せなくなるよ

 

「ありがとう……」

「さぁ、着いた。まずはここで腹ごしらえを兼ねてやるべきことを整理しよう」

 

 その建物にはアニヤが読めない文字が書いており、その下に特区標準語で、「ル・ジャルダン・セクレ」と書かれている。中に入ってアニヤは驚いた。屋根は全てガラス張りになっており太陽の光を存分に取り込んでいる。そして店内は広い庭になっていた。適度な間隔をあけて蔦で覆われた四阿が六つ建っている。端にはブラインドのように蔦が垂れ下がる屋根付きのカウンターとベンチが置いてあった。通路は赤レンガが敷かれており他は芝生で覆われている。地面からは定期的に水が撒かれているのでガラス屋根の割には室内は涼しかった。アニヤはそよ風が運んでくる草木の匂いを思い切り吸い込んだ。素晴らしい香りだった。

 

「ムッシュー・フォシェーン。いらっしゃいませ」

 

 昔話から飛び出してきたような初老の執事が、お手本のような特区標準語の発音で二人を出迎えた。

 

「フィリップさん、こんにちは。お昼時だったから新しい知り合いと昼食をと思って。四阿、空いていますか?」

「ありがとうございます。ご案内いたします。はじめまして、マドモアゼル。この店のオーナーを務めております、フィリップ・ルノワールと申します」

「は、はじめまして。アニヤ・プリンシラです」

 

 アニヤは右手を胸にあて少し深めに頭を下げた。いつの時代のどこの文化か忘れたが、未婚の男女をムッシュー、マドモアゼルと区別する文化圏があったことを思い出していた。確かそこの挨拶マナーはこのようにするはずだった。嬉しそうに微笑んでくれたルノワールを見る限り間違いではなかったようで安堵した。

 

「特区で初めての食事、いろいろ考えていたこともあるかもしれないがここなら間違いないからさ。良ければおれのおすすめにしようかと思うんだけど、どうかな?」

「そうね……あなたにお任せするわ」

「オーケー。コーヒーは飲める?」

「……? 飲めるに決まっているでしょう?」

 

 そう回答してアニヤはハッとした。ゲットーは特区よりコーヒーの消費量が多いと言われている。飲めない人ももちろんいるがそれは少数派で、大半の人が朝から晩までコーヒーを飲んでいた。

 ついその前提で回答してしまった。こちらではそうではないのだろう。しかし無神経だったと弁解する前にダニエルはニヤリと、「愚問だったね」と笑った。ダニエルはハムとチーズのパニーニときのこのオムレツ、コーヒーを注文した。

 

「さてと。ここは隣の席とも距離があって他人に会話を聞かれる心配がない。フィリップさんも客商売でその辺りもしっかり心得ている。まずはお互いの知っていることを共有しあおう。腕を伸ばして。時計の使い方を説明するよ」

 

 左腕をテーブルの真ん中に伸ばして二人で画面を覗き込む。一度タッチするとメニューモードになり、横に指をスライドすることで、発信、アラーム、ネット等と切り替わり、それぞれで上下に指をスライドすると個別にメニューがさらに表示される。決定はタッチ。時計画面に戻るときは画面を拭うように掌を動かす。マジックのようだった。

 

 メモ帳を選択すると、時計から半透明の画面とキーボードが空中とテーブルに照射された。キーボードの文字列はタイプライターと同じでコツを掴めば使えそうだとアニヤは感じた。これであればどこにいても腕時計さえあればメモを取ることができる。

 

「議事録はおれが取ろう」

 

 アニヤのメモ帳にダニエルの名前が表示される。そして、今日の日付や場所、そして参加者である二人の名前が入力された。

 

「というのも、おれが知っているのはこの町で魔術師が誰かを殺したらしいっていうことだけだ。おれの質問にきみが答える形で情報を埋めていこう」


 被害者の名前:

 アンニカ・レンホルム


 被害者の職業:

 第四区大学校植物研究所M2


 被害者の魔術色:

 青


 具体的な魔術仕様:

 有機物に活力を与える


 死因:

 不明。現場には青の魔術痕


 遺体発見場所:

 特区第四区繁華街路地


 被害者の所持品:

 現場より発見。金銭等残ったまま


 被害者の足取り:

 不明


 目撃者の有無:

 不明

 

 友人・恋人:

 不明


 暴行の形跡:

 なし


 家族:

 ゲットーにて父母ともに健在


「なるほど。意外に情報が少ないな……。犯行現場にいち早く言ってみたいところだけど、まだ鑑識がいるだろうし中に入るのは難しい。おれたちは警察が動く前に大学校を当たってみよう」

 

 ――特区の大学校……わたしが行くはずだった場所……。

 

「警察はまだ動いていない?」

「今ごろは会議室で捜査方針を決めているところさ。大学校っていう場所は警察との相性が悪いから制服組を行かせるわけにもいかないしまだもう少し時間があるはずさ。だからその前にほら、食事にしよう」

 

 まるで会話が終わるタイミングを見計らっていたかのように、ルノワールがワゴンを押して料理を運んできた。

 

「お口に合うとよろしいのですが、マドモアゼル・プリンシラ」

 

 運ばれてきた料理はどれも湯気が立っていて出来立てだった。パニーニのパンは自家製でオムレツの卵は契約農家から直接仕入れており、コーヒー豆は自家焙煎でドリップしたのは不肖ながら自分であると料理を並べながらルノワールは語った。

 ダニエルが無言で食事を促し、アニヤはパニーニを一口食べる。今まで食べたどのパニーニよりも美味しく、すぐにオムレツに手を伸ばした。オムレツに関して言えばアニヤが知っているそれとはまったく別物だった。その美味しさは衝撃的で食べる手が止まらない。ここまで来るとコーヒーに対する期待が否が応でも膨らんでいく。黒いその液体を一口静かに啜る。熱さが口、喉、食道、胃と伝わっていき、舌だけではなく身体全体でどっしりとした重い味わいを感じる。これがコーヒーだとしたら、ゲットーのそれはただの色水だ。

 

「美味しい……です……。どれもすごく美味しい! 食べ物がこんなに美味しいなんて知らなかった……!」

 

 ルノワールが安堵したように微笑む。

 

「お褒めに預かり光栄です。シェフにも伝えます。それではごゆっくり」

 

 ルノワールが立ち去るとダニエルも食事を始めた。

 

「美味しいでしょう? 第四区に来たならここは絶対外せない店だよ」

「料理で衝撃を受けるなんて思っていなかった。だって、基本的な人の営みはそこまで違いがあるとは思っていなかったから。現にここにある料理は全てゲットーにも存在するわけだし。なのに、なのに全然違うものだわこれらは。わたしが今朝飲んできたコーヒーは本当にコーヒーだったの?」

 

 ダニエルが静かに声を出して笑う。かれは心底おかしそうだとアニヤは感じた。たがそこに嘲りはない。純粋に今というひとときを楽しんでいる表情だった。

 

「どっちもコーヒーだよ。世界には、まだまだ色んなコーヒーがある」

 

 コーヒーカップを持ち上げてダニエルはアニヤを見つめる。

 

「ようこそ、特区へ」

 

 アニヤの頭の中でミシェルの言葉が思い出された。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る