第8話
3
東里駅に隣接されているカフェに、紫芋を使ったケーキが期間限定でメニューに追加された。普段の菅野なら横目で看板を素通りしているはずだが今、現物が目の前にある。
薄く茶色味がかった三角形のスポンジの縁をぐるりと一周、神社のしめ縄のような生クリームが乗せられ、真ん中の凹みには赤ワイン色をした紫芋のクリームが気泡一つなく塗られている。美椛が執拗に角度にこだわっているケーキの側面は五層に分かれ、最下層のスポンジから上部にかけて色合いが段々に紫に近づいていた。
胸を高鳴らせる彼女の前にケーキが二つ運ばれてくると、分かりやすいようにご機嫌な表情。
「えっ! めっちゃ美味しそうじゃん。しかも思っていたよりも大きいし……紫だわ」
彼女はケーキが乗っている皿を宙へ持ち上げると、シャッター音を三回鳴らした。
「今の子は食べる前に写真に残すって言うのは本当だったのか」
「当たり前でしょ? 何のためにカメラが軽量化して、容量が増えたと思ってんの?」
------それは君ら女子高生のために進化していったわけでは無いだろ?
「そんな事はいいから……早く食べないと時間に遅れるよ」
彼女は皿をテーブルの端へ移し、背景に客を捉えてもう一度写真を撮る。側面の層に光窓を当てると影がはっきりと生まれてグラデーションにも見えなくもない。
「大丈夫、食べ終わるのは一瞬だから」と言って一分後にケーキを全て平らげた。
駅前のカフェを出て、国道を道なりに進むと東里高校がある。美椛の出身高校であり他にも沙里や朱莉などの相談に関わる生徒も多く在籍していた。道路脇には無数の木々が植えられていて四季によって表情を変える。
今日は黄色味がかった葉を散らしながら、風に揺られていた。
数十歩先を歩く制服姿の彼女は、半年ぶりくらいの学校だっていうのに不安も鞄も背負わずに軽い足取り。車で送ると言ったが彼女は歩いて行く方を選んだ。
結局、学校という場所に対してトラウマがあるわけでは無く、沙里がいないから学校へ行かなかっただけ。
彼女にとっていじめはそこまで問題ではなく、居場所があるかが重要だと話していた。誰かの隣にいて、誰かを隣に置いて。きっかけを作ってあげるのは菅野ら大人の仕事であって、将来を考えれば自然と体は動く。
人を選ぶ彼も若者の人生を否定することはできない。最低限の常識は持っていた。
「学校に行くのに鞄も何も持って来なかったけど、大丈夫なのかな?」
「まずは慣れるために、昼前には早退してきなさいとお母さんが言ってたけど……」
彼女は歩道の外側にある境界ブロックの上をバランスよく歩く。
「初めからそのつもりだったし……もし時間があるなら、校門まで迎えにきてよ」
先の方に校舎が見えてきた瞬間、歩道に降りて彼女は足を止めた。
「ほらっ、もう授業に遅れてるんだから、早く向かわないと」菅野はようやく追いつき、横目で彼女を見てみると笑いを堪えているようだった。------? 笑っているのか?
「実は……久しぶりの学校が、楽しみだったり?」と彼は顔を覗き込みながら聞くと美椛は恥ずかしそうに頷いた。車道側に投射された彼女の影だけを見ても感情を手に取るようにわかる。
スキップ調の歩き方で一直線には歩かず、時折後ろに振り返る。
「SNSで周りの子が楽しんでいる姿を毎日見ていたから……少しだけ羨ましかったし」
「そんな姿をお母さんは見れたら泣いて喜ぶと思うよ」
二人は信号で足を止め、菅野は千円札をヒラヒラと彼女の目の前で見せた。 「学食でも自販機でも好きなものを買いな」と言った瞬間、彼女は千円札を片手で掴んで引っ張る。
「足りるかなぁ……でも、ありがとね」
校門前まで小走りで向かい、遠くにいる菅野に手を振って校舎の中へ消えていった。気が付けば初回から三ヶ月も過ぎていていたが、実際のところ何も進んでいない。
通った成果を怪しんだ母親を安心させるために、彼女は仕方なく登校したと言うわけだ。結局彼女はそのまま昼過ぎも学校に残って久しぶりの淡い時間を過ごした。下校時に『笑空』へ来て、出会ってから見たことがないような表情で出来事を話す。
もしここまでが彼女の本当の相談内容だったらと、菅野は心の底から思った。
それから三日後に海野が来た。
チリーン、リン 風鈴が鳴ると、咄嗟に梅田は事務室を出ようとする菅野に視線を送る。〝頑張れ〟という意を込めて。
前回の相談終わりに〝心の声が大きすぎる〟と言う海野の発言が妙に刺さって、菅野は密かに梅田へ相談していた。それを覚えていての行動だろう。
菅野は小さくガッツポーズを向けてドアノブに手を掛ける。前回と同じ上下グレーのスウェットにサンダル姿の海野は「流石に安土さんはいないよな」と悪念の籠った独り言を呟きながらも従順に席へと座った。
------まるで退職に関して何か知っている口振りだ。
「今回も担当させていただく菅野です、よろしくお願いします」
海野は頭をゆっくりと下げ、両方の袖(そで)を捲ると虚ろな目で前に置かれた用紙をじっと眺める。
置いてあるものは相談の料金表だったが視線をずらさず、数十秒経っても動作をしない事に菅野は痺れを切らして「前回の続き」と話を始めても反応は無い。全く動く素振りもなく沈黙の時間が続いた。
時が止まったかのような海野、それを否定するように壁の時計はカチカチと音を鳴らして時を刻む。急に眠気でも来たのだろうか。
------いや、さっきまで安土のことを話していた。
「海野さん……大丈夫ですか? 体調が悪いようでしたら今回はやめておきますか?」
菅野は席から立ち上がり、顔の前で手のひらを仰いでみたが反応は無い。たまにビクッと動くが、故意に首を振るというよりはただ揺れているようだ。
「少しだけ横になりますか? 部屋に布団があるので、もし宜しかったら……」
海野は腕を掻きむしり始め、首を横に数回振って濁音が混ざったような声を出す。菅野は声量を上げて話しかけるが反応は無く、海野は徐々に奇妙な行動を始めた。
「布団持ってきますのでちょっと待っていてください!」と叫んで壁の収納棚を開け三つ折りされた布団を引き摺り出すと、そのまま雪崩落ちるように床に広がった。
「すぐ後ろに用意しましたので、まずは横になりましょう」
菅野が海野の肩に手を置くと地上に引き上げられた魚のように体をバタつかせた。そして彼は自ら立ち上がって後ろの布団へと潜ると、何かから逃げているよう、塞いでいるように顔を伏せ手足を曲げて縮こまった。
出入り口のブラインドを閉めて部屋の明かりを一段階暗くする。海野は話せる状況ではなく、おそらく精神病の症状でもある妄想や思考障害だと菅野は考えた。過去に何人かを見てきたがいずれも十代や二十代。
彼はもう五十を過ぎている。若い頃から患っていたとすれば考えられる話だが------とすると考えられるのは軽い鬱の症状か?
水が入ったコップを側に置き、精神病に詳しいスタッフの江田を相談室へと呼んだが、その間も海野は布団の中で手足を伸ばしたり、縮めたりして何かと戦っているよう。
部屋に入った江田は顔色とうっすらと聞こえる言葉を聞いていた。邪魔になってはいけないと菅野は一旦外へ出たが、突然の出来事で心音が身体中に轟いている。大きく深呼吸をして気分を落ち着かせようにも、うまく息を吸えずにいた。
「先輩……海野さんは大丈夫そうですか?」
突然の出来事から数分後、隣の相談室から上原が出てきた。
「江田さんが近くにいるから対応できるけど……何か幻聴が聞こえているようだった」
「そうなんですね……幻聴か」
ドンッドンッ 相談室の内側から扉が叩かれすぐに菅野は中へ入った、隣にいた上原も同時に。
「……すみません、ご迷惑をおかけしました。もう大丈夫ですので------」と海野は上半身を壁に寄りかからせてコップいっぱいの水を一気に飲み干す。どうやら症状は一時的なもので江田も安堵した表情。
「薬を飲み忘れて……そのせいで症状が出てしまって……今日はもう家に帰ります」
立ち上がろうとする海野に近寄り、菅野は肩を貸した。今までの彼ならこんなことしているはずが無い。そのまま壁を伝い、海野は深くお辞儀をして相談室を出た。
昼休憩の後に菅野は敷きっぱなしの布団を片付けるために相談室へ入った。壁の収納棚を開けて布団に手を掛けた瞬間、どこからか電話が鳴り始める。
ルルルルルルッ、ルルルルルルッ
視界の中に携帯は無く、何かの下で鳴っているよう。彼は音のする方に向かい物を移動させていくが見つからずに音は途切れた。捜索を一旦やめて布団を持ち上げると床に青色の携帯が落下して、海野が布団へ潜った時におそらく忘れていったのだろうと菅野は思い、ため息をつきながら画面側にして机の上に置いた。
ピロンッ 机に振動が伝わり鈍い音が部屋に響き、菅野は布団から手を離して携帯に目を向けた。
長沢沙里「間違って電話かけちゃった・・・」
キュ、9話へ続く!
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