第11話
菅野はスーツケースを引きずり東里駅へ向かった。
時間帯のせいか、改札前の人は疎ら。いつも立っていた柱の窪みに目を向けるといつの間にか自販機が設置されていた。
「はぁ……、特等席だったのに……」とぼそっと彼は吐き捨て、改札を抜けてホームに上がる瞬間、安土から電話がかかってきた。
「もしもーし、菅野? ちゃんと時間に間に合った?」
「うん。もう東里駅にいるから、あと三時間後くらいに着くと思うよ」
「そういえばさ……今さっき思い出したんだけど……」
エレベーターに乗ると正面が鏡になっていて、彼は痩せ細った自分を初めて見た。
「もしもし? 私の声聞こえてる?」
「聞こえてるよ、で? 何を思い出したの?」
電話の向こうでは鶏の鳴き声が聞こえてくる、想像していたよりも田舎だった。
「昔さ……私が菅野の机に手紙を残したのって覚えてる? 退職前くらいなんだけど」
------手紙? 日時を指定してきた貼り紙のようなものなら覚えているが。
「なんとなく覚えてるけど……それがどうしたの?」
「今更だけど……あのお願いを叶えて欲しいな? 覚えていたらでいいからね?」と言って電話は切れた。聞こえてくる安土の声はかなりの上機嫌。
その後に菅野は新幹線に乗り換え、携帯に保存されている『笑空』の社内風景を見返しはじめた。彼が携帯で写真を撮るときは雨樋の雀が集まっている時くらいで他は全く写す事はない。
保存されているものは全て、誰かから送られてきた写真が八割を占めていて、中でも『笑空』のスタッフ間で頻繁に行われている飲み会の写真が多い。
「五年前」梅田が新人で入って来た時の飲み会で、酔っている安土に見惚れている菅野を横から撮った写真。今となっては恥ずかしいが、好意を持っているのをバレてないと思って何の気なしを装って隣席にいる。
「八年前」上原が新人の時の飲み会で安土の酒豪が発覚して、元ホストの意地をかけた戦いと言いながら二人は競い飲みをしていた。そんな二人を菅野は彼女の二つ隣の席で見ている写真。
「九年前」江田の結婚式で擬似的に菅野と安土は腕を組まされて撮った写真。嫌がりながらも、口元は自然に笑えていて彼女も同じ様な表情の写真。あの頃は襟足を長くしていても街には溶け込めていた。
「十三年前」菅野と安土の入社式が行われていて、彼女はこの頃、髪が短かった。宮島と江田、数年前に亡くなってしまった杉村も写っている。あの時の彼は人間の心など簡単に理解した気でいて入って数ヶ月で打ちのめされていた。
------まぁ、それは今でも変わらないが……。
一時間の新幹線から電車へ乗り換えてさらに一時間が過ぎ、安土の実家がある駅に着いた。辺りを見回しても、草木や工事中の地面ばかりで人が見当たらず、遠くに見える山の一部は紅く色づいて空は水色。
そんな景色に寂しく一本だけ立てられている電柱は不思議な情調だと菅野は感じた。無人駅を降りて、携帯のマップが示す通りにガードレールの無い車道を歩いていく。歩道や車線もないためどこを歩いていいか分からなくなるが、端を歩いたらきっと畑に足を突っ込むことになるはずだ。
ガラガラとスーツケースは音を立てるが、全く音がしないこの場所ではよく響き、民家はあるがひと気を全く感じない。
畦道に立っているカカシ、錆びた自動販売機、無造作に並べられた空瓶。安土は中学生までをこの場所で暮らして、高校生になって単身赴任の父親が行く東京へ着いて行った。
彼女の家がある場所あたりに到着したが、迎えには出ていなかった。
彼は携帯を取り出し、彼女に電話をかけようとした瞬間、後ろで砂利が踏まれる音がした。
------「よう、菅野」
彼はすぐに安土の声だと気が付くが、どんな表情で振り向けばいいか分からなかった。ジャリッと間近で音がして彼の脇腹に後ろから腕が回される。そして匂いもあった。香水売り場の横を何気なく通る時に感じる香気のような。
そのまま菅野は後ろへ引き寄せられていき、スーツケースを掴んでいた手をそっと離した。
「ただいま? おかえり? こういう時って……なんていうんだっけ……」
彼女は耳元で囁く。「多分……おかえりじゃないかな……安土------」
菅野はようやく振り向いて顔を合わせた。前髪がその目に被さっていてもその宝石の輝きは遮られない。
遠くに住む菅野に確実に届いていて忘れる事は無かった。
例えるなら〝希望への導き〟の意味を持つブラウントパーズ、と心の中で彼は囁いた。
「結局久しぶりが正解なんじゃん……私たち今まで抱き合った事も無いっていうのに」
「会えない時間が愛を育むってよく言われるが、このことなのかな?」
安土は砂利道の先を指差しクスッと微笑んだ。
「私の両親だけど……いつから見られていたかは知らないけどちゃんと弁解はしてね」
「え? あぁ……確か、安土は過保護に育てられたって言ってたね。面倒臭いなぁ」
そんなやり取りも菅野は何故か幸せに思えてきて、自然と口角が上がる。
菅野は安土の実家に上がってすぐ夕飯を一緒に食べることになった。テーブルの上にはコップが四つと取り皿が四枚、料理はまだ運ばれて来ていないが、座っていたのは彼と安土の父親だけ。
二階から足音は聞こえるものの下りてくる気配が無く、彼女の父親と菅野はお互い話の取り掛かりを頭の中で探し回っていた。目を合わせることもなく、壁に取り付けられた時計から鳴る秒針音がやけに大きく聞こえる。
カチ、カチ、カチ 「話を聞いている、十年以上も片思いをしていたと……」と父親はようやく口を開く。
「あぁ……間違いじゃないです」
彼は話すことが仕事なはずだったが、彼女の父親は流石に緊張を止められなかった。
「玲凪が菅野くんの話を永遠とするから、症状の一種かと思ってしまったよ」
------そんなことを話していたのか……余計なことを言っていなければいいけど。
「玲凪さんがいなくなってからまるで体の半分を失った感じでした」
彼女の父親はテーブルの下から、湿気でクルッと反った写真を出して菅野の前に置く。
「これは十七歳の頃の玲凪だが想像できないだろ? 今となっては落ち着いた美人になったが、昔は学校へも行かずにプラプラと遊び歩いていた。今は清楚な美人だがな」
胸元がV字に大きく開いた派手な装飾付きの服を着て、口を大きく開けて右手にはピンク色の酒瓶を持つ。菅野は返す言葉も出なかった。
父親は表情を緩め、菅野の固まる顔を見つめる。
「------高校時代もかなり可愛いですね。少しだけ上司に何があったか聞きました」
すると父親は分かりやすいくらいに嬉しがって、写真に何度も目を向けた。
「玲凪の友人が亡くなってしまった事か……あの時ほど泣いている姿は見た事ないよ。だが、あれがなければ玲凪は変われなかった。どこかで確実に萎んでいったと思うよ」
父親は何の変わりない目頭を拭い、涙が溢れ出して来たかのようにシャツを捲って目元に押し当てた。
------いや、確実に涙が出ていない……どういう行動だ?
ガラッと引きずるような音とともにリビング横の扉が開いて「あれ……菅野がお父さんを泣かせたの?」と言って安土が駆け寄ってきた。
さっきまでとは違う部屋着になっていて、母親はそのまま奥のキッチンへ向かう。
「いや……違う、玲凪の話をしていたら可愛すぎて涙が出て来てしまって」と目元を隠して父親は話す。彼女は呆れ顔でティッシュの箱を渡すが、誰も〝可愛すぎて〟という言葉には触れない。
菅野は目の前で家族らしい会話が始まる。羨ましく幸せそうだと思った。ほんの少し彼の後ろ側のあの瞬間を思い出す。キッチンから流れる夕飯の匂いをした煙は団欒への狼煙で、彼は数十年前の光景をもう一度見ている様に感じた。
戻れるなら戻りたい、帰れるなら帰りたい、そんな想いは彼が仕事でいつも相談として受け取っているものと、何の変わりない同じ感情であって一種の夢、希望。
菅野は思わず笑みがこぼれた------これが僕の後ろ側にある思いなのか。
「いい加減私の可愛い顔に慣れてよ。一人暮らしでもっと可愛くなっちゃたけどさ!」
安土と父親は箸を置いて向き合う。
「だから泣いてんだよ! これ以上可愛くなったら高嶺の花になってしまう!」
たった数秒の間で〝可愛い〟という言葉を何回聞かされただろうか。
「なぁ……菅野さん、うちの玲凪は会社で高嶺の花になってないか? ちゃんと一人の女性として、扱ってもらえているか? 甘やかされていては、馬鹿になるから……」
服を無理矢理に擦って赤く腫らした目元に皺を寄せ、冗談か本気かわからないような表情の父親。甘やかしているのは誰が見ていても明らか。
「玲凪さんを見慣れてしまっている人は、何かと女性関係に苦労しているよな?」
「でも私がいなくなってから『笑空』の雰囲気が少しだけ暗くなったって聞いたよ」
菅野に答える時間はなかった。
父親は勝手にため息をつき、天井の電気を見上げてはもう一度ため息をつく。
「そんな事、考えなくてもわかるだろ……。玲凪がいるから世界は希望に溢れている、玲凪がこの世に生まれてなかったら今頃、世界中は戦争だらけさ」
それから十分ほど親子の得も言えぬ会話は続いて、父親が風呂に入るタイミングで一旦は終了した。その後に菅野と安土も順に風呂へ入り、二階にある彼女の部屋で缶ビールを二つ開ける。部屋中には臨床心理学や人の心についての本が積んであり、何冊ものノートに書きまとめてあった。
「こんな田舎まで来てくれてありがとね。お父さんと仲良さそうにしていて良かった」
彼女はベッドに腰掛けて菅野はソファに座っていた。三メートルくらいの距離感。
「詳しくは知らないけど、美椛さんの件が結構大変なんでしょう? 友人が……その」
「まぁ、正直、亡くなったと聞いた時は理解ができなくて自分を責めたくらいだった」
「美椛さんはしっかりご飯とか食べられてそう?」
「まぁ、あれから会ってないから分からないけど。また不登校になってしまって……もし、僕らが彼女に関わらずにいたら、友人は死ぬことはなかった気がして」
彼女はベッドから移動して菅野がいるソファの横へ座った。数秒間の沈黙が続き、彼女は肩に寄りかかる。
「二十年前に同じことを思ってた。親友が自殺したって聞いて私が仲良くなければ未来は変わっていたのかって。でも二人が毎晩寝ずに話を聞いてくれたから今の私がある」
彼女は机に置かれた写真に視線を向ける。父と母に両手を繋がれた入学式の写真。
------それが……今の安土の仕事に繋がったわけか。
「どうしても話されると何かを変えてあげたいって思う。でもそれが返って迷惑だったりするんだよね」
菅野の左肩に伝わる暖かさは風呂上がりの体温だからだろうか、彼女の体は熱かった。
「そうかもね……でも、『笑空』に行ったからって未来は変わる保証はない。美椛さんだって来てくれたからこそ、少し良い方向に進んでいるのかも知れないから」
安土は体勢を変えて両腕を彼の首元に回した。左半身に体重が乗って自然と傾く。
「そういえば、海野って言うお客さん覚えてる? 最後に安土が担当したお客さん」
あの日、海野が安土に対して何を言ったのかをずっと疑問に思っていた。
「まぁ……完全にあの相談がトリガーだった。私の人生を否定されたの。何様って言いたくなったけどなんだか妙に納得してしまって。あの日の苦しさが突然襲ってきた」
------朱莉の相談を担当していたことだろうか……海野なら後先考えずに言いそうだ。
「僕なんか人格まで否定されてしまったよ。何の為にこの仕事しているか分からない」
「海野さんも昔に同じよことを言われてきたんだろうね。なんかそんな気がするの」安土も彼と同じことを考えていた。気遣いや優しさではなくて、無意識に自分に似ていると思ってしまう。菅野や安土は嫌がりながらも海野の気持ちがわかるような気がした。多くの人に触れ合ってきた事は変わりない。
「受け取り方は最悪だっかも知れないけど、何か意味を持っていたのだろうか……」
「私だって苦労してきたよ? もっと努力して来た人はいるけどさ、このままだと私は消えて無くなるとまで思っていた時に、菅野に告白されちゃったからさぁ、ありがとね」
安土は横にいる彼に訴えかけた。過去の行いを褒め称えるように、慰めるように。
「そうなのか? あの時、言っておいて良かったよ」
時刻は十一時、彼女は頭を何度か上下に振って迫る眠気と奮闘していて、最初は首元にあった腕も腰元までずり落ちて最後は雪崩れるように目を瞑った。
ベッド横の床に折り畳みのベッドが敷かれ、菅野はそこで寝る。彼が体勢を変えると安土の頭が床へと落ちていき、その弾みで目を覚ましたが痛がる様子は無い。
そして菅野が「おやすみ」と伝えると、安土は何も言わずにベッドに戻っていった。明かりが消され、お互いが体を動かすとシーツが擦れる音が耳に入る。一階では誰かの話し声がうっすらと聞こえてくる。
菅野も目を瞑ってみるが山積みの問題が一つ一つ、繰り返されてきて、宮島が休みをくれたのも一旦は仕事を忘れろという意味なのかも知れないが人が死んでいる。彼が簡単に忘れられるわけがなかった。
菅野は暗闇に向かって、悩みを飛ばすかのようにため息をつく。上の方で彼女は大きく体勢を変え、寝返りを打ったと思っていたら声が聞こえた。
「菅野、ため息ばっかりつかないでくれる? 気が散って眠れないんだけど」
------そうだよな、こんな状況で簡単に寝付けるわけがないよ。
「色々と考えてしまって、ごめんな。しっかりと寝るから」
掠れる一歩手前の小声で菅野は返す。
「今から私はそこへ落ちていくけどしっかりと支えてね?」
------? 考えている暇もなく彼女は転がってきた。それも彼の頭の上に。
「菅野、どんな体勢で寝てんのよ。真っ直ぐ寝てるのかと思ったら、くの字って……」
「……重い……あと、苦しい」
「------重くないでしょ!」と言って彼女はもう一度体重をかけた。
次は故意のため顔を中心に。数時間後、疲れ果てた二人は床に敷いてある布団の上で眠った。菅野は背を向けて安土はその背中を向いて。
まるで入社当初の関係のよう------彼の背中を追う安土。
11話に続く
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