白いワンピースの少女

「あの、大丈夫ですか?」


 空の青を背景にして俺の顔を覗き込んでいたのは、中学一年の夏にこの場所で出会い、この場所で離れ離れとなった少女だった。

 言葉が出てこなかった。

 それどころか自分がどこで何をしていたのかすら思い出せない。

 どこからか波の音が聞こえる。

 ああ、そうだった。

 俺はいま、海にいるのだった。


 不安げな眼差しをこちらに向けていた彼女は、俺が黙ったままでいたせいか、怒っているのだとでも勘違いをしたのだろう。

 消え入りそうな声で「あの……ごめんなさい」とつぶやき、顔を伏せてしまう。

「……志帆ちゃん」

 乾ききった喉の奥から渾身の思いで彼女の名を発する。

 改めて目にした彼女は、あの夏と同じような大きなリボンの付いた麦わら帽子を被り、あの夏と同じような膝丈の白いワンピースを身に纏っていた。

 四年前のあの日とあまりに変わらないその姿かたちに、俺は自分までもがその時代に戻ったように錯覚する。

 しかし、実際はそんなわけなどあろうはずもなく、俺はあの頃に比べれば体つきや顔の印象も随分と違っていたはずだ。

 だからだろうか。

 彼女は自分の名を呼んだその男が、一体何者なのか気付くことができずにいるようだった。

「あの、俺……杉浦の」

 杉浦とは祖父母の家の姓なのだが、初めて会った時にも同じ様なことを言った記憶があった。

 彼女の薄くて形の良い唇が『すぎうら』と微かに動く。

 次の瞬間、長い睫毛の下にある黒曜石のような大きな瞳に、急に明かりが灯ったようにみえた。

「もしかして、夏生さん……ですか?」

 彼女はあの夏、俺のことを『夏生くん』と呼んでいたはずだった。

 四年という歳月のせいだろうか?

 それとも予期せぬ再会だったせいだろうか?

 彼女との間に、以前は存在しなかった溝のようなものを感じたが、平然を装って彼女に話しかける。

「久しぶり。こっちに戻ってきてたの?」

 情けないことに声が震えていた。

 自分では見ることができないが、きっと表情もそれと似たようなことになっているのだろう。

「あ、いえ。あの、こっちのおじいちゃんが去年の今頃に亡くなって。それで今日は法事で」

「……そうなんだ」

 そこで会話が途切れてしまう。

 何を話せばいい?

 まずはお悔やみを述べるべきだろうか?

 いつまでこっちに居るのかも聞きたかった。

 話したいことは沢山あったはずだし、何より伝えたい言葉があったのに。

 自分の情けなさと歯がゆさに、いつの間にか手を突いていた地面の砂を握りしめていた。


「あの」

 彼女の声が少し遠くで聞こえ、慌てて顔を上げる。

「ごめんなさい。私、そろそろ行かないと……」

 ああ、そうだったのか。

 ああ、そういうことか。

 あの夏の日の思い出を宝物のように、ずっと胸の奥底に大事に仕舞い込んでいたのは、どうやら俺だけだったのだ。

「うん。元気でね」

 もう少しくらい気の利いた言葉は幾らでもあったはずだ。

 ただ今の俺の精一杯は、そんな味気のない別れの挨拶だった。

 本当はすぐにでもここから走り出し、彼女の視界から消えてなくなりたかった。

 でも、それではあまりに惨め過ぎる。

 俺は座ったまま海の方に向き直ると、まるで何もなかったかのように水平線の上に浮かぶ入道雲へと視線を向けた。

 しかし、その直後に再び背後から「あの」と声が聞こえた。

 彼女の記憶にある俺の最後の顔が、情けのない泣き顔などということだけは、絶対に避けたかった。

 故に予期せず届いた声に、俺は振り返ることができなかった。

 せめて返事だけでもと頑張ったが、それすら叶いそうにない。

 そんな益体なしの背中に、鈴のような彼女の言葉が届く。

「夏生さん。私、明日の夕方の四時頃に、またここに来ます。だから――」

 思わず振り返りそうになってしまうのを寸でのところで耐える。

「何があっても必ず来るよ」

 掠れてしまいはしたが、今度は何とか声にすることができた。

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