或る夏の日

 砂の上にできた水たまりを避けてその横に腰を降ろすと、彼女も少し離れたところで膝を曲げ、ワンピースの裾をふくらはぎと腿の間に挟んでこちらを向いた。

 よく手入れされた細く長い黒髪が、海から吹く風にサラサラと揺れ煌めく。


「あの。このあたりの方ですか?」

「ううん。近くにある母親の実家に来てるだけ。杉浦っていうんだけど」

 彼女の薄く形の良い唇から「あっ」と小さな声が漏れる。

「あのお庭の立派なお宅ですか?」

 どうやら祖父ご自慢の庭はこの辺りでは有名らしい。

 そういえば五月の連休には近所の人を招いて、藤棚の下でちょっとした花見会をしているようなことを祖母から聞いたことがあった。

「多分そこで合ってる。えっと――」

「私は志帆しほっていいます。うちはそこよりもう少し西の、小谷おだにの方にあるんですけど……わからないですよね」

 彼女が言っている辺りに小さな集落があることは知っていたが、果たしてそこのことで合っているのかはわからなかった。

「あ、僕は夏生。中学一年」

「それじゃあ私と一緒ですね! 少し年上の人かと思いました」

 僕は逆に容姿からして少し年下だと思っていたのだが、言われてみれば小学生にしては言葉遣いが大人びていた。


 幼少の頃より年の近い従姉と過剰ともいえるスキンシップを重ねていたせいだろうか。

 まだ出会って十分かそこらの彼女に対し、同じクラスの友達とでも話すような気兼ねのなさで打ち解けかけていた。

 彼女も初めは年上の人にするように丁寧な言葉を選んで話していたが、次第に年相応で同級生に対するようなフランクなそれへと変わっていった。

「夏生くんはバスケ部なんだね。それでさっきはあんなに高くジャンプ出来たんだ」

 そのことは今すぐにでも忘れて欲しかったのだが、彼女は純粋に僕の跳躍の高さを褒めてくれているようだった。

「あんまり上手くはないけどね。志帆ちゃんは?」

「私は吹奏楽部なんだけど、部員が少ないから夏休みはほとんど練習もなくって」

 彼女の話によると、部員の人数以上に顧問があまり部活動に熱心なタイプではないらしく、夏休み中の活動は週に一度の全体練習を除けば、ほとんどは各自の裁量に委ねられているそうだ。

 うちの学校の吹奏楽部の顧問は運動部以上に熱血なことで有名だったので、その差たるやといった感じである。


 互いの学校生活やこの辺り地理の話をしていると、いつの間にか空の色に夕日の成分が混ざり始めていた。

 すっくと立ち上がった彼女は、ワンピースの裾を手で伸ばしながら「夏生くんはいつまでこっちにいるの?」と訊ねてくる。

 今年は祖父のこともあってか例年よりも一日だけ長く、十七日の夕方まで滞在する予定になっていた。

 それを伝えると、彼女は水平線の彼方へと視線を向け何かを考えるような素振りを見せたあと、再びこちらに向き直ると口を開いた。

「あのね、夏生くん。明日はお時間ってある?」

 実は僕も彼女にそれを言おうと思っていたところだった。

 こちらに友達といえる存在が――あっちゃん以外――いなかったということもあるが、単純にもっと彼女のことを知りたかったし、僕のことももっと知ってもらたかった。

「えっと、じゃあ――」

 そう言いながらこの辺りの地図を頭に思い描いてみたが、ほとんど空白だらけのそこには、炎天下を避けて話が出来るような場所を見つけることが出来なかった。

 眉間にシワを寄せて悩んでいる姿を見て察してくれたのだろう。

「夏生くん。西にししまにあるコジマさんっていう酒屋さんってわかる?」

 ニシノシマという地名はわからないが、その酒屋は母と一緒に何度か行ったことがあったし、歩いていける範囲内でもあった。

「うん。自動販売機がいっぱいあるところだよね?」

「そうそう! そこに明日の三時頃って……どう?」

 明日も午前中は祖父のお見舞いに行く予定があったが、午後はといえば完膚なきまでに暇を持て余していた。

「必ず会いに行くよ。どんなことがあっても」

 そう口にしてから言葉のチョイスを間違ったことに気づく。

 昔から僕はいちいち表現が大袈裟なのだ。

 今にしても「うん」とか「わかったよ」とでも言っておけばいいだけの場面なのに。

 案の定、彼女はただでさえ大きな目をさらに見開くと、次の瞬間には頬を夕日のように赤く染めてしまった。


「バイバイ夏生くん! また明日!」

 長い影を引き連れながら、砂浜を西の方角へと去って行く彼女の姿を見送ると凪いだ海をあとにする。

 ほんの何時間か前まで、これでもかというくらいに鳴き声を上げていたアブラゼミは、いつの間にかその役割をひぐらしに明け渡していた。

 巣へと急ぎ戻る足取りが往路のそれよりも軽やかなことに気が付き、自分は昆虫ほどに単純な精神構造をしているのではないかという疑念が生じる。

 だが、それで誰かに迷惑を掛けるわけでもないのだから、この際カブトムシでもクワガタでも何でもよかった。


 家につくと家族に気づかれぬよう気配を殺し、まっすぐ風呂場に向かう。

 脱衣所ではなく浴室に入ってから脱いだズボンからは大量の砂が落ち、足元には小さな砂の山が形成された。

 この光景をもし母に見られでもしたら、『あんたは中学生にもなって』と小言を言われるのは目に見えている。

 服についた砂を可能な限り落としてからシャワーで床を洗い流す。

 そうして証拠を完全に消し去ってから、ようやく自分の身体にシャワーを当てた。

「イ!」

 あれだけ長いあいだ海にいたのだから当然といえば当然だったが、夏の日差しに焼かれた肌が湯にみて声が出てしまう。

 今夜は湯船に入るのはやめておこう。


 晩御飯は僕の大好物のひとつであるカレーだった。

 母の作るそれは大きな具の入った海賊仕様な上に、季節の野菜をその日の気分で採用していた。

 ちなみに今日は茄子と冬瓜が投入されているようだ。

 夕食を終えると同時に催促されたわけでもなく宿題に着手した僕の姿を見て、伯母は「夏生ちゃんの自主性を明日那にも見習って欲しいわ」とぼやいた。

 そうは言うが、あっちゃんは部活動のみならず学業でも優秀な成績を修めているということは、以前に母から聞いて知っていた。

 勉強も運動も自他ともに認める十人並みな僕に言わせれば、むしろそのどちらにも優れている彼女を見習いたいくらいだった。

 それに加えて容姿も性格も人並み以上なのだから、学校ではきっとモテているのではないだろうか。

 そういう僕も彼女のことが大好きなのだが、そのスタンスがどういったものかは自身でも理解できていない。

 友達としてなのか?

 異性に対するものなのか?

 それとももっと単純に、あっちゃんという人が好きなのか?

 考えたところできっと答えなどでないだろうし、もっといえば理由などどうでもよかった。

 どうであれ、僕はあっちゃんが好きなのだから。


 一時間ほどでようやくノルマを達成し、座ったままで大きく伸びをしながら少しだけ休憩する。

 五分間の休憩を挟んでから、再び宿題のテキストに視線を落とした。

 その理由はもちろん、明日自由に使える時間を増やすためだった。


 さらに一時間が過ぎた頃、ようやく残業を終えて壁の時計に目をやる。

 まだ十時を少しばかりを回ったこの時間は、例年お盆であれば『怖いテレビ』を見ている頃だったが、明日の朝は祖父のお見舞いに行く前に少しだけやりたいことがあったので、今日はちょっとだけ早く夏の一日を終了させることにした。

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