第12話
彼は背中あたりに重みを感じた。カーテンを誰かが開けて瞼の外側はすでに明るくなっている。気がついたら朝が来ていて、彼女の母親が部屋に入ってきていた。ただ、安土がどこへいるのかを彼は分からずにいた。
------すでに安土は起きたのだろうか。
「菅野さん……玲凪は昔から寝相だけは良い子だったの」
声が聞こえてから菅野は飛び起きてぐるっと部屋中を見回す。すぐ近くで仁王立ちしていた母親は、彼女に掛かった布団を引き剥がして明るい場所へ体を移動させた。
「お母さん……何で入って来てんの……」と口を開かずに彼女は話す。カーテンの裾に絡まって光を遮る行動に、頼れる同僚の面影もなければ威厳も言葉も彼は出なかった。
「そんな姿、菅野さんに見られちゃってもいいの? ズボン脱げておしり出てるわよ」
そして安土の動きが止まった。直す素振りも起き上ろうともせず。
朝食が終わって二階の部屋に二人は戻った。
「そういえば、夕方ごろには帰っちゃうんだよね」
「うん。長くいても迷惑になっちゃうし……」安土はアイロンで髪の毛を巻いて、鏡越しで菅野の姿にチラチラと目を向ける。
朝からあまり会話は無く、寂しさを直に感じた。
「少し歩くけど美味しいお蕎麦屋さんがあるの。奢ってあげるから行こうよ」
「蕎麦か……最高だな。しかも奢ってくれるなんてさらに美味しくなってしまうよ」
ヘアスプレーを全体にかけて安土は立ち上がった。久しぶりに見る彼女の私服姿。四十近いとは思えない美貌であり、髪をセットするとよりその宝石のような目が映える。菅野は思わず見惚れた。
「言っておくけど、菅野が私に見惚れているのは、鏡越しでバレてんだからね?」
「別に……見惚れて何が悪いんだよ」と言うと彼女は鏡越しから斜め前にいる菅野を睨み始めた。わざとらしくその目を強調するように。
「そんなことはいいから、早く菅野も着替えちゃって、十分後に家を出るからね」
この小さな幸せを安土が退職した半年間、彼は求め続けていた。
既に彼女の両親は職場へ行ってしまい、一階へ降りると菅野に宛てた手紙が置いてあった。
「うわ、お父さんの字だ……わざわざ何を書いたって言うのよ……」
「なんか怖いな。特に失礼はなかった気がするけど……話も楽しかったし」
手紙は端の方までびっしりと埋まっていた。彼女に似た少し斜めがかった様な字で。
「うわぁ……お父さん、文章書くの苦手なのに……ちょっと読んでよ」
菅野は頷いて「菅野さんんへ」と、最初の文を静かに読み上げ始めた。
『昨晩は玲凪のお話とても楽しかったです。仕事に息詰まったり、玲凪の可愛い顔が見たくなったらまたいつでも家に来てください。菅野さんといる玲凪の表情が今までで一番可愛かったです。
思わず昨晩、二階にいる二人を写真で撮ってしまいました。これからも可愛い玲凪をよろしくお願いします』
安土は顔を顰める。何回、可愛いと言う言葉を使っていただろうかと。
「写真撮ってたとは……どこまで私のこと好きなのよ」
「これからもよろしくだって、怒られなくて良かった」
手紙を鞄に入れ、二人は家を出た。歩き始めて一時間、景色はさほど変わらず、田んぼや錆びれたガードレールばかり。そして二時間、建物は増えたがどれも一昔前に栄えたようなものばかり。
看板は剥がれ、無造作に木が生い茂っている。他愛もない話をしているが二時間ともなると流石に話題が尽きてきた。
「後一時間くらいだけど……男のくせに何、弱気な顔してんのよ」
菅野は数日の休養期間で体が鈍っていて、彼女よりも先に息が上がり始めた。
「仕事柄、歩き回るような仕事じゃないからな……十一月なのに暑いなぁ」
安土は呆れた顔をして彼の右手を掬い上げた。細長い指を順に折りたたみ最後の人差し指を曲げる瞬間にギュッと力を入れる。「手を繋いであげる、後一時間は余裕でしょ?」と呟いて彼女は悪戯な目をした。
「まぁ、一時間後にはちょうどお昼時か……後少し頑張るか」
「素直に喜んでよ、ちょっと勇気出したんだからさ!」
菅野は半歩先を進み、彼女を引き寄せた。蕎麦を食べ終わった後は彼女が幼い頃に過ごした場所を巡った。こんな形で過去を知れるとは思っていない。
都会とこの村の違う点を挙げるとすれば残り続けると言うこと。先に進まない訳ではなくて壊されたり塗り替えられたりしない。
簡単にいえば人間と似たようなもの。過去にしたことは残り続けるが新しく何かを始めることは幾らだって出来る。家に戻り荷物をまとめ始めても安土は普段通りに過ごした。菅野自身も別に泣きついてくるだろうとは思っていなかったが、少し寂しい感じがした。
最寄り駅の改札前、ぐるりと見回してもひと気はない。
「じゃあ、二日間ありがとう。ご両親にもありがとうございましたって伝えておいて」
「うん。完治できたらそっちに戻るつもりだから。宮島さんにそう伝えておいて」
「その日まで仕事を頑張るわ、ずっと待ってるからな。それと……」
「何? 電話で言っておいた手紙のこと? まだ渡されていないけど……」
菅野は理解できずに「何だよそれ」と言って寂しさを笑って誤魔化して目を逸らした先に向かってくる電車があった。線路内の伸び切った雑草を揺らす。
「帰ってきたらさ、僕の部屋で一緒に住もう。なるべく綺麗にしてお------」
プアァァァ------ 電車の警笛が菅野の言葉を遮る。
「どんな部屋に住んでるかは知らないけど、狭い家は嫌だからね」
「安土にとっては狭いかもな……でも、前向きに考えておいて。じゃあ、もう行くな」
数秒間、彼女の目を見てから改札へ入った。止める言葉もなければ悲しむ様子もない。また会えるだろう、そんな事は当たり前だと思っているからだ。菅野も安土も。確定した未来なんて存在しないって言うのに。
安土に会いに行ってから二日後、菅野は仕事に復帰した。
一時期は自責に追われていたが会って少しは自分の存在意義を確かめられた。今も昔も菅野がこの仕事を続けていられるのは彼女のおかげだ。
13話へ続く。
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