第17話
無音の空間に菅野のうっすらとした寝息が聞こえ始めた頃、海野は相談室へ戻る。上半身を板で挟んだようなピンとした背筋のまま眠っている。
たった数分の間で。
「……なぁ、菅野さん! 仕事中だぞ!」と囁いて菅野の肩を揺らすとすぐに目を覚ましたが、二重が急な目覚めで分厚く被さり三回ほど深く瞬きを繰り返す。
「いい夢を見ている途中で起こして、すまなかったな」
菅野は「いえ……」と小声で呟き、水を浴びた犬のように頭を大きく左右に振る。
「------沙里の話をちょっとだけしてもいいか? 今なら全てを話せると思うんだ」
海野は両腕をグーっと伸ばして椅子に座り直し、大きく咳払いをして話し始めた。
「朱莉が自殺した事を知ったのは沙里に再会してからだった。それまで僕は何も知らずに過去を無いものにしようと、職を変えて日々を過ごしていた」
今から二年ほど前、海野は教師を辞めてガールズバーのボーイとして働いていた。一人に対して関わりを避ける一心で数時間の関係で終わるこの職を選んだ。
前職は教師である事を隠さずに入り、その事が会話の種にもなってすぐにスタッフ間とも仲を深めていく。
お酒を作り、運び、接客をする事は初めて。今まで子供を見ていた海野にとっては全て新鮮で、第二の人生を味わっている気分だった。
だが、唯一の問題点を挙げるとすれば未成年が働いているという事。
風営法が守られず、利益のためにスタッフはその事実を黙認している。
海野が今まで関わってきた年齢とも近く、家族や将来を心配するあまり店裏で辞めるように説得したこともあった。
だが彼女たちは辞めようとはしなかった。
学校へも行かずに大人の容姿を真似て、まるで生き急いでいるようだった。何かに追われているような、追いかけているような。
海野のような年寄りには追いつけないほど速い。他店でも同じように未成年が在籍しているらしく、スタッフは特別な罪意識を持ってはいなかった。
そして働き始めて一年が経ったある日、未成年のスタッフがまた一人増えると言う情報が流れた。
歳は十七で来週頃に面接を受けに来ることへ店中は一層、見込める売上から盛り立っていた。最後に受け持った学年の年齢と一致していたことを知り海野は焦っていたが、その女性が後に一緒に暮らすことになる沙里。
突然家族からも見放され、学校へも行きづらくなった過程でここの住み込みで働く事になった。店から数分の場所に小綺麗でオートロック付きのアパートがあり、スタッフの六割はそこに暮らしている。
この時の海野はまだ朱莉が自殺をしていたことは知らなかった、数十分後に沙里の口から聞かされるまで。
面接は海野が受け持つ事になり、心の中では確実に家へ帰らせる気でいて、当日に沙里は部屋に入ってすぐに目の前のスタッフが彼だと気が付いた。
目を丸くしてドアノブから手を離さない。
「------久しぶりだな、長沢……沙里」
椅子に座るように指示をし、鞄の紐を握り締めながら着席するが表情は強張り、今にも泣き出しそうだった。
「帰りなさい……僕が言うのも変だけど、沙里の将来のためにも今日は帰ってくれ」
「でも、働かなければ私は生きていけない」
彼女は強く固めた心情を訴える。部屋には二人だけで話し声が漏れることはない。
「何だってある……だが、この世界は沙里には早い。何があったか話してくれるか?」
「誰も救えなかったお前に話す必要ある?」と涙を目の淵に侍らせる。
「------いや、救う術を知らなかった。ずっと逃げてきて、逃げ続けてここにいる」
「あの時、朱莉を助けていれば……私はここにいない。美椛と朱莉と笑ってたよ」
ただ、この時は理解ができなかった。
なぜ、二年前の中学時代のいじめが現在の沙里へと繋がっていたのか。海野は朱莉なら高校でも強く生きていると思っていて、何の邪心も無く聞いた。
「……朱莉は元気か?」と。
彼女は無表情のままスッと椅子から立ち上がり、彼に近づくと頬を平手打ちした。
パンッ!
「知らない、見ていない、朱莉は自殺した。元気かなんて知るわけがない……」
彼女は下細い声で話す。
突然の頬の痛みから今この瞬間まで海野はゆっくりと頭の中で整理を始めた。
------なぜ、頬を叩かれたのか
------沙里の気に触ることを言ったからだ。沙里の気に触ることは
------朱莉の現状と言葉の不手際。朱莉の現状とは
------自殺をして、もうこの世にはいない。海野の目からじわじわと涙と共に数年の後悔が溢れる。
椅子を後ろにずらして両肘をついて頭を抱え、息が荒く体が震える感覚が机にまで伝わった。
中学時代のいじめが高校にも引き継がれている。------つまりそう言うことだ。
「今まで知らないで生きていたの? お前こそ死ぬべきだったんじゃないの? どんな原因だろうと全て元を辿ればお前に辿り着く。あの時に終わらせていれば高校生活は明るかった。先の短いお前がこれから先になんでも出来るはずだった朱莉を殺したの」
海野は叩かれた頬を手で抑え、目の前で立ち尽くす彼女をそっと見上げた。
「------あ、朱莉は最後に何かを言っていたか?」
「遺書に……大人を恨んでいると書いてあった。私や美椛には何も残さずに死んだよ」
海野は溜め込んだ息を吐き出す時に「ごめんな」と呟く、この言葉以外は出てこない。
「朱莉を自殺まで追い込んだのが世間では私ってことになっているの。実際はあんなに仲良かったのにね。教師……いや、朱莉が言う大人たちは既に忘れているんだろうけど」
「そうなのか、今までずっと……」
「でもね……私がやっていないと言って朱莉は帰ってこない。そう思ったらどうでもよく思えてきて、学校へ行かずに働こうと思ったの。今の私には美椛くらいしか寄り添ってくれる人はいない」
「み、美椛は今でも……仲が良いのか?」
「ずっと変わらないよ。でも私とこのまま一緒にいたら美椛の青春がダメになる、だから自ら離れたけどね。誰かに悪い影響を残していくって嫌だもん、お前みたいに」
沙里は口角を持ち上げて、涙を堰き止めるように徐々に下げていく。
この後に沙里が語ったことは、一年後に全て現実になった。彼女は死を望んでいて期日もすでに決めていた、朱莉が死んだ日から二年後、三年生の冬。
そんな事を急に聞かされた海野は当然、何一つ理解ができなかった。それもそのはず彼女は生きるために働くと言っていたからだ。
美椛の前から突然姿を消してから一年後は沙里が飛び降りた日と重なる。
一年の間に美椛は新たな友人に巡り合えると彼女は考えていたが、学校を休んでまで沙里は探し続けた。結局、彼女は自らの存在が美椛に悪影響を与えると考え始め、全てにおいて否定的に生きるように。
自殺欲の加速や増進に過ぎなかった。心音が聞こえそうなほど静かな部屋中で、沙里は侮辱的に睨みをきかす。
「お前だって他の大人と大差ない。クズで嘘つきで気まぐれで口を開けば人生経験不足って……大した人生じゃないくせにさ。私たちを理解したような口振りで……」
終始、海野は頭を下げて話を続ける。
「今までごめんな……朱莉や沙里に今でも迷惑を残してしまって」
「そう思うのならここで働かせてよ。私は死なないしいつでも笑える」
沙里は鞄から履歴書が入った封筒を出して海野の目の前に置く。
「ここに沙里が来なかったら一生逃げ続けていた。でも、今なら変われると思うんだ」
海野は顔を上げ、封筒を沙里に戻して受け取りを拒否した。
「沙里が良ければでいいんだが……家に居たくない時は僕の家に来ないか?」
沙里は困惑した表情で彼の目を見つめる。理解に時間がかかるよう動きを静止して。
「------何? 私を救う気でいるの? もう朱莉はいないんだよ?」
「……なら、救う以外選択肢は無いよ。逃げ続けた人生だったがもう終わらせたい」
「私がお前の家に行ったとしても、急に前を向いて生きてはいけない。お前のしょうもない人生をさらにダメにしてしまうかもしれない。それでも私を救う気でいるの?」
海野は深く頷く。
「親も教師も誰も助けてはくれなかった。それなのに何故……海野が……?」
「初めて助けたいと思った、教師や大人としてではなくて心の底から」
その後、沙里は声を上げて蔑みの混じった暴言を海野に浴びせたが、そんな言葉も全て嬉しさのような情が感じられた。
異変を感じた他のスタッフが数分後に部屋へ入ってきたが------その頃の二人は店から出ていて家に向かう途中の道。
その後すぐに海野は仕事を辞め沙里と暮らし始めた。
幸い浪費癖や趣味もなかった海野には貯金が大量にあった、二人で暮らす分には十分すぎるほど。
沙里との生活において約束をいくつか作り始める。
周りから見れば二人が一緒に暮らしていることなど可笑しく写るため、海野が変な行動をしたらすぐにでも警察へ突き出してもいいと言う極刑な約束を作った。
彼が教えられる範囲のことは従順に学んで、すぐにでも復帰できる環境をキープなど、全ては一人ぼっちになった沙里を救うためだと思えば彼はどんなことも出来る。ただ、救っている自分を評価する時もあった、過去の悪義がなくなるわけでもないのに。
沙里は美椛との関わりを全て切って写真も全て消した。残したのはSNSの関係だけ。愛があるからこそ迷惑や余計な心配を背負ってほしくないと思っての行動らしい。海野は特に否定もせず、沙里の言い分を全て聞いて過ごしていた。
家にいる時の彼女は無表情でスイーツを食べて、ぼーっとテレビを見ている。話しかけても一言くらいしか返えさず、すぐに無音の空間が生まれるも両親から冷たい視線を向けられるよりは良いだろうと考えていた。
その間、彼は沙里から朱莉が一年前にカウンセリングに行っていた話を聞く。
海野は東里駅前のカフェでテイクアウトした紫芋味のケーキを、大皿に二つ乗せると沙里を呼んだ。
家に来てから六ヶ月、彼女が好きなものは『期間限定』がつくスイーツだと知って、三日に一度は遠くの町のショッピングモールに行っては食べ漁っていた。
フォークでケーキの先端を切り崩し、ゆっくりと口元へ運ぶ瞬間に少しだけ口角が上がる。言葉でのやり取りではなかったが、心の底から嬉しそうな目をしていた。
「これって東里駅前のカフェにあるやつじゃん、美椛のSNSに上がってたやつだ」
彼女はテーブルへ来て、携帯を構えながら包装を剥がす瞬間をじっくり見ていた。
「最近、僕まで期間限定っていう言葉に弱くなってきたよ」
ケーキの並びを平行にずらし写る角度を調節し始め、上に乗っていた葉の飾りに窓明かりの光に向けると、背景が白い壁になるように皿を回した。
「------よし、これでいいかな。どう? 海野的にはこの写り方?」
「最高だな、白い壁と紫のスポンジがよく合っている」
二人は目を合わせて微笑み、シャッター音を三回鳴らす。
事前に沙里から美椛には会うなと忠告されるも、本気で沙里を養うために単独で相談に行っていたせいで、海野は彼女と偶然再会した。
働かなければ救えないと思っての行動であり、朱莉を担当したスタッフを見てみたいと言う意味でもあったが、実際に会ってしまうとそんなものに思考は向くわけもなく、一心に沙里を救える人は彼女だと海野は思い込んでしまった。
自殺をする事を既に聞かされていた海野にはカレンダーの日付はカウントダウンのように見えて、再び失ってしまうという恐怖で必死に美椛を探すために『笑空』を訪れた。
日が経つにつれて沙里は死を意識するような言葉を多く使うようになり、私物を整理を始めたり目が腫れ上がるまで泣いている日もある。
同級生との関係を切れても父母とは切れなかったようで、毎回の電話の後には部屋の隅で泣いていた。
「美椛は元気そうだった」と海野が伝えた数時間後、沙里は家から出ていく。気がついた時にはすでに追えない距離に、行き先もわからぬまま。
薄暗い部屋の中のテーブルに置いてあったのは美椛と朱莉と写る三人の写真。それを見た海野は壁に寄りかかり膝から崩れ落ち、ぐらっと頭を床に這わせて涙を流した。
サイレンの音が聞こえ始めた頃に海野はすぐに東里駅に向かった。
移動中に沙里から電話がかかってきたが、声がまるで違った。
荒い息が混じったような男声と「飛び降りた」の言葉とセットで。
そして数時間後に朱莉の元へ向かった。
18話へ続く
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