第3話:誓言
◆◆◆◆
思いのほかグエンの出した酒が美味く、私は自分が酔っていることを自覚していた。これはありがたくもある。仮にリーシアが私を気に入らなくても、さっさと形ばかりのやり取りで済ませられるからだ。リーシアの私室に入ると、寝台の上にリーシアが腰かけていた。婚礼の衣装はもう脱いでいて、絹の寝間着を身にまとっているだけだった。
華奢ではあるが、虚弱ではない体つきだった。手足はほっそりとしていて、余分な贅肉がない。もっとも、たしなみで剣を振ったり馬を乗りこなしたりしたことはないだろう。すらりとした彼女の長い脚は魅力的だった。つくづく、私自身も暴飲暴食を控え、適度に体を動かしていて良かった。彼女の側に立って釣り合う夫でなければならない。
私はリーシアの色香に誘われるようにして、彼女に近づいた。すると、彼女はこちらを向いた。
「……遅いわよ」
婚礼の時と同じ、気の強そうな、まるで人に慣れないヤマネコのような女性だ。外見的に言えば、遠目に見れば少女と言っても通じるかもしれない。もっとも、今夜からは人妻だが。私の妻だ。
「夫と交わす最初の言葉がそれか?」
「当然でしょ。それとも何かしら? 人形みたいに黙って何もかも言いなりの女が好み?」
「いや。そういう女性は好きではない。私にも意志はある。君だってそうだろう?」
「もちろん。でも、私の意志を曲げさせるつもりなら、それなりの覚悟はしてもらうことになるけどね」
リーシアは挑発的な視線を向ける。
どうやら彼女は思った以上に負けん気が強いようだ。
「期待はずれだったかしら? 平伏してあなたに『了家にご助力いただきありがとうございます。これより身も心もあなた様に捧げます』と媚びた方がよかった?」
彼女は小首を傾げて言った。
「そんなことは望んでいない。君は今日から私の妻だ。奴隷ではない」
私はそう言うとリーシアの肩に手をかけた。そしてそのまま唇を重ねる。最初は抵抗するかと思ったが、意外にもすんなりと受け入れてくれた。目を横にやると、寝台の近くに葡萄酒の瓶があった。侍女が持ってきたのだろう。酒の味のせいか、リーシアの口内はひどく熱かった。口を離すと、彼女は吐息をつく。その目は潤み、頬は紅潮している。
「ずいぶん積極的だ」
私はそう言ってリーシアの髪を撫でる。
「少なくとも、悪趣味な中年に嫁いだわけじゃないからほっとしているわ。あなた、そこそこいい顔だし。今の口づけも優しかった。ただ……」
「ただ?」
「家柄が、ね。淘家って成り上がりでしょ? 壮の建国時から名がある了家に比べれば、まだまだよちよち歩きの子供みたいなものよね」
リーシアは当然のような顔でそう言う。了家という自分の血に絶対の自信と重きを置いているのがよく分かる。たとえ没落したとはいえ、龍を支えた大貴族の血は未だに健在と言ったところか。確かに、彼女からすれば私の淘家など新参者もいいところだ。実際私の家は豪商だが、歴史という点で言えば、大抵の貴族には鼻で笑われるほどの浅さだ。
「それはどういう意味だ?」
「別に、深い意味では言ってないわ。ただ、少しだけ不安になったの。あなたがどんな人かよく知らないし」
複雑な女性だ、と私は思った。了家の女性という自尊心の高さと、一人の等身大の女性としての不安。その二つが彼女にある。私に向けるのはその両方の顔だ。しかし面倒だとは思えず、不思議と惹かれてしまう。
「乱暴なことはしない。けれども、夫婦となった以上、形だけでも親しくしておかないと周りもうるさいだろう」
「ええ。分かっているわ。私だって了家の女だもの」
そう言ってリーシアは私にそっと体をあずけて耳元で囁く。
「ひどいことをしたら噛みつくから」
「善処しよう」
私は苦笑しながら答えた。
◆◆◆◆
朝日が昇るのを、私はリーシアの私室の窓から見ていた。豪商の息子として、早起きは心がけている。朝日を見るのは珍しくはない。しかし、不思議と川面を照らす朝日を見ていると、心が高揚するのを感じていた。私が妻を迎えて最初の朝だ。もう私は独り身ではない。それはつまり、家族という責任を負ったのだ。その事実に身が引き締まる思いだった。
振り返って寝台を見ると、リーシアはまだ眠っているようだった。ほっそりとした上半身が上下に動いている。起きているときは気の強いヤマネコのような女性だったが、こうやって眠っていると可愛らしいネコのように思える。
「リーシア」
名を呼ぶと、彼女が小さく身じろぎする。私は椅子から立ち上がって寝台に腰かけ、彼女の頭を撫でてやった。
「夫として君を誰よりも大切にするつもりだ、リーシア」
寝ている相手に言うのは卑怯かもしれない。しかし、起きているときの彼女に言うのは少しだけ照れ臭かった。だから私は、彼女が眠っているときにそう言ったのだが。
「……そういう大事なことを、私が寝ているときにこっそりと言うのはどうかと思うわ」
リーシアは私の言葉を聞くや否や、目を開いてそう言った。
「起きていたのか」
「ええ。さっき目が覚めたところよ。あなたの気配が離れたから」
「すまない。寒かったか」
「そうじゃないわ。少し寂しかっただけ」
リーシアはそう言いながらも微笑んでいた。
「不思議ね。昨日までは一人なのが普通だったのに、今朝は一人だとなぜか物足りないわ」
くすくすとリーシアは笑う。その無邪気な笑いに胸が高鳴った。まるで少年のように初心な反応だな、と私は自分でも思う。
「……あら、こんなところにあったのね」
ふと、リーシアが目を落とした。家具に隠れるようにして、天胡という弦楽器が置いてあった。寝間着の襟元を直すと、リーシアはそれを手に取った。
「弾けるのか?」
「もちろんよ。しっかり教え込まれたわ」
「花嫁修業の一環か」
「違うわよ。教養の一つ。もっとも、今は私自身気に入ってるけどね」
そう言うと、姿勢を正してから弓を手にリーシアは天胡を弾き始めた。緩やかな曲調は、どこか物悲しい印象を受ける。美しく、ぴんと張った弦の音は、リーシアと良く似ていた。
「これはどういう曲なんだ?」
「『月下独行』っていうの。私の母の故郷を思う曲」
「月の下で独り行く……か」
思えば、リーシアの顔立ちは少し異国めいている。彼女の母は北方に住まう神秘の種族の血を引いているのだろうか。再びリーシアは天胡を奏で始めた。私は歌はあまりうまくないが、詩の類はいくつか覚えている。
「紅豆生南國
春來發幾枝
願君多采擷
此物最相思」
私が暗唱すると、リーシアは演奏を止めて私を見た。そして嬉し気に笑みを浮かべると、もう一度曲を奏でる。今度は先ほどよりも軽快な曲だった。
「あなたがそんなに博識だとは思わなかったわ。しかもそれ、恋の歌ね」
「そうだ。題名は『相思』。意味は、お互いに思い合うことだが……」
「私のことを想ってくれてるってことでしょ? 嬉しい」
リーシアにそう言われると悪い気はしなかった。彼女が弾き終えると、私は一介の聴衆のように手を叩いた。
「素晴らしいな。こんなに良い天胡を聞くのは久しぶりだ」
「そう」
天胡を寝台に置き、リーシアは私を見る。
「夫の口下手に呆れたか?」
「逆よ。思ったより嬉しかったわ。妻として夫に褒められるのは、ね」
リーシアは再び私に口づけをした。
◆◆◆◆
(注:オリジナルの漢詩は無理でしたので、実際にある漢詩をフレーバーとして引用しています)
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