第7話
出勤してすぐ宮島に話があると言われて、菅野は相談室に入って待っていた。
首元の汗を速乾シートで拭き取り、狭い相談室内に凝縮したシトラスの香りが広がる。安土が退職してから一ヶ月が経ち、それぞれがようやく慣れを感じ始めていた。担当していた客は全て分担されていて、支障は夏の暑さと共に少しずつ薄れている。
軽い感じの誘い方で、そこまで重い話ではないだろうと思って待っていたが来る気配すらない。美椛の件は全て説明し、海野の生徒と教師の関係やある女子生徒の死も隠さずに菅野は伝えている。
数分後、宮島は手には収まりきらないほどの厚みがあるファイルを持って入ってきた。
「待たせてしまってすまない、大事なことに気が付いてしまって……」
「いえ……随分と大きいファイルですね」
テーブルにゆっくり下ろし、宮島は胸ポケットに入れてあったメガネを掛けた。中には今までの相談シートが全てファイリングされていて菅野が書いたものもある。生年順に分けられていて、最も多く割り振られているのは二十歳未満、次に二十代から三十代。
「美椛が東里中学校出身と知って、引っかかっていた事があって……どこだっけなぁ」
「……僕もどこから取り掛ろうか入口を探していて」
人生を変えようと託してくれた人達の軌跡を菅野は客名を見て一つ一つ思い出す。
宮島はページを捲る手を止め「この子だ」と呟き、目を向けると年月日を見ると今から三年前、当時十五歳だった彼女は現在十八歳。学年は美椛や沙里と同じで、精神的な悩みで来客していた。びっしりと斜めがかった字で埋められていて赤いペンでの訂正箇所がいくつも書いてある。名前は------三島朱莉。
「当時の担当は安土だったが……二回目からは来なくなったと書いてある」
宮島は人差し指で文字をなぞり、ファイルから目を離して読み進めていった。事細かに性格、精神状態、展望などが記されて母親の姿は無く、制服姿のまま一人で来たという。
〝友人トラブルで他県の中学に入学したが生活が難しくなり、二年生で不登校になる〟
これに関連する事を朱莉は安土に話して以後、姿を見せなくなった。
「当時のことを覚えている……物静かだったな。担当の子に聞いてみたらどうだ」
宮島はファイルを半回転し、菅野へ向けた。「三年も前で不登校になった生徒のこと覚えていますかね?」
「この朱莉って子が今どこで何をしているかは知らないが……同じ中学校だしなぁ」
美椛と同じ中学なら必然的に沙里も知っていてもおかしくない、海野の線も被さってくる。宮島はもう一つのファイルを広げると同じように菅野が見やすい向きに置き直した。
------少し斜めがかっていて細い字……これも安土の字だ。
「安土が担当していた人の今後の展望などを個人的に書いたものだ」
中はそれぞれがリストに分けられていて、希望職種に沿った会社名も少しばかり書いてあった。
菅野も一応は書いているが一人に対して数行くらい。それも似たような文章ばかりで見返しても、何の参考にはならない。
「安土が辞めると言いに来た時、これを菅野に見せてくれという要望があってな……」
宮島は垂れ下がった頬を掻きながら、ファイルに目を向ける菅野に経緯を話し始めた。
「これを……僕に?」癖や好き嫌い、表情の変化、そんなことを今まで彼は書いて残そうと思った事はない。ただ仕事としてそれなりの言葉を掛けて、安心しきった客の顔を見ていた。
目の前に来た客が高齢の引きこもりならば嫌々に感情を抑えて笑顔を作り、若者相手ならば鹿威しのよう相槌を繰り返していた。------そんな背中を、上原や梅田は見ていたのか。
「どうして安土はここまで一人に対して寄り添えたのでしょうか……?」
宮島は背もたれにぐっと寄りかかり遠目で菅野を見つめた。
「彼女が入社して来た頃はいつも何かに怯えるような目をしていた、毎日毎日……」
話を入社時期まで遡り、宮島は話しを始める。
「人間関係のトラブルで親友を亡くしてしまった過去が彼女にはあるんだ。別に彼女が自殺に追い込んだ訳ではないが、悩みを聞いてあげられなかった事に嫌気が差して……」
宮島はスッと頷く。もの悲しそうな表情と憐れんだ目をして。
------おそらく自殺未遂……あまり、過去の話をしたがらなかった理由ってわけか。
「だが、飛ぶ瞬間に死んでしまった友人の顔を思い出した。顔半分は原型を留めてなく死んだらこうなるものと考えるようになった彼女は、臨床心理を勉強し『笑空』に来た」
菅野はファイルから手を離し、膝上に置く。
「ただ、明日には自殺してもおかしくない精神状態の人がここには来る。その人らを見て彼女は言葉の重みを日々痛感していた。対して菅野はすぐに慣れいくがな」
「そうですか……。安土が強くなったきっかけはなんだったんですか?」
菅野はそう問いかけると、宮島はファイルを閉じて二つを重ねた。バランスが悪く今にも滑って落ちそうになっているがギリギリを耐えている。
「彼女は後ろを振り返らなくなった。たまには思い出すだろうが……それでも周りから視認されていきようやく菅野と肩を並べたのだよ。途中で夢でも見つけたんだろうな」
「こんなものを見せられて、僕が安土よりも上だなんて到底思えません」
追いかけられる事よりも隣にいたかった菅野にとって、比べることは一度もなかった。
「少しずつ蓄積されていたものが何かをきっかけに雪崩れてきたのだろう。それが何なのかは知らん」
------バァン! 不安定に積み上げられていたファイルが滑り、音を立てて床に落下した。
「話はこれくらいだ。どうしても菅野に伝えてほしいと言われてな〝心配しないで、大好きだから〟だってよ。ったく、最後に惚気を代弁させられるとは室長の威厳もねぇや」
宮島はフッと微笑み、床に落ちたファイルに手を伸ばす。
柱の溝に体を埋めて目線は改札口に向いている、菅野は無意識に駅前に来ていた。手には缶チューハイとおにぎりが入ったコンビニ袋が握られていて、時計を見ると夜の十時。
ピーン、ピーン 改札の通過音が一定間隔で鳴り続け、ぼんやり聞いていると次第に音が重なって聞こえた。菅野はゆっくりと瞼を下ろしていき、数分前までの自分を思い出そうと改札を抜けて行く人の動きを逆再生する。
------仕事が終わりにコンビニに寄ると駐車場に若者達が座っていて、それを横目で羨ましいと思いながら店を出て家に帰ろうとした。だが気付いたらここへ来ていた。
まるで菅野はこれから何をしていくか、目の前を通り過ぎる人々から探しているように目を開けて視線を向ける。同期の安土は思っていたよりもずっとずっと高い場所にいた。数十年分の差を初めて知った時、急に後輩へ向けている背中を隠すように菅野は後ろを振り返る。
後ろには上原や梅田の羨望の眼差しがあって、彼が怠慢に扱ってきた多くの相談者が言葉も動きも無く、ただ一直線に目を彼に向けていた。前に安土、後ろに後輩や客がいる事を知った彼は背を空に向け、手足を折りたたんでその場で蹲る。
コンビニを出て家路を辿る間に彼はそんな空想をしていた。
そして急激な劣等感に背を負われ、がむしゃらに自分と同じような生き方をしている人を見つけようと------ここへ来ている。
彼は缶の蓋を持ち上げて、目線を改札に向けたまま口元へ運ぶ。だがレモンの味がしなかった。口内に炭酸の痺れが伝うだけで飲み込むと何も残らない、おかしいと思いながらも首を傾けながら一気に流し込んだ。
それから一ヶ月が経ち、美椛の六回目と海野の三回目の予約が入る。少しずつではあったが彼女の緊張が解け、城府を設けずに相談ができるようになった。
初めて来た真夏日から季節はすっかり秋になり、夜には鈴虫に似た音が聞こえてくる。ただ、食事の秋という時期だって言うのに菅野は過食気味になっていた。
仕事柄、考える事が多いのに集中が続かなくなっている。今思えば、梅田と上原を誘って飲みに行った日以来、外食はしていない。食への関心がなくなった訳ではないが早く家に帰って眠りたかった。休みの日も外出する事もなくたまに安土と電話をするくらい。
今までだって相談を大量に抱えた日は多かったが、全てなんとかなっていた。その瞬間は無理だと思えても終わってみると案外そうでもなかったりする。ただ、それは同期の安土が同じように彼の側で奮闘していたからだろう。それによって彼の体は動かされた。
仕事は心を通わせなければ言いたいことも伝わらない。コミュニケーションが大切だと言うのに人を選んでは態度を変えていた彼が、これから一人でやっていけるだろうか。そんな憫察な心配をしていた宮島だったが、美椛にために動く彼を見て安心していた。
安土が退職してから三ヶ月。菅野は美椛以外の相談を自信も無いのに呆然と手をつける。彼がやっている事は半強制のしつけのようだ。口から出るものは優しさではなく客へ対する失意のため息。
『笑空』に来てくれる人の多くは、たった一人の共感や寄り添いを求めている、はずだ。元から否定され、正論に沿って諭されると分かっているのなら遠路はるばると来ない。宮島はそんな実情を見て、少しずつ彼の負担を減らしていった。
その日の夕方、室長の宮島は人知れず東里中学校の理科室にいた。机上に卒業アルバムを広げて何かを探すように早々とページを捲り続ける。数秒後、彼は手を止めて携帯のカメラで見開きのページを写した。
------海野先生。そうか……彼のクラスには美椛や沙里、朱莉もいたんだな。
宮島は文字を指先でなぞると薄気味悪い笑みを浮かべた。
「朱莉を自殺に追い込んだ生徒が……この生徒ですね。進学後でも同じ学校でしたし」
横に座る校内の教員がぼそっと呟き、アルバムの中央あたりを指差した。
「そうでしたか。しかし安井先生がまだこの学校に残ってくれていて良かったですよ」
「ダラダラ残ってしまったって感じですよ。この件で再び宮島さんに会えたのも驚きましたし……人生何があるか分かりませんね」
「この後に東里高校の方も行く予定で……誰か知り合いの教師っています?」
教員の男は手元の紙に電話番号と名字を書いて、そそくさと宮島の鞄へ入れた。カーテンの隙間から覗く暖色の斜陽が二人の背中を照らし、校庭では部活に励む生徒の掛け声が遠くに続く。
そして宮島は中学校を出て線路沿いの道を歩いていき、東里高校の通学路に着いた頃に彼は書かれた番号通りに電話をかける。
「もしもし、東里中の安井先生からお電話番号を教えてもらって------」
『笑空』のホワイトボードに宮島がここへ来ていることは書かれていなかった。
8話へ続く
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