第10話
それから更に一週間後、菅野の前で美椛は泣き崩れていた。駅前で人目も気にせず声を上げて叫び続ける。
------沙里が、屋上から飛び降りた。
たった数時間前に若者が何かに背中を押されて飛んだ。悲痛な思いを告げる海野も混乱していて、涙を拭いながらも事情を菅野たちに話した。
泣き崩れる美椛を横目で見ながらも平然と通り過ぎていく人々は腫れ物を触る二人にも視線を向け、改札に吸い込まれていく。菅野はいくつもの視線を見回して受け取る。
そして、思い出した。六十を過ぎても明日を変えたいと相談に来る人や叶いもしない夢を掲げる人。彼らが常に持っている規格から外れている展望を、穏やかならぬ冷たい視線で遠回しに伝える。菅野は普段からそういう行いを簡単にしていた。
美椛は数十分後に車で迎えにきた母親と一緒に家に帰り、海野は駅の壁に寄りかかって人知れず涙を拭う。ただ一人の相談者にここまで、菅野が感情を動かされる事は過去に一度も無い。そう何度も思っている。その性格のおかげで仕事を始めてすぐに慣れていった。
彼はすぐに『笑空』に戻ってスタッフに沙里の件を説明したが、誰も仕事の手を止める事はなかった。安土を除いて他人は仕事として人の相談を受けていて、制限された時間の中で話を聞いて、人の人生を聞いて、夢を聞いて、この先を話して------帰ったら、似たような言葉を使って手短にレポートに残す。
弱っている人間の心は他人の意見を簡単に飲み込んでいく、それは自分ではどうすることもできずにいるからだ。それでも安土は彼らと同じではなかったはず。だから抱え込み過ぎて溢れ出てしまった。
その真逆にいるのがカウンセラーとしての菅野。〝人を救う仕事をしている僕は偉い〟そんな考えが彼の頭の中で常に飛び回っていた。それこそが海野が言っていた言葉通りの観念なのだろう。
海野も教師として菅野はカウンセラーとして人を救う。だが、悩み方も捉え方も分からず菅野と海野は放心状態のままそれぞれの家路を辿った。ある道は人並みに逆らうように、ある道は風が強く吹く場所で。
向かい風に抗う菅野は、駅前で改札を見ている時に前に重い荷物を持った老人が通っていっても助ける事はなく、混雑に巻き込まれて子供が倒されてもただ見ているだけ。
人を見極める力などあの場所にいても何一つ得られない。前を通っていく人の容姿を見て、勝手に身の回りを自分有利で悲観的に想像していくことを、十年以上も続けていたら彼は愉しげな夢を見なくなった。
憧れることもなければ願望や望みも無い。彼は客に掛けた言葉を一つ一つ思い出したが、大体が否定や自嘲的な言葉ばかり。
「死んでもう一度人生をやり直したい」と彼は斜陽の影となる高層マンションを見上げ呟く。
空はまるで、弱った人の心のように簡単に別色へ染まっていく。深呼吸をしてみたが返って奥に溜まっていた涙を押し上げてしまったよう。平凡な過去を遡ってみても、常に人の人生に文句を垂れる自分ばかりを思い出す。
数ヶ月前、思い切り人生を否定してしまった引きこもりのニートはどうしているだろうか。あれから二度目は来ることは無い。菅野はその結果を知っていた、そうなるように彼は言葉を選んで言ったから。
その日の夜、沙里が息を引き取ったと言う連絡を菅野は受け取る。
部屋は空と同時に暗くなり、カーテンは全開だが今日に限って月明かりは無い。彼女を助けることができたのだろうかと菅野はベッドの上で自問自答を繰り返す。一度も会った事もなければ話した事もないが、彼女の親友とは何度も会って話を聞いていた。
相談を受ける立場で考えてみれば、沙里にとっては海野で、美椛にとっては菅野。菅野に関しては先の短い老人を否定して、先の長い若者も救えない。
------何のために生きているのか。
------あれほど嫌っていた、社会の役に立たない人になっていないか?
------夢も憧れもなく、ただ社会に悪影響を振り撒いているやつになってないか?
菅野はガラスに反射した自分に問いかけた。そして数分後に彼は諦念して微笑む。全てがどうでもよく思えたときに人は、口角を上げて涙腺を締める。それが、微笑んでいる様に見えているだけ。
それから数時間後、菅野は何かに背中を押されるように外へと飛び出し『笑空』に向かっていた。
よろけながらも携帯電話を取り出して〝安土玲凪〟という名前を探す。ブロック塀に肩を擦りながらも向かう足を止めることはなく、携帯電話を耳元に当てて数秒彼の動きは静止し、すぐ側の電柱を下からゆっくり舐めるように見上げた。
「……安土、久しぶりだな。こんな時間に電話かけちまってごめんな」
菅野は道路脇にあったガードレールに腰掛け、脆弱な声で電話に出た。
「久しぶりって……一日開いただけじゃん。随分、疲れた声だけどちゃんと病院には行ったの? ご飯はしっかり食べてるんでしょ?」
彼の口角は自然と上がり、次第に目が閉じてきた。向かいにある自動販売機の明かり、対向車のライト、それらが霞んで見えた。
きっと幸せだと思っている人の目はぼやけたフィルターが掛かる、見たく無いものを霞ませて現実を思い出させないためにだ。
「仕事が立て込んでいて、それと美椛の件が思ったより精神にくるものがあって……」
「本当に大丈夫? しっかり寝れてる?」
ざらざらとした感触のコンクリの壁に頭を預け、生気のない表情のまま目を閉じた。安土の声が心地いいのかそれとも急な眠気か。そのままガードレールに沿って倒れた。
「ねぇ……今の音ってなに? 菅野! 聞いてる? ねぇ------」
繋がったままの携帯から安土の声が漏れているが、再び目を開けることは無かった。
菅野の寝顔を真上から梅田と上原が覗く。
腕には管が繋がれていて先には液状の薬が入ったものがぶら下がっていた。カーテンが太陽光をふんわりとぼやかしていて、真っ白な病室は少しだけ色づく。
菅野がゆっくりと目を開けると、瞬きの度に覗く二人の像が濃くなっていった。
「なんで梅田と上原が泣いてんだよ……多分、疲れていて倒れたんだろ?」
布団を鎖骨あたりまで掛け、何も無い天井を見上げながら菅野は小声で話す。
「先輩もいなくなっちゃうのかと思ってましたよ」と言って梅田は布団に顔を埋めた。
「先輩が倒れた後も電話が繋がったままで、安土さんが身元の確認や会社への連絡をしてくれたそうです」
「安土が……そんなことまでしてくれたのか」
菅野が左腕を持ち上げようとした瞬間激痛が走った。薄いガーゼが貼られている。
「先輩は今日と明日は仕事を休んで、その後の三連休もゆっくり休みだそうです」
「三連休? そんな予定ないぞ?」
菅野は上半身を起こして問いただす。
「いや、でも宮島さんが安土さんに会いに行ってもらう仕事があると言っていて……」
「なんだその、嘘っぽい話は……そんな、ただの旅行になってしまうよ」
梅田はようやく顔を上げ、携帯を開くと菅野の目の前に置いた。
『菅野へ。五日間の休養期間を与える。安土に会って様子でも見に行ってくれ』
梅田は得意げな表情で宮島のメッセージを読み上げた。
------宮島さんとの会話画面なのは間違いないが……本当に会いに行ってもいいのか?
「もし嘘だと思うなら、実際に宮島さんに聞いてみればいいじゃないですか」
「梅田と上原を信じてるよ。ただ、仕事より恋愛を優先する先輩っていいのか?」
梅田は静かに頷く、それにつられて上原も同じように。
「でも安土さんが辞めてから三ヶ月……先輩は悪い意味で変わってしまいました。何を考えているのかよくわからない行動をしたり、お客に対して怒鳴ったりも……」と上原は痛切に話し、続けて「そして先輩は抱え込み過ぎてしまったせいか、倒れてしまって」と梅田は途中で口籠る。
「二人や他のスタッフに迷惑をかけて済まなかった。簡単には扱えなかったようだ」
「誰だってそうですよ。全ての言動に責任がありますもん……カウンセラーは」
「昼過ぎには点滴も外れるそうです、宮島さんにはしっかり伝えておきますね。では僕らは仕事に行ってきますので、何かあったら電話くれればすぐにでも飛んできます!」
上原は明るく取り繕って病室から出て、残った梅田も深く頭を下げ早々と出ていく。
彼は安土に昨晩の礼をメールで伝えると「早く荷物まとめてきてね」と返ってきた。
宮島に一泊二日と勝手に決められ、病院から家に帰ると仕方がなく二日間を過ごせる衣類をスーツケースに詰める。普段からスーツしか着ていないせいか、久しぶりに着たパーカーも似合っていないように見えた。目的地は数件の民家があるだけの田舎。
一通りの荷物を用意し出発の時間まで三時間もあったため、彼はベッドに横になった。
病院で体重を測ったら八キロも痩せていたが、食生活を思い返せばそうなるのも当然。部屋の中はペットボトルの空きゴミが散乱し、机の上も客の資料で埋め尽くされていて、カーテンの隙間から漏れている日の光で空気中の埃がキラキラと輝いていた。深く息を吸い、今までの自分を思い返した。
目を閉じると毎日の様に見ていた駅前の情景が浮かぶ。
------初めて立った日、確か十八歳くらいだったか?
目の前を通る大人を見て、どれが将来の自分なのかを勝手に彼は想像していた。髪を整髪料で固めて颯爽と歩いていく男性を見た時は真っ先に年収と職業が浮かぶ。子を抱えて改札を抜けて行く女性を見て、同級生の将来を想像する。誰も否定することなく、明るく輝いているものばかりを想像していた。あの時の菅野は------何にでもなれると思っていた。
そんな彼も十五年後には簡単に人生を否定している。多分、大体を知ってしまったからだろう、心の声には正直に生きられないことに。
〝かっこいい〟〝憧れる〟、そんな心の声は表情や目に素直に表れ、
〝かっこ悪い〟〝やめろ〟、そんな心の声は必死に笑顔の裏に隠す。
前者の声が成長に連れて薄まった。海野が菅野を見て作り笑いと指摘したのも納得している。何故気がつかれてしまったのか、いや、海野自身も教師時代に経験して来たことだからだ。
------なぁ、安土……どうしてそんなに、煌びやかな目をしていられる。知っているだろ? 僕らが暮らす世の中では嘘や否定でさえ、優しさだと言われる時もある。
安土が今までどんな過去を過ごして来たか、全てを彼は知らない。もしかしたらいじめる側だったかも知れないし、目上の人に敬語を使わなかも知れない。そんなことを考えながら菅野はそのまま眠気に吸い寄せられ、現実から数時間ほど離れていった。
11話へ続く
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます