第16話
美椛はマンションの横にある駐輪場を抜けて、鎖が巻かれている扉の上を跨いで外階段についた。
そのままゆっくりと登っていき、五階に差し掛かる踊り場で腰を下ろす。
携帯を開き、母親と話し始めて数分後には立ち上がって再び階段を登り始めた。六階、八階、十階、十二階------十三、十四階……階段の続きがないことに気が付いた彼女は屋上手前の柵越しから真下を眺める。
風に煽られて景色が揺れて見えるのか、心情が固まっていないのか。少し上に視線をずらすと、オレンジ色の明かりがついた家々が見えた。そして遠くの川が見え、架かる橋は転々と光っている。
柵を両手で掴みながら首を真上に傾け、ぎゅっと目を閉じた。彼女は眠くなったのか、それとも涙が溢れそうになったからか。
数秒後にうっすらと目を開けると目尻を伝って涙は流れ始めた。
上を向いているせいか唾が飲み込みにくく、涙でぼやけた視界にも星は確認できる。横から吹いている風にも匂いがあって、今更彼女は沙里と食べた期間限定のイチゴドーナツの甘い香りを思い出した。
粒々した桃色の装飾品を齧ってみたが思ったよりも硬く味がせず、すぐに店員が食べ物ではないと説明をしてきて二人は大笑いした。
気がすむまで笑い続け、数分後には笑涙のせいで服の袖は濡れていた。
彼女は階段を五段登ると何もない広々とした屋上に着き、辺りにはツルツルとした床と胸辺りまでの高さで、乗り越えるのも容易いと感じる鉄製の柵。頂上へ着くと一気に風は強まり結ってあった後ろ髪が顔に張り付いてきた。
ひんやりとした肌触りの柵に手を掛けて、もう一度真下を眺めると金髪姿の沙里が彼女に手を振っていた。
「------おーい!」
こんな高さから地上の声が聞こえる筈ないのに、美椛には聞こえた。
「------美椛ぁぁぁぁ!」と、近所迷惑も考えずに沙里は叫ぶ。
美椛は両手で耳元を覆ってその場で膝から崩れ落ち、〝沙里はもういない〟そんな事を思いながら、必死に目に映ったものを否定し続けた。
頭をガンガンと叩いて下唇を思い切り噛むと、彼女は頭に血が登って勢いづき柵に手をかけ頭を向こうへ乗り出した。
「------泣いたら、笑えるまで時間かかるんだから、泣くなよぉ!」
沙里は地上で大きく手を振っていて、美椛は思わず頭を引っ込めた。
「私が半年間どれだけ探し回っていたか知っているの? 嫌なのに制服でガールズバーの面接に何件も行って探し回った。電車代だって馬鹿にならないほど掛かった!」
そして真下に向かって彼女は叫び返した。大きく開いた口に長い髪先は吸い込まれる。
「------わかってたよ……でも、私は決めていたから、あの日に------を」
横風が集中的に美椛の耳元を狙い、沙里の声が遮られた。
「何処に行っても誰に聞いても見つからなかった……それでも助けてくれた大人が一人だけいた。嘘くさい顔する奴だったけどお金だけはありそうだったよ。だから今度二人で集りに行こ……」
美椛は流れている涙が嬉しいか、悲しいか分からなくなっていた。
それほど目には様々な景色が写っている。そのまま彼女は掴んでいる腕に力を入れ、スッと体を持ち上げた。
「------美椛が好きだったアイドルの話、期間限定のスイーツも探そ!」
真下から聞こえる沙里の言葉に応えるよう、彼女は片足を柵へかけた。
「------朱莉にも会ったの。かなり垢抜けて可愛くなってた、多分……美椛よりもね」
美椛は体を旋回して外枠に片足をつけると自然に風が止んだ。腕を後ろに回して柵を掴んでいたが、急な静けさに怖気づいて美椛は辺りを見回した。
------もう、何も心残りはない、早く沙里と朱莉に会いに行こう。
美椛は声に出すもどこからも返答は無く、さっきまで聞こえていた沙里の叫び声もふっと消えた。
急な出来事に心音が高まり呼吸が苦しくなって、柵を掴んでいた指先は涙で濡れているせいか少しずつ離れていく、右手が離れると残った左手もすぐに離れ、彼女の体はすぐ真下へ落下した。
横から吹く風も無視しながら一直線に------地上に頬が触れ、体の重みが加わって全てが潰れ、瞬間に鳴った鈍い音も風がかき消していく。
電灯に後ろ髪が照らされて宝石のようにキラキラと透き通っていた。
美椛は最後の意識の中、隠していた心残りを復唱した。残された人々に届くように。
------ずっと、夢を見ていたかった。覚めないまま------
菅野は涙を堪えながら、海野にその言葉を伝えた。
「いつ幻聴を聞いたかは覚えていませんが、その言葉はハッキリとしているんです」
海野は目を瞑り、鼻を啜って机に伏せた。菅野は続けて「夢って精神状態が深く関係しているんです。
でも美椛が見た夢はきっと楽しい事が多かったんでしょう。だから悲しまずに死んでいったのかも知れません」と付け加えた。
一生続く幸せな夢の中。
悩みも悲しみも存在しない代わりに良い事ばかりが目の前にある。誰もが求める物だろう。
カウンセリングなど意味を持たず、それさえあれば悩みなどこの世から消える。
海野は伏せながらも、頭を上下して相槌を打つ。
「一旦、お茶を持ってきますね」と言って菅野は相談室を出ていった。残された海野はゆっくりと顔を上げ、目の前の写真を手に取る。
左端でうっすらと微笑んでいる朱莉、ピースをカメラに向ける美椛、日光が眩しくて目を瞑る沙里。
教師として何を教えてあげられたのだろうかと自問ばかりを繰り返す。
菅野がカウンセラーとして後ろを振り向かせないようにするためなら、海野は教師として前を向かせる事だったのか。
そんなこと彼は今まで考えたことはなかった。歳の差がある生徒に気を遣って、空気を読んで態度を変えていた。もちろん良い意味では無く、嫌がるのを分かっていながら皮肉を言って生徒の将来だって否定してきた。
------覚めない夢、沙里も今それを見ている最中なのか?
------半年くらいだったが僕だって覚めない夢を見ている気分だったよ。
誰かに好かれるというのは案外悪くなかった。
沙里と一緒に食べたホールケーキ、一緒に見た淡い恋愛映画。毎晩のように魘される沙里を見て悩んだ。朱莉の自殺から親に見放され友人も消えて。
出来ることなら変わってやりたいと彼は毎日願っていた。
------ごめんな、もっと話を聞いてやれなくて。
菅野はお茶を持って相談室へ入ると、写真を持って肩を震わせながら独り言を呟く海野に視線を向けた。
分厚くなったクリアファイルを置いて、その横にお茶を置くと、すぐに海野は会釈をしてお茶を流しこむ。涙で減った水分を取り戻すかのように。
菅野はクリアファイルに手を添え「ここに入っているのは美椛さんの相談内容と展望などをまとめたものです。ご両親に許可をもらいましたので------どうぞ」と海野側に開き口向けた。
一センチ程に膨らんだクリアファイルからごそっと紙を引き抜いて、海野は一枚一枚に目を通す。安土が考えてくれた案や梅田が調べてくれた世代別の流行り、上原が読み解いた心理状態、今までのどんな話もまとめられている。
「こんなに話していたんですね……沙里の名前もいっぱい書いてある」と言って海野は一枚の紙に目を止めた。それは美椛が初めての日に安土が書き足した相談シート。
「安土さんは分かっていたんですね……美椛の心身が危なくなっている事を」
安土は赤いペンで大きく、こう書き残していた。
〝時間が経っても見つからなければ、すぐに警察に相談! 長引くのは危険!〟
菅野はこの言葉の意味をようやく理解した。
「安土も過去に美椛と同じような経験をしたと聞いています」
海野は頷き、紙を二枚捲って沙里との関係が事細かに書かれている紙を読み始めた。
もし安土が担当だったら救えたのだろうかと、菅野は何度か思ったことがあるが、ただそれも結果を知ってから急に思ったことで、自分の非力さに逃げようとしていただけ。この後に及んでもまた自分を否定しようとして。
海野は紙に爪を立てて「僕がすぐにでも沙里を説得して連れてきたら、こんな紙を見て泣く事もなかった」とぼそっと呟く。
「------本当は知っていたんですか? 美椛がこの場所に来ていた理由を……」
海野は大きく首を縦に振る。
「誰かに沙里さんを連れてくることを止められていたんですか? それとも独断?」
同じように首を振るが海野は一向に俯いたまま。
「どこで知って誰に言われたんですか?」と菅野は虚な目で睨んで問いただし、縮こまる海野を追い詰めた。
バァン!
菅野は机を思いきり叩き、狭い相談室の壁に音は反響した。少し開いた口元から怒りが漏れ出してシューと音を立てる。
「どうしてっ……言えないんですか? もう二人はいない------話を聞けないっ!」
菅野は血走った目で海野を睨み続け、怒鳴りつけるさざめきで器の水面が声で振動し刺々しく荒波を立てる。
「あなたが……安土に何を言ったか知りません……でも、言える立場だったのですか」
一向に目を合わせようとしない海野に痺れを切らし、菅野は後ろ襟を掴んで引き上げた。
ガバッと持ち上げられた頭から体の震えが伝わり、ひどく怯えているよう。
「わ、悪かった……全て、美椛のSNSで知った……ここへ来る事を投稿していて……」
菅野はその事を数ヶ月前に美椛から直接、絶対に沙里はこの投稿を見ていると断言されていた。
後ろ襟をつかんでいた腕を離すと海野の体は思い切り前の机に当たり、動きはまるでサイドブレーキのよう。重量感のある物音が部屋中に響く。
「------沙里はそれを知って僕に『笑空』に行くよう命じ、架空の話を持ってこの場所へ来た。美椛がどんな事を相談しているのか。そして朱莉を担当していた女性を探して、当時の彼女がどんな風な話をしていたかを聞いてきて欲しいと……」
つらつらと海野は過程を説明していく。
朱莉と美椛が『笑空』へ行っていた事は沙里にとっては好都合で、同時に欲しい情報が手に入るきっかけに過ぎなかった。
そこで海野を使って数年前に朱莉と話をしたスタッフと、今通っているという美椛の現状を手に入れていた。
------架空の話?
朱莉を担当していた女性を探す?
菅野に思い当たる節はあったが不鮮明なものも多く、菅野はすぐに彼の事をまとめた資料を机の上に出し、雑にパラパラと捲り始める。
半年間の引きこもり------両親は高齢でありながらも面倒を見ている。
前職は中学校の教師。
------沙里を家に置いて置きながら、高齢の両親に頼っているとは考えにくい。
数枚の紙を抜き取って海野の頭の上で振りかぶると、菅野は思い切り叩きつける。甲高い音が二発無音の部屋に反響して、痛みは無いものの多少の衝撃はあり驚かすには最適だった。
すでに菅野はカウンセラーとしてこの場所にはいない。
美椛の死を嘆く一人として海野に接していた。
菅野は紙を床に投げ捨て「それが安土だった」と掠れた声で呟く。
「言っていた特徴は茶色い瞳をした背の高い女性。菅野さんの後に来た人が……まさにそれだった。不安になるほど優しくて、嫌になるほど先の未来の話をした。沙里の願望を叶えるために来たのに、急な優しさが怖くなって菅野さんたちに嫌な思いをさせてしまった、もう……寄り添ってくれる人なんていなくて……それでも沙里を守るために働こうと決心していたのに……次は美椛と会ってしまって、全てが上手くいかなかった」
「で? 安土に何を言ったんですか? あなたの後悔なんてどうでもいいんです」
海野は丸めた右手に左手を重ね、円を描くように摩り始める。
「い、以前ここへ相談に来た〝朱莉は大人を恨んで自殺しました〟------と。たったそれだけです。急に優しくされたことへの拒絶反応とでも言うんでしょうか、考えるよりも先に安土さんを傷つける言葉を声に出していました」
------たったそれだけ? 何を言ってんだこのクソ野郎。
海野の伝え方ではまるで〝安土が殺してしまったよう〟にも菅野には聞き取れた。聞かされた瞬間に親友の死を思い出して安土は壊れていった。
助けられなかった事を一生悔やんでいた彼女に、再度追い打ちをかけるように。菅野は唇を噛み、机の上にあった書類を全て床へ放る。
「で、ですが……朱莉は安土さんに感謝をしていたと聞きました。こんな自分にも寄り添ってくれる人がいることに対してです。美椛と沙里しか友人がいませんでしたから」
「何故、そのことを含めて伝えなかったのですか?」
呆然とした表情の菅野は歯をギチギチとすり合わせながら怒りを制御して問う。
「------結局、救えなかったからです」
「相手も人、受け取る言葉によって抱く感情は変わりますよ。特にあなたの言い方は」
海野は無気力に頷く。
一ヶ月前に菅野は宮島から当時の朱莉のレポートを見せてもらっていた。
たった一回の相談で安土は、いくつもの選択肢を用意して次に繋げようとしていたことも知っていたため、海野が伝えなかった事で全てが無下になったことを心中で嘆いた。
急に海野は立ち上がりトイレへ向かった。
壁につけられた時計からカチッカチッと音が聞こえる、時間の経過を体感しているようで、美椛を覚えていられるのはいつまでだろうかと菅野は相談室で一人腕を組み、目を瞑りながら黒いモヤがかかった未来を想像した。
16話へ続く
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