序章『少年と少女の青』
前日譚
「海と空とは同じ青なのに、なぜこんなにも色が違うんだろう?」
四歳の少年にとって、それはとてつもない難題であった。
海水には大気よりも多くの青が溶け込んでいる?
だとしたら、その出処は一体どこなのだろう?
少年は数分のあいだ思考を巡らせたのちに、小さくため息をつきながら砂の上に腰を下ろした。
自身が生まれてから培った経験や知識では、到底正しい答えを導き出すことは出来ないと悟ったのであろう。
少年が砂の上に咲き乱れる可憐な花たちに寄り添われながら、八月の海を吹き抜ける風を小さな身体に受け佇んでいると、ふいに空を流れる白く大きな雲が太陽を覆い隠した。
その途端、世界から急速に色が失われる。
白と黒に支配された仄暗い景色の中で、この
もし彼が大人であったなら、その押し黙ったような存在感に恐怖を覚えたことだろう。
しかし、少年はその幼さ故か、それとも彼の眼前に広がる景色は依然として色に満ち溢れていたのか――それは定かではないが、この広い世界に唯一遺された色彩に触れようと、波打ち際へと一歩を踏み出す。
あと数歩で足が波に触れようかというところまで進んだ、その時だった。
風に乗って鈴の音が聞こえたような気がした少年は、その小さな歩みをおもむろに止める。
次第に大きくなるその音は、やがて彼のすぐ後ろにまで迫っていた。
少年が振り返ると、そこには小さな鈴のついた麦わら帽子を被った少女が、ただ真っ直ぐに彼を見据えて立っていた。
「こんにちは!」
麦わらの少女は大きな声でそう言うと、白いワンピースの裾を風に
その背格好から少年と少女は同じくらいの年齢に見える。
「ここのうみはね はいったらだめなんだよ?」
少女はすぐ目の前にある海を指し示し、少しだけ悲しそうな表情を浮かべ見せた。
「むかしね うちのママのおねえさんがね ここでおぼれてしんじゃったっんだって」
「……うん。入らないでおくよ。ありがとう」
「どういたしまして!」
少女はそれだけ言うとポケットから小さな塊を取り出し、手のひらにちょこんと乗せたそれを少年の眼前に差し出す。
「これ あげる!」
「いいの?」
「うん!
少年はその言葉の意味を――恐らくは少女自身も――正しく理解していなかったが、彼は彼女の目を見たままでその小さな青い塊を受け取った。
「ありがとう」
「うん! それね おそらのいろみたいでしょ? わたし うみのあおいいろよりも おそらのあおいいろのほうがすきなの!」
「そうだね。僕も空の青のほうが好きだよ」
互いに幼い笑みを浮かべたふたりは、どちらかともなくその視線を海の方向へと向ける。
「本当に青いね。海も、それに空も」
「うん! えのぐのあおいいろみたい!」
それは本当に少女の言ったとおりで、真っ白な砂のキャンバスの上に幾重にも塗り重ねられた油絵の具のような青だった。
「そろそろ帰りますよ」
不意に背後から聞こえた声に、少年は驚いて振り向く。
そこには白い日傘を差し、胸に赤ん坊を
女性は少年と目が合ったその途端、もとより大きな瞳をより一際に見開く。
だが、それはほんの僅かな間の出来事で、次の瞬間には白く細い手を自らの口元にあてると、少し
「あら? もしかしてボク、うちの子のボーイフレンド?」
その言葉の意味を知っていた少年は顔を赤くし、少女はどんぐりのような目を一際まるくしただけだった。
「またね!」
「うん。いつか、また」
手を振り去っていく母娘を見送りながら、少年は不思議な気持ちになっていた。
それは今日、この時に初めて逢ったはずの少女と母親のことを、まるで昔から知っていたような、そんな懐かしさにも似たような得も言われぬ感情だった。
いつの間にか海が凪いでいた。
少年は手の内に握られたままになっていたシーグラスを人差し指と親指で掴むと、八月の澄み切った空に向かってかざす。
それは本当に空とまったく同じ青色で、まるで指の間には何も挟まれていないようにすら思えた。
『わたし うみのあおいいろよりも おそらのあおいいろのほうがすきなの』
少女の言葉を思い出した少年は、その宝物をポケットの奥底へとしまい込むと、自分以外に誰も居なくなった夏の海をあとにした。
このあと彼は、親に黙って一人で海に行ったことを大いに咎められることになるのだが、今はただ幸せな気持ちに胸を踊らせるがままでいた。
遥か地平の彼方まで続く畑の、その中心を真っ直ぐに伸びる赤土の道を、少年は覚えたばかりの下手くそなスキップで駆けて行く。
その小さな背中に海の青と空の青の、ふたつの青を背負いながら。
終
海の青より、空の青 青空野光 @aozorano
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