第22話:皇后



◆◆◆◆



 瑪妃の住まう薬籠宮は、元々は医薬と医書の保管庫だったらしい。それを瑪妃が「ここが気に入ったわ」と言い放ったことから、皇帝が嬉々として後宮に作り替えたというのだ。噂話では、薬湯の川が流れ、仙郷の薬草がそこかしこに植えられ、麒麟や鳳凰が放し飼いにされている贅沢三昧の場所ということだった。でも……。


 私、了理夏が皇后付きの侍女に案内されてやってきたのは、古今東西の医学書と薬草の標本、そして大量の病症録が保管された、贅沢とは程遠い書庫のような場所だった。


(噂とはまったく違うわね……)


 私が周囲に目を配っている間に、一番奥の部屋にたどり着いて扉が開けられた。私はすぐに平伏する。ユエンの妻として恥ずかしい振る舞いはできない。


(実家の父たちがこれを知ったら、妬みのあまり奥歯を噛み砕くことでしょうね)


 ふと、私の脳裏に実家の面々が思い浮かぶ。了家の再興という妄執に呑み込まれた祖父。その複製のような父。父に追随する兄たち。そして劣等感に取り憑かれた姉たち。彼らと彼女らが必死になっても届かなかった、壮の権力の中心にして頂点に私は今相まみえている。


 けれども、私の心に野心はない。枯れかけた了家の血を、龍の権力で再び蘇らせようという思いはない。私たちの血は、もうとっくに老いているのだ。それに気付いたのは私と私の母だけだったけれども。暗く淀んだ了家の中から連れ出してくれたのは、私の夫ユエンだった。確かにそれは皇帝陛下の決めた婚姻だ。でも、私の手を彼は取ってくれた。


 商人の家に嫁がされると聞いたときは、恥辱のあまり死にたいくらいだった。私という個人が、了家のための踏み台にされると知ったからだ。父も兄も満足げに「ようやくお前も家の役に立つときが来たか」と言っているのを見たとき、私は彼らが自分とは違う別の生き物に見えた。けれども、婚礼の席でユエンを見たとき、私は彼のことを思い出した。


 私が幼い頃、陛下の城の庭園で出会った男の子。精一杯背伸びしていた私に、戸惑いながらも一緒にいてくれた少年。その子が、成長した凛々しい青年になって私の隣に座っていた。淘家は血も涙もない守銭奴ばかりの家だと散々に言われていたけれども、嫁いでみてそれが根も葉もない噂だと言うことを自分の目で知ることができた。


 ユエンは公明正大で、非凡な商人だった。下々の者にも優しく、取引は常に正しく行われることを重視している。幼い時はあどけなかった容貌は、知らない人には計算高そうに見られる怜悧なものに変わっていたけれども、時折少年の時の穏やかな顔に戻ることがある。何よりも、私に夢中なその顔は、見ていて可愛らしく思えてしまうことだってある。


 ……回想はわずかな間だ。扉の両側の侍女が一礼する。


「了理夏、お招きいただき光栄に存じます」


 そう、私は今、皇后である瑪妃の私室に招かれているのだ。


「――入りなさい」


 奥からそっけない声が聞こえた。昼間の謁見の間で聞いた、媚びるような甘えるような声とは正反対の落ち着いた声だった。


 ――薬籠宮の最奥。皇后の住まい。そこは確かに華やかな造りだった。けれども、貴族の屋敷と同程度の内装だ。了家の方が余程金をかけているような気さえする。瑪妃は奥で椅子に座り、卓に置かれた沢山の本の中の一冊を熱心に読んでいた。


「散心丹は気の病、心の疾患に効くとあるけど、これでははっきりしないわね。精神の病に必要なのは――」


 読みかけの本に長い爪が目立つ指を挟み、瑪妃は私の方を見た。


「何だと思う? 肉体の病とは異なり、心魂の病は患部が目に見えないのが難点ね。これは、医師は患者に処方する際に行うことと同じよ。あなたはどう答える?」


 私は少し考える。医学における四診のことだろう。望診、聞診、問診、切診。見えない病気に対する方法といえば……。


「傾聴でしょうか?」

「正解。心は言葉を生み、言葉は心を解きほぐす。まずは患者に語らせ、それに医師は耳を傾ける。自ずから病の原因を悟らせる必要があるわね」


 瑪妃は満足げにうなずく。


「宮中は閉鎖的で気苦労も多いでしょ? 心を病む高官は結構いるのよ。彼らにどうやって治療を受けさせるのかが悩みの種ね。心の病も体の病と同じなのに」


 そこまで言ってから、瑪妃は本を閉じて私に向き直る。


「ああ、悪かったわね、いきなり私の話に付き合わせて。あなた、賢いからちょっと質問してみたかったのよ」


 瑪妃は自分の卓へと私を手招きする。


「こちらに来て座りなさい。そこだと話しづらいわ」


「恐れながら、陛下と卓を囲むなど……」


 さすがにちょっとそれは私としても気が引ける。


「はいはい。ここは外と違って権力とか面子とかに囚われない場所よ。女同士、本音で語りましょう?」


 私の反論に対して、瑪妃はうっとうしそうに手を振る。そこまで言われてしまえば、私としてもこれ以上断る方が無礼となるに違いない。


「失礼いたします」


 私が卓に近づくと、すかさず侍女が椅子を引いて座るよう促す。


「まずは、今日はありがとう。あなたとの棋戦、とても楽しかったわ」

「お褒めにあずかり光栄です」

「まだ堅苦しいわね。私、皇后なんていっても元々は医官の娘よ。むしろ、以前はあなたより身分が下だったんだけど」


 瑪妃はそう言うが、私としては「はいそうですか」といって相好を崩すほど愚かではない。いつ豹変するか分からないからだ。


 侍女が私と瑪妃に碗を運んできて卓に置く。気持ちの和らぐ芳香が湯気に乗って漂う。


「お飲みなさい」

「いただきます」


 私はそっと碗に口をつけた。わずかに甘く、ほっとする味だ。


「生姜に蜂蜜、不凍果と月魄樹の樹皮、それと豊麗芝を煎じたものよ。安眠だけじゃなくて、よい夢を見られる効能もあるわ」


 瑪妃も自分の碗から中身を静かに飲む。外見はまだ少女だけど、こと医薬に関しては父親譲りの知識があるのがよく分かる。そして同時に、昼間の媚びた態度との違いに驚くばかりだった。


「ねえ。もう少し棋戦について語り合いましょう。いいでしょ?」


 瑪妃の誘いに私はうなずく。


「はい。喜んで、皇后様」



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