第14話:名器・二



◆◆◆◆



 私たちは釣竿を垂らす男に背を向けて、敷物を敷いて座っていた。敷物の上にはマス目が描かれた布が広げられ、その上には駒が置かれている。私とリーシアが興じているのは仙碁ではなく「棋戦」だ。ドラヴィダの方で始まった遊戯らしいが、この国でも人口に膾炙している。これを職業とする棋士も多くいるため、無数の定石が編み出されていた。


「これは? 見たことのない盤面だな」


 私はリーシアの布陣を見て感嘆の声を上げる。私がリーシアの先鋒と交戦している間に、いつの間にか彼女の陣は万全の体制が整えられていた。まるで軍師に率いられる精鋭のようだ。


「『瑞雲飄々』。古い棋戦の本に載っていた戦法よ。あちこち欠けていたから、私独自の解釈が入っているけどね」

「ふむ、珍しいな」


 私は出過ぎた駒を自陣に下がらせる。


「『攻めは燎原の火のように、守りは湖底の亀のように』」

「石宗氏の言葉か」


 古の棋士の言葉をリーシアは引用しつつ、彼女はゆっくりとこちらに攻め込み始めた。


「ええ。常にそうできるわけじゃないけど、今日は試してみようかしら」

「いつもと違う勝負になりそうだ。面白い」


 私は陣を変えてリーシアの駒を迎え撃つ。ホアンが干した棗を木皿に並べて私たちのそばに置いた。リーシアの陣形が変わりつつある。


「『追随星々、抓住竜尾』か。美しい布陣だ」

「ここまでうまく形になるのは嬉しいわね」


 リーシアは得意満面の顔で言う。勝負とはいえ、彼女が望んだような形で棋戦に付き合えたのは私としても嬉しい。


「旦那様も奥方様も、すごいですね」


 ホアンが感心したようにつぶやく。振り返ると、ホアンの視線は盤上に釘付けになっていた。


「棋戦は分かるか?」

「旦那様に拾われる前に、道端で爺さんたちがやっているのを見ただけです。でも、俺が教わった武術と似ていると思います」

「なるほど。両者は陰陽の流れに通じるということか。特にこの辺りが……」


 私が盤面の一部を指さしてわざと声を上げた時だった。


「――ええい! お前たち、わざとやっているな!?」


 しびれを切らしたような声が上がった。そちらを見ると、あの男が釣竿を置いて立ち上がっていた。


「俺の近くであれこれ言われると気が散ってしょうがないわ!」

「あら、何のことかしら」


 リーシアはわざとらしく口元を覆う。


「私たちは、あなたの釣りの邪魔にならないよう、離れたところで棋戦をしていただけよ。それとも、まさか湖中の魚に駒の動きが見えるのかしら? ねえ?」


 リーシアが私に同意を求めたので、私は大げさにうなずいた。


「分かった分かった。今日の釣りはもう終いだ。おい、もっとよく見せろ」


 男は背中をぼりぼりとかきながら私たちに近づく。


「ええ、どうぞ」


 リーシアが鷹揚に促す。


「ふむ――――」


 男は顎をさすりつつ盤面をのぞき込み、しばらくしてから感嘆の声を上げた。


「なるほど。バカではできない駒の配置だ。おい若造、お前このままではこの女に大敗だぞ。俺も知恵を貸してやろう」


 男が私の隣に腰を下ろした。ひどい悪臭がする……と思いきや、何の体臭もしない。


「おいおい、この配置でこの駒の置き方はないだろう。いくらなんでも手薄すぎる。ここの駒をこっちに……」


 と手を伸ばした男を、私は止める。


「君の助けはいらない」

「なに?」

「私は妻と遊戯を楽しんでいる最中だ。そこでのんびりと待っていてもらおうか」


 男が私たちを待たせたように、今度は私たちが男を待たせる番だ。


 私の意趣返しの言葉に、男は露骨に顔をしかめた。


「ちっ、いけしゃあしゃあと」


 言いつつ、男はごろりと寝そべって頬杖を突きつつ盤面を眺め始めた。ホアンが嫌な顔をしたが、男はまったくそちらに目を向けることはない。結局その後も私はリーシアにいいように翻弄され、ものの見事に負けたのだった。



◆◆◆◆



「いやはや、久しぶりに気風のいい棋戦を見たぞ。若造のちゃちな布陣が竜の尾で薙ぎ払われるのは笑えたなあ」


 棋戦を終えた私たちは昼食にしていた。リーシアは男に持ってきた食事を勧めたが、男は断って干したイモと魚をかじっていた。


「仙碁も棋戦も打ち手の性が出る。若造の手は育ちの良さが丸見えだが、お前さんのは見ていて面白かったぞ」


 男は印紙で沸かした茶を飲むリーシアに言う。


「謎めいていて繊細なようでいて、その実何物にも動じない打ち方だ。いざとなった時には大胆な一手で圧倒する」

「それは褒めているのかしら」

「無論よ」


 男の返答に、リーシアは目を細めて微笑む。結局男は私たちの皿には箸をつけなかったが、リーシアの差し出した茶だけはうまそうに飲み干した。


「それで、俺に何か用でもあるのか?」


 魚の骨を歯の隙間から引き抜いて捨てながら、男は私に問う。


「ああ。忘れ物だ。これを届けに来た」


 私は草を食むロバの背の荷から、あの時男から渡された器を取り出す。


「おお。そうだったな。すっかり忘れていた。よこせ」


 男が手を出すので、私はその器を渡す。明らかに男は忘れている様子ではなかったが。


「良い器だな」

「ああ。本当にそうだ。もっとも、美しさが本当に役に立つのは、それが高値で売れて作った奴の懐を潤した時よ。商人のお前さんなら分かるだろう?」


 男は私が渡した器を手で撫でつつ、にやりと笑った。


「ちなみにこいつは夫婦の夫の方の器だ。もう一つ対になる妻の器がある。二つそろえてようやく完成する代物だ」


 男が敷物の上に器を置く。私とリーシアの目がそこに注がれた。この器の隣に片割れがあるのを想像する。そう言われると、確かに納得できる形だ。


「どうだ、お前さんと細君がそれぞれ持てば映えると思わんか?」

「実に興味深いな」


 男の話術は巧みだった。ああ、この手合いは何度も出くわした。大抵はがらくたを至宝として売りつける輩だが。


「俺は李富(リー・フー)。まあ……職人だ」

「陶工か?」

「どうでもいいだろう。そんなことは」


 私の追及を、男は煩わしそうに手を振ってかわす。私もそれ以上問わない。どうせ真実を語ることはあるまい。


「お前さんたちは見どころがある。金の勘定しか頭にないバカでもなければ、家名しか取り柄のないアホとも違う。俺はお前たちが気に入った」

「光栄だな」


 私は皮肉でそう言う。ようやく名乗ったフーという男だが、正体不明に変わりはない。当たり前のようにリーシアが了家の令嬢であることも知っている。侠客の元締めか、それとも匪賊の頭目か。少なくとも害意はないらしい。いきなり周りから武器を持ったごろつきたちが出てくる気配はない。仮に出てきても、私たちにはホアンがいる。


「そんなお前たちを見込んで、一つ頼みがある」


 フーが起き上がると居住まいをただす。


「うまくいったら、この器の片割れもやろうじゃないか。それに、お前さんのような商人にとっても悪い話ではないと思うぞ?」

「聞かせてもらおうかしら」

「話だけは聞く価値がありそうだ」


 私たちが即答すると、フーは器を私たちに押しやりつつ口を開いた。



◆◆◆◆



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