第15話
翌日の朝、美椛は遺体で発見された。
高層マンションの外階段で最上階まで登り、十四階から彼女は飛び降りた。
服のポケットには沙里と朱莉の写真が入っていて、携帯からは数十文字の遺書が見つかり発見時刻は深夜の三時、風が強く吹いていた時で地面に広がった血は影のように張り付いた。
最後の通話履歴は母親で、ひとつ前には沙里があったと言う。『笑空』から数百メートル先にあるマンションでここら辺の建物中では一番、空に近い。
菅野はベッドで携帯を握りしめながら泣き崩れた。
壁の薄い部屋だったが、気にもせずに声を上げて。
窓枠がガタガタと音を立て風が声を上げている。昨日、電柱の横で目を瞑ってからどのように家まで帰ってきたのか一切記憶が無い。
すぐ近くに置いてある携帯からひっそりと通知音がなり、二回、三回と執拗に続く。そして止まったと思ったら次は着信に切り替わった。
菅野は勢いよく起き上がり携帯を拾い上げて部屋の端へ投げつける。
ガンッ!
積み上げられた資料や本が崩れ、携帯は画面側を表にして床で静止した。
『安土玲凪からの着信』
メールや電話の相手は安土。彼は思いっきり目を力強く瞑り、溢れ出る涙を抑えたが、目尻からじわじわと漏れ出ていて掠れた声を出す。止まらない携帯の音は昨日もずっと聞いていた。
美椛を探しにいく時、いつまで経っても声は携帯から聞こえなかった。菅野は携帯を拾い、画面を強く叩いて耳元に当てる。
二回、大きく鼻を啜って。
(------もしもし……菅野?)と向こうの安土は息を切らし、受ける風を携帯のスピーカーが拾っているせいで聞き取りづらい。
(もうすぐそっちに着くから……着くか------ ------)
菅野は無表情のまま耳元から携帯を離して、ボタンを長押しして電源を切った。そのまま寝室を出てキッチンに向かい、頭上に設置されている戸棚を開けた。
積まれた白い皿を端に寄せ、新聞紙に包まれた煙草の箱のようなものを取り出す。包装を一枚ずつゆっくりと剥がし開け口を逆さにして上下に振ると、中でカラカラと音を立てていて蓋を捲ると銀色の指輪が二つ出てきた。
彼は指輪を握りしめて再度寝室へ戻る。
------こんな物を取っておいても良い事はなかった。
彼は二つの指輪でカーテンの隙間から漏れる斜光を遮る。
この指輪こそが、彼にとっての過去であり唯一の後ろ側。父と母が残した物を見ると楽しかった夕飯時を思い出す。
壊れたものはなんでも治すことが出来た父親の大きな手にはこの指輪があった。物静かで口元に手を当てて笑う母親の細い手にもこの指輪があった。
どんなに忙しくても夕飯時だけは家族が揃っていて、二人が死んだ後もそれだけは覚えていた。
いつから人を否定するようになったかを考えてみれば、どうやら二人が亡くなった時だったらしい。目指しているものが格好良い大人から、何でもない夕飯時をもう一度取り戻すことになっていた。
相談に来ていた人と同じように、菅野にだって煌びやかに見える過去がある。他人の人生を否定していたのは私欲や苛立ちではなかった。
彼が求める未来は既に叶えられないと、自らで否定していたからだ。
数時間後、菅野は喪服に着替えて沙里の葬式へ行く準備を始めた。
壁に右肩を傾けながら胸元のネクタイをゆっくりと結ぶ。どんな顔をして美椛の両親へ会うべきか、ソファに座って鏡に向かって表情を作ってみるも全てがため息に変わる。
そのまま後ろに倒れ込んだ。目を瞑り、宙に悲哀をため息に変えて放つ。
東里駅前で菅野は十五時に宮島と合流することになっていたが、着替えている途中で眠ってしまった。
真っ暗な部屋のクローゼットに背中を寄せ、結び途中のネクタイは解けたまま。宮島は何度も電話をかけていたが、彼は携帯の電源を切っていたせいで繋がらなかった。
部屋に明かりはなく、カーテンから覗く月がポケットから溢れ出た指輪を照らす。
彼が目を覚ましたのは次の日の朝。
昨日まであったペットボトルのゴミはどこかへ消えていた。散らばった資料もまとめて積まれていて、冷蔵庫に張り紙が貼ってある。
目を擦り部屋を見渡すと、常に転がっていたゴミは一つも無くなっていて洋服も畳まれていた。
------?
部屋の中に音は無くひと気を感じない。
死んだ母親でも来たのだろうかと彼は思った。
寝室にある携帯を拾い、画面を触ってみるが反応が無い。首に巻きついたネクタイを解いてベッドに腰掛けるとバリっと音がした。
紙が潰れるような。ただ感触は薄い紙切れ、気にせずに携帯の電源を入れると着信がいくつも溜まっていた。上から宮島の名前が続き、安土が二つほど。
-----そうか、昨日は沙里のお葬式……。
玄関に向かうとドアノブに袋がかけてあった。半透明の素材に浮き出ている形は二リットルのペットボトル、ドアには鍵はかかっていない。
忘れて寝てしまったらしい。袋の中には個包装されたおにぎりやパンが入っていて、ビタミンなどの錠剤も入っている。
おそらくはこの部屋を片付けてくれた人だろう。梅田、もしくは上原。
菅野は一瞬、安土を思い浮かべたがすぐに頭の中から消した。
幻想をしても彼女はすぐには帰ってこない。ペットボトルの蓋を捻って一口で飲み干すと寝室へ戻った。
彼は謝りの電話を入れるために宮島を探し始めた瞬間、急に画面が切り変わる。海野からの着信でいつまで経っても鳴り止まない。
「------もしもし、菅野です」
(おはようございます。海野です。こんな時に電話をかけてしまってすみません)
「いえ……大丈夫です。何かありましたか? 僕は今日出勤してなくて……」
(どうしても、菅野さんにお話ししなければいけない事がありまして)
「そしたら休業日はいかがでしょう、僕以外誰もいませんし話したい事を話せますし」
明日の休業日に海野と会う事が決まった。内容は話していなかったが美椛にも話すと言っていた事だろう。
沙里がどんな風に海野に出会い、これまで時を過ごしてきたのかを。
次の日、海野は大きな手提げバッグを持って『笑空』へ来た。
初めて来た時と同じスーツ姿、髪をしっかりと整髪料で整えて。
休業日のために他の部屋には電気はついておらず一番の相談室から漏れた光で、じんわりと周りを照らしていた。
お互いの心情を手に取るように分かってくる感覚は彼が駅前で人を見ていた時と同じ。昨日、宮島から鍵を預かる時に安土も同行すると言っていたがどうにか断った。
わざわざ遠い田舎から来てもらうような事でもないと、少しだけつよがった。今の二人に必要なものは寄り添いや安らぎでもなく、お互いが知らない美椛と沙里を知ること。
海野はバッグを机の端に置き席に座ると、虚な目をしていて常に少し遠くを見ているよう。話の切り出し方を菅野は少々戸惑いながらも、机に一枚の写真を置いた。以前、安土が海野から預かっていた写真。
半年以上もずっと机の中に閉まってあった。
「……懐かしいですね。こん時の僕はもう、何を信じていいのか分かりませんでした」
海野は腕をジャケットのポケットに入れたまま、前屈みでまじまじと写真を見る。
「こんなに笑っている美椛や沙里、朱莉は今でもどこかで笑えているでしょうか?」
薄目のまま写真を見ながら、菅野は問いかけた。答えをすでにわかっていながら。
「さぁ、分かりません。ですが幸せになるために向かったのでしょう。三人は」
「長い人生がまだ残っている……とは言っても人生は満足や充実感で決まってしまう」
海野は息を吐くように「ですね」と呟いた。
「彼女たちが残した声を……聞きましたか?」
海野はスッと顔を上げ、菅野の言葉に疑問を抱えた表情をしながら。
「何か……音声のようなものを美椛たちは残していったのでしょうか?」
「海野さんには僕とは違ったものが聞こえてくるはずです。何故ならその声は」菅野は俯き、細々とした声で「幻聴ですから」と呟く。
聞こえたものが過去のフラッシュバックだったか、それとも妄想だったか。
美椛の声をまっすぐ聞きたかったのに耳障りな風が声をかき消していた。
声を発する度に風が強く吹き抜けて、話が終わっても菅野は聞こうと耳を済ましていたくらいに。
海野は再び写真に目を向けて、部屋はそっと静寂に包まれた。
声が聞こえた場所はどこだったのか------そう考える菅野の周りは黒いモヤが降ってきて微かな光も無くなっていき、何処か別の場所に来てしまったように彼は目を丸くして辺りを見渡した。
すでに『笑空』の中ではなく、海野も暗闇に飲み込まれた。そして闇は徐々に薄れていき、菅野の体も同じように景色と同化していく。
そして遠くにいる美椛の真上は、対して群青色の夜空が広がっていた。電波塔の赤い光がいくつも光り小さな星もある。
彼女のすぐ近くには高層マンションがあった。
------そうか、聞こえた幻聴は飛び降りた瞬間に発した言葉だったのか……。
16話へ続く
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます