第18話

 「教師として、カウンセラーとして、彼女たちに何をしてあげられたでしょうか」


 そう言って海野は横に置いてあるファイルに手を添え、菅野に視線を向けた。


 「僕らは------人を救えなかったのでは無くて、救う術を知りませんでした」

 その言葉を聞いて菅野は顔を上げ「術?」と聞き返す。


 「本当に寄り添うことから逃げてきたからです。常に僕らの頭の中には『仕事』の二文字があって、カウンセラーとして、教師として話を聞いていました」

 菅野は深く頷き、涙を浮かべる。


 「教師として話を聞いていると進路や将来を考えてしまいます。カウンセラーなら……心身を優先的に考えてしまう。相手が何を求めていたのか、それを僕らはそれを見ようとしませんでした」

 確かに、まだ先が長いことや心理的に判断していたかもしれない。


 「それが今までの僕らですが……沙里と美椛にはお互い本気で向き合おうとしました。理由はどうであれ初めての感覚だったと思います」


 ------初めて。


 過去にここまで本気に寄り添ったことは無かったかもしれない。

 相談に来る人は皆、先の明るい未来など無いと思い込んでいた。そんな表情をしていたからだ。

 「教師だった頃に生徒へ〝初めから上手くいく事より、続けることの方が難しい〟と口癖のように伝えて言いました」


 「本当にその通りですよ……」

 「でも、こうも言っていました。〝傘をさしていても雨で濡れる。完璧なんか目指さなくても良い〟と」


 「その言葉は……美椛たちも知っているんですか?」


 「何も始めなかった僕が言っても何の説得力もないと思いますが、急にこの事を思い出しまして……きっと忘れてしまったでしょうが」

 美椛と出会って間もない頃、似たような言葉を口にしていた。


 「……しっかり伝わっていましたよ」


 海野は微笑みながら「そうですか」と言葉を漏らした。


 「僕は一旦、この仕事から離れようと思っているんです」

 菅野は襟元を触りながら、左胸につけられたネームプレートを外す。


 「そうですか------人生、人それぞれですもんね。否定されても内に芯のようなものがあれば何度でも自分らしく生きていけますからね」


 二人の間の雰囲気は和やかで同時に悲しみを無理に隠していた。

 沙里と美椛がいなくなった後の世界で救えなかった後悔を、何かに繋げられるのだろうかと先の人生を想像しながら、数分後に海野は礼を言って出ていった。帰り道、数歩歩いては空を見上げながら。


 菅野は『笑空』の電気を全て消し、日が落ち切った真っ暗な空の下に出た瞬間、どこからか口笛が聞こえた。


 それも鮮明に。


 鞄を縁石に置いて音が聞こえた方向に足早に向かうが急に消える。それでも耳奥にはずっと残っていてリズムというよりも一息のまま吹いたような音。

 彼は無意識に上唇を尖らせ口先で息を振動させると、甲高く冬空に放たれた。



 吹いていた口笛の息が続かずに薄れていく瞬間、周りの空気と混ざって一番綺麗な音になる。------美椛を今になって言葉で表すのならあんな感じだと彼は思った。短い人生でも目を惹くような綺麗さであって、一番煌びやかに見える瞬間にフワッと消えていく。


 帰り道に吹く口笛は全てが上手くいったような気がして、良い一日だった気がして、安穏な気がして……そんな事全て幻想に過ぎないが、辛い日々にはそんな小さな事でも十分に幸せを得られた。


 誰かの空笑や嘘くさい賛美でも受け取る側の心情によっては、幾つでも寄り添いになる。そんなことを十年以上かけて、彼はようやく知った。



 ドンッドンッ……ドンッドンッ


 突然、ドアを叩く音が響いて菅野は飛び起きた。

 ベッド周りを一周見回して、誰もいないことを確認したが心音は勢いよく跳ねるように高鳴る。

 音がした玄関へ恐る恐る向かうとそこに立っていたのは安土。既に鍵を開けて中へ入り手には大きな袋を両手に持ってうっすらと微笑んでいる。


 肩を越していた後ろ髪はさっぱりと切られていて、輪郭に沿ってクルッと巻かれていた。


 「おはよう、いや……こんにちはの時間だね」

 菅野は目を擦り、驚く表情もないままもう一度目を閉じた。


 「寝るな! もう少しリアクションをしてよ! こんなに髪切ったんだぞ!」


 彼女は強引に玄関を上がり薄暗い部屋のカーテンを全開にして窓も開ける。


 続けて他部屋も跨いで同じように空気の入れ替えを始め、埃が宙を舞って静かに落ち続ける。その光景を薄目を開いて見ていた菅野の頬に、安土は冷たいペットボトルを押し当てた。反対側の頬を押さえつけて逃げられぬよう。


 「私がここにいる事が夢だと思っているんでしょう? でも現実」  

 「帰ってきてたのか……連絡してくれれば良かったのに」


 冷たいペットボトルを痛がり、安土のいない壁へ向いて目を閉じながら言葉を返した。


 「壁に向かって再会の練習でもしてるの? こっちでしょ! 私がいるのは!」


 寝起きの菅野にとって甲高い安土の声は、全身を驚かせるには申し分なかったがわざと目を閉じていた。嬉しさもあったが、辛い時に寄り添ってくれる人が自分にはいる事が何よりも幸せだった。


 嫌になるほど悲しみが続く。いくら泣いても涙の底は見ることができない。


 安土は菅野の顔を両手で包み、まっすぐに視線を向ける。


 「------来てくれてありがと、でも……朝から元気だね」

 中途半端に開かれたカーテンの隙間から出る日は、彼女の瞳に光をまっすぐに通す。


 「知ってる? 影を無くすには近くに光るものを置けばいいの。単純な話だけど私がその光りになっているわけ」と囁いて安土は両手を首元へ回し彼をぎゅっと引き寄せた。


 もうどこへも行かない、そんな気を込めて。


 換気を終えて菅野は部屋の窓を閉めていると、安土はキッチンから何かを叫び始めた。


 「まってよ、何一つ食べてないじゃん! 作っておいたのに……」

 彼が急いで見に行くと冷蔵庫が全て開かれていて、中から大量のスパゲッティが出されていた。


 ゆっくりと彼女は振り向いて悲痛な面持ちで目を合わせる。

 「もう何日も家でご飯を食べてなくて……ごめん。今食べよう」

 彼は急いで大皿を取り出して電子レンジへ突っ込んだ。「ごめん」と呟きながら。


 昼食は温めたスパゲッティを三皿、味付けは全て同じものだったが一気に腹の中へ。口周りには赤いソースがべたりと付着していてまるで幼子の食後のよう。


 数日ぶりのまともな食事だった。


 彼は洗面台に向かい、水垢の無い綺麗な鏡を見ると瞼がふっくらと腫れていることに気がつく。この三日間は泣き続けた、その代償だろう。

 

 流れ出る水を止めて口周りをタオルで拭きろうとした瞬間「鏡掃除したの私だからね」と言って菅野のだらりと下がった腕の上に彼女は腕をかぶせた。

 そして回している手に力を入れる。


 「------ここで暮らすんでしょ? これからの私は……」


 彼女はぼそっと呟く。二人は正面の鏡に体を向け、視線を合わせたが「そうだな」と言って菅野は腕を払い、洗面台から移動する。


 「ちょっと……なんか冷たくない?」------そんな事は承知で安土は会いにきた。相談者を失った菅野にとってすぐには笑えるわけがないと。


 半年前の彼女も同じだった。海野から告げられた朱莉の現状、精神がおかしくなるくらいだった。そんな時は誰かしらがその人の近くに居ないといけない。


 彼女が親友を亡くした時だって両親がいた。


 ただ、さっきから菅野は一度も彼女に笑顔を見せていない。

 美椛の件は全て宮島から聞かされていたが、全て菅野が抱えて最後の瞬間まで近くにいた。そんなことを経験してすぐに立ち直れるなんて思っていない。


 ------でも、同時にあなたが心配になる。


 人の一生は選択の連続。後悔だって嬉しさだって選択の先にあることだから攻めるのは選択をした自分だけ。

 安土も同じようにこの半年間、何度も自分を責めた。なぜ朱莉をあのまま追わずに次の仕事へ移ったのか、もっと話を聞いてあげれば良かったのかと。


 人の一生は充実度によって決まるという。


 ------もし私の存在で菅野の人生に色が付くのなら、と思って帰ってきた。


 菅野はすぐにベッドへ戻り、頭の先から足先まで布団をかぶせた。


 湯が沸く音と電子レンジの完了音。彼は簡単には静かな世界にはいけなかった。生きるとはつまり、そういう事なのだろうと思った。


 「ねえ! 菅野、何か話してよ。あなたも私もカウンセラー、話せば変わることを知っているでしょ!」と寝室のドア横で安土が叫ぶ。


 「話しても変わらない、みんな死んでいった。何がカウンセラーだよ------」


 菅野は布団を被ったまま震える声で返す。とうに彼は限界を超えていた。

 安土はベッドの端に腰を掛け、頭部のある場所に優しく手を添えると思い切り振り被って叩いた。


 「……そんなこと、誰だって知っているよ! それでも人は話すことで安らぎを得る時がある。ただ言葉を口にしただけで悩みが無くなるわけがない……でも、人は孤独じゃ生きられないから」


 「あれだけの数の相談に乗ってきたが……今更、あの人たちの気持ちがわかったよ。

 生きているのが辛いと思っていても、死ぬこと以外の選択肢を探す感覚------それを今までの僕は否定をしていた、何十年も……何百人も」


 安土は布団を捲り、伏せた菅野の頭を撫で始めた。「私でよければ」と囁き、安土は涙を流しながら数秒間沈黙な時間が続く。


 彼は仰向けで天井を見上げる。

 今更になって急に部屋中は静かになった、遅い。


 「安土の目は綺麗だけど……綺麗なだけだった。何か奥ゆかしい意味があるわけでもなくただ綺麗なだけ。それは作り笑顔と一緒で意味は特にない。ただ……作り笑顔でも人は和らぐ、安土の目だって僕は惚れ込んだ」


 菅野は側にいる安土を抱き寄せて横へそのまま倒し、ゆっくりと瞬きをする。


 「何か意味のある相談にしようといつも心掛けていた。せっかく来てくれたから、と」

 「……そんなの当たり前じゃない」


 「でも、ただ相談者の話を聞いてあげる単純なことでもいいって事を知った。美椛や沙里は大人視点でのアドバイスや教訓を知りたかった訳では無い」


 「菅野……今はもういいから、もう一回寝な。起きたらまた話聞くね」

 沈んだベッドから立ち上がり、部屋から安土は出ていった。


 その日の夜、菅野は夢の中で美椛に会った。


 「『笑空』に遊びに来るって言うから待ってたのに」と言うと「ただ、話す人が沙里に変わった」と答えた。

 夢の中とはいえ見ている間は現実世界と変わりない法律や街並。周りを取り巻く空気だって肌寒さを感じた。通り過ぎていく人の表情だって鮮明に。


 夢の終盤、美椛はふざけて沙里の頭を叩くのを遠くから見ていた。言葉は聞こえなかったが多分、先に死んでしまった事に対して怒っていたのだろう。


 これから先、この職から離れて何をしようかと、夢の中でも菅野はぼんやりと考えていた。


 瞳に緑が色濃く映る野原のベンチでなんの気なしに浮かぶ雲を眺めながら------


次で最終話です! 19話へ続く!

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