第19話

そしてゆっくりと目を開けて時計を見ると夜の十一時。


 マフラーを適当に首元に巻き付けて、コートを羽織るとそのまま玄関から飛び出した。歩いている途中に靴を履き直してまっすぐ駅に向かって歩く。


 今日に限ってどんな道を選んでも追い風だった。駅周辺まで歩くと人通りが多くなり、全ての足は菅野とは逆を向いて進んでいく。

 仕事帰りの人と多くすれ違いながら駅前に着き、頭上の電光板に目を向けると二十三時三十分と出ている。


 ------今日の終電まで残り四本、大体あと一時間くらい。


 菅野は柱の窪みに体を埋めて、改札に視線を置き始めた。吹く風を遮る壁も木も周りには無く、冷たいものが頬や首周りに吹き付けている。

 すぐ隣に併設されている喫煙所から鼻奥を突くような匂いが漏れてきて彼の鼻もそろそろ限界に近い。


 そして終電まで残り一本、彼は改札を抜けてホームへと続く階段を登る。

 顔見知りだった駅員も普段の行動と違うことに困惑している様子だったが止めに入ることはない。


 ホームへと上がり、疎らに立ち尽くす人々の間を縫って一番端まで進む。革靴の底、腹の部分をゆっくりと地面に這わせて進んだ。


 電車が到着するまであと二分。線路を吹き抜けてくる風が菅野の目を乾かして涙を誘った。コートのポケットから携帯を取り出し、安土に電話をかけたが数十秒待っても応答は無い。すでに寝ているのだろう。


 菅野は黄色いブロックを足先でなぞり、黒ずんで付着したガムを擦る。


 右側から来る電車に轢かれたとして楽に死ねるのだろうか、数秒間の間に引きずられる感覚があるのだけは勘弁してほしいと菅野は死を楽観的に考えた。


 ホームに電車が到着する合図音が鳴り、疎らだった人が列に並び始める。だが、彼の背後には誰も並ばない。


 彼と顔見知りだった駅員が奥から前列の整列をはじめ、徐々に近づいてきた。


 「------菅野さん? ここには電車は止まりませんよ」

 菅野は涙を今更止める事はできず、ただ駅員の優しい目を見続けるしか無かった。


 「美椛さん……菅野さんの仕事場を紹介して以来、毎回駅を通るたびに笑顔で挨拶をしてくれていたんですよ。よく響く声で可愛らしく……」


 「------え……美椛が?」


 「それが無くなってしまったのは寂しいですが……菅野さんがあの場所に立たなくなる事も寂しいですね」

 右から吹く風の勢いが強まり電車は到着した。停止する瞬間、空気が漏れるような音を放ちながら人足が車内から出てくる。


 「いつも改札に出入りする人の表情を見ていて、死ににそうな顔の人いっぱいいたでしょう? 実際に状況を知らなくても何となく見えてしまうんです。ずっと見ているとね」


 電車の中から大勢の乗客が降りてきて、菅野は目の前を過ぎて行く人々の表情に視線を向ける。


 皆が出口の方へ向いていて、何でもない明日を見ているようだった。


 「でも……何かしらの支えがブレーキになっていたのかも知れません。急な幸せや不幸は一人では起こりません。誰かと居て初めてきっかけが作られていくんです。目の前を通り抜ける人の表情が沈んでいても、明日には笑って過ごしているかも知れません」


 「------そう……ですね」


 「晴れていても曇っていても、空笑をして周りを明るくさせるんですよ。僕らの仕事は一日の始まりでもあり一日の終わりもなる改札前、そう僕は毎日思っています」


 電車の扉は閉まり、誰も振り返る事なく左側の出口へ続く階段を降りていく。


 「まぁ、そんなつまらない話でしたが……いつでも見にきてくださいね。自販機を置いてしまいましたが、線路を支える柱ならいっぱい建っていますので。人の心は毎日違っていますしね」と言い残して駅員はそのまま階段を降りていった。


 カツンカツンと甲高い音を響かせながら次第に音は薄れていく。


 数分後に菅野は駅から出ると、柱の陰に人が立っているのを見つけた。


 溢れた涙を拭って目を細めて見ると、青色のジャケットを着た若者。誰かを探しているような眼差しを改札に向けているが、その姿はまるで過去の自分そっくりだと彼は微笑ましく思った。

 大人に憧れを抱いて、この場所に立って夢を探していた時。


 若者は柱の影でホットのジュースを握りしめ、改札を抜ける菅野を目で追う。帰り道は追い風だった風は向かい風に変わりコートをヒラヒラと靡かせていく。


それを見て若者は思った。


 ------膝くらいまである長いコートを羽織って、風を受け流すように俯く。こんな大人になりたいと。


 菅野は数メートル先で振り返り、改札前に視線を向けるが既に若者の姿は無かった。捨てられたコンビニ袋が風を受けて宙を舞い、一瞬街灯の灯りを遮って飛んでいく。


 ------そういえば安土が言っていた手紙って……。


 彼はマフラーを雑に巻き直して、駅に併設されているコンビニへ引き返す。


 数分後に店から出てきた彼の手には、手のひら程の大きさのケーキが二つ入った袋が握られていた。




終わり。

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晴曇の空笑 モミジ @mryz

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