夏の終わり

 彼女が夢の世界の住人になってからかれこれ三〇分は経つが、そのあいだ僕は身じろぎひとつせず、遥か水平線と対峙し続けていた。

 それに苦痛を感じたかといえばそんなことなどなく、世界が終わるその瞬間まで、ずっとこうしていたいとすら思っていた。

 しかし現実というのは無情なもので、いつしか頭上に広がる夏の青色に夕方のオレンジ色が混ざり始めていた。

 今日という日が永遠では無いのだという、至極当たり前なことを思い知らされる。


「志帆ちゃん起きて。そろそろ戻ろっか」

 耳元で囁きかけながらほんの少しだけ身体を揺さぶると、肩に掛かっていた重みが幾分か和らぐ。

「……あ、ごめんなさい。私、寝ちゃってふぁ……」

 言葉尻に欠伸を混ぜそう言った彼女は、目尻に涙を溜めたまま大きく開けた小さな口を両手で押さえる。

 そんな彼女の可愛らしい痴態に気づかなかったふりをすることに決めた僕は、おもむろに立ち上がると目の前にそびえ立つ灯台の威容に倣い、全身の関節からポキポキと音を発生させながら伸びをした。

「小さい頃、お母さんが妹を生んだばかりで私のことをあんまり構ってくれなかった時期があったんだけど、その時にお父さんがここに連れてきてくれたの」

 いつの間にか立ち上がり隣にいた彼女はそういうと、先ほど僕がしたのと同じように大きく背伸びをする。

 そして、灯台からこちらに視線を移すと言葉を続けた。 

「その時にね、『パパはここでママにプロポーズをしたんだよ』って言うから、私が『プロポーズってなあに?』って聞き返したら、お父さん、顔を赤くしちゃって」

 彼女は大きな声を出して笑うと、直後にはふとさみしげな表情を見せた。

 そのあと父親がどうやって娘を煙に巻いたのかは分からず終いだったが、彼女にとってこの灯台が、思い出の詰まった大切な場所だということはよくわかった。

「私、夏生くんと今日、ここに来られてよかった」

 それは僕だってまったく同じだった。

 彼女とこの場所に来たこと。

 ベンチに並んで腰掛けて、同じ海と空の青をみたこと。

 それらのすべてはきっと、僕の一生の宝ものになることだろう。

 そんな確信めいた予感とともに、先ほど彼女が一瞬だけ見せたさみしげな顔が思い出された。

「夏生くん、そろそろ戻ろっか?」

「あ、うん。今度はゆっくり歩いて帰ろう」


 二時間ほど過去の自分たちがつけた足跡を辿りながら、まるで今日という日を巻き戻すように、本日のスタート地点であり数日前に二人が初めて出会った場所でもある砂浜へと戻って来た。

 灯台を出発した時にはまだ優勢だった青空が、西から徐々に押し寄せてきた黄昏に追いやられつつあった。

 いま僕たちの頭の上を飛んでいった海鳥たちも、夕闇の訪れを察してねぐらへと帰っていったのだろうか。

 海原を渡り吹きつける風に揺れるハマゴウの花が、ほんのすぐそこまで迫っている未来に海の底へと沈みゆく運命の太陽を無言で見送っていた。


「夏、もう終わっちゃうね」

 斜めから差す陽の光を受け黄金色に染まる海を眺めながら言った彼女のその言葉は、僕にではなく自身に向けて発せられているように聞こえた。

 その続きが紡ぎ出されるよりも早く、今度は僕は口を開く。

「夏はまだ始まったばかりだよ。それに来年も再来年もその先も、僕たちが生きている限り、何度でもずっと夏は来るから」

「――そうだね」

 彼女の返事は波の音にかき消されてしまいそうに弱々しかった。


 こちらに背を向け海を眺めている彼女は今、一体どんな顔をして何を考えているのだろうか?

 風速二メートルの穏やかな風に揺れる柔らかな黒髪を眺めていると、突然彼女がクルリとこちらに向き直り、そして静かに歩み寄ってくる。

 半歩も離れていない場所でその歩みを止めた彼女は、次に僕の目をじっと見つめ、やがて静かに瞼を閉じた。

 その行動の意味を理解した僕は、恐る恐るその両肩にそっと手を置く。

 続けて自分も目を閉じ、そしてゆっくりと彼女の顔に自らの顔を近づける。

 西日を受けて砂の上に浮かび上がった二人分の長い影が、互いの顔と顔とを接点にして、やがてひとつに繋がった。

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