夜の楽しみ
玄関を開けた途端に、廊下の奥から大きな笑い声が聞こえてくる。
居間に行くと案の定、宴会の二次会は大盛りあがりの様相を呈していた。
「寿司があるで明日那と夏生もこっちおいで」
宴の中心にいた祖父は手招きをすると、自身の横に二人分の席を作ってくれた。
高さの異なる座卓を二個くっつけたその上には、寿司だけでなく大皿に山盛りになった唐揚げや焼き鳥、それに枝豆やスルメといった酒の肴の類もあった。
「ナツくん、はい。あ~ん」
あっちゃんはそう言うと、僕の大好きな甘海老の軍艦巻きを『あ~ん』してくれる。
「どう? 美味しい?」
「
お返しにエビの握りにワサビを少しだけ多めに付け、彼女の小さな口の中にポイっと放り込む。
「あっちゃん、おいしい?」
「
彼女は目を見開いて口を押さえると、慌てて目の前にあった烏龍茶で口腔内の刺激物を無理やり胃に流し込んだ。
「ナツくんもう! 死ぬかと思ったじゃん!」
彼女は恨めしそうな目で僕を睨みつけ、それを見た大人たちは声を合わせて笑った。
普段は無口で難しい顔をしていることの多い祖父も、目を線のように細くして楽しそうにお酒を飲んでいる。
大人たちの話している話題には全く興味はなかったが、皆でワイワイと騒ぎながら、普段食べないようなご馳走を摘むこの時間が、僕は大好きでしかたなかった。
そのうち台所仕事をしていた祖母も宴に加わり、話題はうちの父と母、そして伯父と伯母の馴れ初めの話へと移っていく。
そうなると当然ではあるが、僕とあっちゃんは居心地が悪くて仕方がない。
「ね、ナツくん。お風呂いかん?」
彼女の出してくれた助け舟に即座に乗船させてもらうことにして、部屋に着替えをとりに戻りると、勢いをそのままに脱衣所へと向かった。
脱いだ服を洗濯機に放り込み、碧いタイルが天井近くまで貼られた浴室に駆け込む。
先ほど墓地で尻もちをついたことを思い出し、いつもよりしっかりと全身を洗ってから、やはりタイル貼りのまるでプールの消毒槽のような浴槽に肩まで浸かる。
「あ~極楽極楽……」
わざと年寄りのような台詞を口に出してそう言うと、直後には子供に戻り浴槽の湯の中に頭を沈め、息の続く限界に挑戦していた、その時だった。
ゴロゴロと戸を開けるくぐもった音が水面下の耳まで届き、驚いた僕は肺の中にあった空気をうっかりすべて吐き出してしまった。
「――ぷはっ!」
モグラ叩きゲームのモグラのような勢いで水面から飛び出す。
果たして目の前には若干呆れ顔のあっちゃんが、磯辺焼きのように体にバスタオルを巻いて立っていた。
「ナツくんってそれ、毎年やってるよね」
そう言って彼女は小さく笑いながら、体を隠していたタオルを取り払いこちらに背を向けると、水栓の前にあった椅子に腰を下ろす。
首筋や二の腕の日焼けの跡は、中学の部活動でついたものだろうか。
元来色白であった彼女ゆえに、そのコントラストはパンダのように非常にはっきりとしている。
背中から腰にかけての肌はといえば、まるで雪のような白さとキメの細かさだった。
名工が
その瞬間、僕の心臓が大きく跳ね上がると、急激にその速度を倍ほどに増大させた。
危うく口から飛び出そうになったそれを慌てて手で押さえ飲み込む。
彼女とは物心がついた頃から毎年一緒に風呂に入っていたが、こんなことになったのはこれが初めてだ。
もっとも、いくら僕が子供だからとはいえ、その理由がわからないほどに幼くはない。
「あっちゃん先に出るね」
早口でそう言うと、視界から彼女を外しながら脱兎の如く浴室をあとにする。
後ろから「あっ! 待ってナツくん!」と呼び止める声が聞こえたが、とっとと身体を拭いて服を着ると、そそくさとその場を後にした。
何となく大人たちのいる居間には戻る気になれなかった僕は、少し離れた場所にある応接間に避難すると、テレビをつけてソファーに体を預けた。
祖父母の家は和風建築なのだが、なぜだかこの応接間だけは打って変わった洋風の造りだった。
天井には大きくて重そうなシャンデリアまでも据え付けられており、水滴のような形のガラスの飾りがキラキラと電球の光を反射している。
エアコンがあるのもこの部屋だけで、おかげで風呂上がりに革張りのソファーに座っている今も快適そのものであった。
壁際のサイドボードには、いかにも高価そうなウイスキーやブランデーのボトルが所狭しと並べられているが、そのどれもが開封された形跡はないので、おそらくはオブジェとして集められたものなのだろう。
僕は昔から、ここがまるで秘密の宝部屋のように感じていた。
こうしてただソファーに座っているだけでも楽しくてしかたがないのだから、我ながら安上がりな子供だと思う。
全国放送のクイズ番組を視聴しながら三十分ほども寛いでいると、パジャマに身を包んだあっちゃんが両手に麦茶の入ったグラスを持ってやってきた。
「やっぱりここにいたんだ」
彼女はそう言うと、僕のすぐ横にポフッと軽やかな音を立てて腰を下ろす。
「ナツくんがすぐ出ちゃったから寂しかったじゃん」
肘で僕の二の腕をツンツンと小突きながら、湯上がりで少しだけ紅潮した頬を膨らませる。
僕には僕の事情があったことを察して欲しかったのだが、仮にもし彼女がそれに気づいていたなら今、こんなにもフランクに接してはくれていなかっ――いや。
あっちゃんならば必ずしもそうではないかもしれない。
そうこうしているうちに、待ちに待ったその時がやってきた。
「あっちゃんほら。さっき言ったヤツ始まるよ」
そう言ってお目当ての番組にチャンネルを合わせた途端、血まみれの女性がテレビの画面いっぱいに映し出された。
「すぁっ!」と斬新な悲鳴をあげた彼女は、墓場でもそうであったように僕の腕を両手で抱え込んだ。
柔らかなふたつの膨らみが腕に押し付けられ、先ほど風呂場で生で見たそれが頭に浮かんでしまう。
再び高鳴った心臓の音を聞かれぬよう、わざと大きな声を出してこう言った。
「僕、ひとりで見るからいいよ。あっちゃんは居間に行ってたら?」
彼女は僕のした意地悪を気にする様子もなく、視界の隅にわずかに映るテレビの画面に視線を向けて真剣な面持ちを見せる。
夏休みの時期に合わせた内容の番組は、子供を怖がらせることに特化したような古典的な演出が連続する物語であった。
まさにそのターゲットど真ん中の僕とあっちゃんは、時に震えながら時に悲鳴を上げて、真夏の夜の余興を大いに楽しんだ。
一時間という長いようで短い尺の番組が終了した。
去年も同じような時期にも、これと似たような番組を見た記憶があったが、今年のもののほうが幾らか出来が良かったように思う。
その証拠といえるかはわからないが、最初は腕に掴まって番組を視聴していたあっちゃんは、後半以降では僕の腹に顔を埋めてると頭にクッションまで被っていた。
途中で二度ほど「チャンネル替えようか?」と提案したのだが、彼女はそれを頑なに拒み続けた。
その彼女はといえば、番組が終了する少し前から僕の膝の上でかわいい寝息を立てている。
これはおそらくなのだが、限界に達した恐怖が眠気に変換された結果なのかもしれない。
「あっちゃん。終わったよテレビ」
軽く身体を揺さぶり声を掛けるが、ピクリとも動く気配がない。
かといって、いつまでもこうしているわけにはいかないのだが。
途方に暮れながら時の流れに身をまかせていると、しばらくして現れた伯母によりその問題は平和裏に解決される運びとなった。
「夏生ちゃんと明日那が一緒になってくれたら伯母さんらは結婚式が楽だから助かるけど、
苦笑いを浮かべながらそう言った伯母は、彼女を無理やり起こすと寝床へと連行していく。
彼女は去り際に「寝ちゃってごめんね。ナツくん、おやすみなさい」と言い残した。
ひとり応接間に取り残された僕は、いつの間にかニュース番組へと変わっていたテレビを消すと、自分も寝床へと向かうために重い腰をあげた。
両親と僕の分の三枚並べて敷かれている布団の、一番窓側に陣取るとすぐに横になった。
隣の居間では――さっきまでに比べれば大分静かではあったが――大人たちがまだ酒盛りを続けているようだった。
たまに上がる幸せな笑い声を聞いているうちに、いつしか僕は微睡みの淵に落ちていった。
それにしても今日という日はいつになく長く、そしてとても充実した夏の一日であったように思う。
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