海の青より、空の青

青空野光

第一章『高校2年』

終業式

 人は学校長という役職に就くと長話になるのか?

 それとも、もともと多弁な人間が校長職の適正が高いのだろうか?


 うちの高校の校長もその御多分に洩れず、まさにそういった類の人種であった。

 既に終業式の半分以上の時間が、彼の利己的で退屈な長講により費やされている。

 七月下旬の体育館は、扉という扉が全て開け放たれているとはいえ、七百人からの生徒と教員の熱気でサウナの様相を呈していた。

 このままだといずれ参列者の中から、人死ひとじにが出るのではないか?

 そんな心配をしていた、まさに最中さなかのことだった。

 バスケットボールを無造作に放り投げたような、エコーが掛かった大きな音が体育館に響き渡り、それにやや遅れて生徒たちがざわつき始める。

 気の毒にも校長の長話の餌食となったのは、体の線が細い文化部の生徒でもなければ、今年着任したばかりの若い女性教諭でもなく、生徒からの人望は薄いがその屈強振りには定評があった男性体育教諭だった。

 他の人間たちが、まるで熱病でも患っているかのように顔を真っ赤にしている中、ただ一人だけ安物の白磁のような顔色になった彼は、同僚教師たちに脇を固められフラフラとした足取りで退場して行く。

 ステージの上からその惨状を目の当たりにした校長も、さすがにこれは不味いとでも思ったのだろう。

 彼は非常に不自然な形で話を打ち切ると、カツラ疑惑の絶えない頭部を素早く下げてから壇上を駆け下りる。

 続いて行われた生徒指導教諭による夏休みの注意事項の説明も、の体育教諭の尊い犠牲のおかげで、これまでになく非常に手短なものとなった。

 斯くして俺の高校二年度一学期は、ようやくその幕を下ろしたのだった。


 教室で帰り支度をしていると、明日からの休みに浮かれた級友たちが、ワイワイと騒ぎながら一人、また一人と廊下へと消えていく。

 本来高校二年の夏休みともなれば、やれ受験勉強だやれ夏季講習だと、もっとピリついた空気になっていて然るべきはずだった。

 だが、うちのクラスの連中に関しては、どうやらその限りではないらしい。

 その内の一人である俺と他の連中との違いはと言えば、始まったばかりの長期休暇に心を踊らせているかそうでないかということに尽きた。

 普段は仲の良い友人と下校することが多いのだが、今日は放課後の教室でその姿を見つけることが出来なかった。

 そういえば、彼はクラス委員だったはずだ。

 今頃は体育館で終業式の撤収作業に従事しているのかもしれない。


 中核市の郊外という、特段利便性が高いわけでもなければ辺鄙という程でもない。

 俺の通う高校は、そんなとても中途半端な場所に位置している。

 生徒の通学手段は徒歩と自転車、それにバスと鉄道が同数程度に分かれており、俺はその中の鉄道組だった。

 学校の最寄り駅までの道は餌を巣に持ち帰る蟻の行列の如く、黒髪の学生たちで溢れかえっていた。

 同じ種類の蟻である俺もその群れの列に紛れ込むと駅へと、速度をあわせて最後尾に続く。


 駅に到着すると、まずは時刻表を確認する。

 ちょうど今しがたに電車――正確にはディーゼルカーなので気動車なのだが――が出てしまったばかりのようで、次のそれは二十分も先だった。

 人でごった返しになった駅舎から早々に立ち去ると、隣接する駐輪場の日陰に涼を求める。

 色とりどりの自転車たちがまばらに置かれた屋根付きの駐輪場の、その一番奥にある白く塗られた屋根の支柱に体重を預けて息を吐く。

 喧騒から離れただけでも幾分か涼しかったが、ここにはそれに加えてすぐ裏手の山から吹き下ろす風があった。

 視線を少し遠くへ向けると、茶色く汚れたバラスト敷きの線路の上に立ち込めた陽炎が、その向こう側に見える夏色の景色をゆらゆらと歪めている。


 何をするでもなく、地面のコンクリートに目を落としていた、その時だった。

「ナツオ!」

 背後から大声で名前を呼ばれる。

 振り返ると、わずか三〇センチメートルの眼下に小さな顔があった。

 次の瞬間、それはさらに十五センチメートル距離を縮めると、ゆっくりと顔を上げながら、再び「ナツオ!」と声を張り上げた。

「聞こえてるよ、美沙みさ

 原猿類を思わせるクリクリとした丸い瞳でこちらをじっと見つめていた彼女は、小さな口を大きく開くと、嬉しそうに「夏休みだね!」と言った。

「うん。夏休みだね」

 我ながらとんでもなく間の抜けたセリフであることを理解した上で、会話のイニシアティブを彼女に委ねるために、敢えてそんな素っ気のない一言で返す。

「ナツオは夏休みってどうするの?」

 そんな俺の思惑を知ってか知らずか、彼女はしっかりと胸元目掛けてボールを投げ返してくれた。


 俺と彼女とのやりとりはといえば、大体がいつもこんな感じだった。

 ちぐはぐなようで、それでいて不思議と会話や行動の歩調がピッタリ合っていた。

 そのおかげで、互いに性別の違いを意識することなく普段からよく喋るし、時間さえ合えば一緒に登下校もしたし、なんなら休日に二人だけで遊ぶことすらあった。


「俺は母親の実家に用事があって、今日から一週間くらいはそっちに行くよ」

 あからさまに『なんで?』という表情を浮かべて顔を覗き込む彼女に、簡潔にではあるがその理由を付け加え説明する。

「田舎のおばあちゃんの具合がちょっと悪いみたいでさ」

 具合が悪いとはいっても、生き死に関わるような大袈裟なものではないらしい。

 実際のところ本人も平気だと言っているようなのだが、何年か前に祖父が病気で他界してから、田舎で一人暮らしをしている祖母のことを、うちの両親は絶えず気に掛けていた。

 そこに伯母からの電話でその知らせが入り、共働きで急には休みが取れない両親に代わって、ちょうど夏休みに入るところだった俺に白羽の矢が立てられたのが昨夜のことだ。

 一週間後には伯母の娘、要は従姉いとこがその役目を引き継いで俺の任は解かれるらしい。

「……そっか」

 先ほどの一割以下の声量でそう呟いた彼女は、すぐに「きっと大丈夫だよ」と付け加えた。

 美沙とはこういう子なのだ。

 誰かに嬉しいことがあればまるで自分のことのように大喜びし、逆に悲しいことがあると一緒になって涙を流す。

 そんな彼女であったからクラスでも男女の隔てなく人気があったし、こと男子に限ればその容姿に惹かれる者も少なくはなかった。

 栗色をしたショートカットの下には、美少女の条件を十分に満たしたクオリティーのパーツ群がベストな配列で並んでおり、俺も去年、入学式の当日に彼女に話しかけられた時には、少しだけだが見とれてしまったことがあった。

 もっとも彼女の場合――いや、やめておこう。


 そうこうしているうちに、少し離れた場所にある踏切から警報機のカンカンという、けたたましい音が聞こえてくる。

 その方向に目をやると、真夏の灼けるような日差しの中を、白とオレンジ色に塗り分けられた列車が、その速度を徐々に落としながら駅へと近づいてきていた。

「さみしかったらいつでも電話してくれていいからね!」

 彼女はスクールバッグのポケットから、千羽鶴を彷彿とさせるアクセサリーの束を取り出した。

 その一番端に付けられていたのは、昨年あたりから急速に普及しだした携帯電話だった。

 主従逆転甚だしいそれを俺の眼の前まで持ってくると、「番号は覚えてくれた?」と不安げに尋ねてくる。

「うん。帰ってきたら電話するから、そうしたらどこかに遊びに行こうか」

「わかった! ぜったいだからね!」 

 彼女は満足げな表情で首を縦に振ると、ストラップ群をジャラジャラと鳴らしながら駅舎へと駆け出した。


 三両編成の車両は学生たちでごった返しになっていた。

 座席に座ることなどは到底叶うはずもなく、仕方なくドアの近くに見つけたわずかな空間に陣取る。

 美沙はといえば、吊り革を持つ俺の反対側の腕に、まるでコアラかナマケモノのようにガッシリと抱きついている。

 きっとこの状況を傍からみれば、仲睦まじい学生カップルにしか見えないことだろう。

 ただ、俺は美沙のことをとは思っていないし、それは彼女にしても同じはずだった。

 もっとも異性であるがゆえ、今のように男友達とのそれとは違った距離感でのスキンシップが絶えないのもまた、事実ではあったが。

 実際のところ、二人は付き合ってるの? と聞かれたことも、一度や二度や三度や四度どころではない。

 そのたびに、仲が良いだけだよと返してはいたが、まず信じてもらえることはなかった。

 ただ、十七という年齢からすれば少し歪ともいえるような価値観を共有する俺たち二人だったからか、周りの目を気にすることはあまりない。

 閑話休題、間もなく電車が我が家の最寄駅へと到着しようとした、その時だった。

「ナツオ! 気をつけていってらっしゃい! 私、待ってるから! だから早く帰ってきてね!」

 突如すし詰の車内に鈴の音のような声が響き渡る。

 車内の視線が一斉に美沙に向けられ、直後には彼女が見上げた先――俺へ移ったのだった。

「……行ってきます」

 たとえ一端のカップルであっても、よもやここまで明け透けとしてはいないだろう。

 こんなことだから、ただの友達などと言っても誰一人として信じてくれないのは当然だった。


 徐々に遠ざかってゆく電車をホームの上から見送っていると、ふいに空を流れる灰色がかった大きな雲が太陽を覆い隠し、その途端に世界から急速に色が失われる。

 ただそれも、ほんの僅かなあいだの出来事でしかなかった。

 数秒後には、先ほどにも増して色を濃くした木々の緑や空の青が、間もなく終りを迎える七月を鮮やかに塗り上げる。

「今年の夏は暑くなりそうだな」

 果たしてその予感に一切の根拠はなかったが、そう口にした瞬間にも線路脇の雑木林から蝉時雨が降り注ぎ、頭上の太陽までもがより一層強く輝き出した――ような気がした。

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