第2話
午後六時過ぎ。
仕事終わりに安土のデスクに向かうと小さめの置き手紙があった。
『七時に東里(ひがしさと)駅前西口で待ってるから、菅野もそこに来て』
ある客の希望職種について調べに行くといっていたが結構時間がかかったのだろう。置き手紙を剥がし、上司への挨拶を済まして『笑空』を出ると夏夜には独特の暖かさがあった。
言葉を変えればぬるく弱々しい風だ。歩道に転がる蝉の死骸を避け、下を向きながら歩く。何か涼しさを感じるものを想像してみようとしたが、聞こえる筈のない鳴き声を思い出した。
日中あんなに騒いでいた蝉たちが至る場所に転がっているせい。菅野は溝に落ちている死骸に手を伸ばそうとしたが、折角静まった夏を再び起こしてしまいそうな気がして腕を引っ込めた。
東里駅に向かっている途中に若者達が電灯の灯りに群がる虫のよう、コンビニの明るさを背に座り込んでいる光景に彼は足を止めた。菓子パンを地べたに広げ、二リットルの紙パック飲料にストローを刺している。
------非行……と思いたいところだが、あんなものは可愛い方だ。街を出ずしっかり家には帰るのだろう。放課後の延長線がコンビの前に繋がっていただけで、犯罪や一生の足枷にはなりはしない。駅前にもごく稀に出没するが、交番が近いのを考慮しすぐに解散している彼らの姿を菅野は頻繁に目にしていた。
約束の十分前に駅に着き、安土を探そうにも似たようなスーツ姿の女性が多くて見つからず、菅野は柱の窪みに背を埋めて何の気なしに改札を抜けていく人の観察を始めた。
あまりこの時間帯に通る人を知らないがやけに高校生が多い。美椛が通っている高校を聞かなかったが、このくらい様々な制服があったらどこかに当てはまりそうだ。
「あれ? お兄さん、もうこの時間から見てるの?」
突然、前の方から声がした。改札口から出てくる人達の軌道から一人外れ向かって歩いてきたのは美椛。菅野は分かりやすく動揺を示して「えっ」と言葉を漏らす。
「何でそうなんのよ、私よ! 今日会ったばかりの美椛!」とブツブツと呟きながら菅野に近づいていく。電灯が照らす向きも相まってスポットライトが当たっているよう。
「いや、友人とご飯を食べにいくから、待ち合わせしてるだけだよ。美椛さんは?」
毅然とした態度で菅野は返す。彼女は不登校だというのにしっかりと制服を着ていた。
「普通にバイト帰りだけど……」
夜七時前に終わるバイトを考えてみたが、彼の頭には制服という稀有なキーワードがチラついて困惑した。
------全くどんな仕事かも見当がつかない。
「お疲れさま、ここから家は近いの?」
「いや、自転車で十分くらい」
話は単調に進む。
「そうか、気を付けて帰りな。コンビニ前に不良が溜まっていたからさ」
「あー……うん。分かった」
話す話題も特に無いため、不自然に口角を上げて二人はその場を過ごす。客への深入りが嫌いな菅野にとって、プライベート中は最も場が悪い。駅前での観察を知られたのも本音を言えば嫌だと思っていた。
「じゃあ美椛さん。時間ができたら遠慮なく来てくれて良いからね」
「分かった。友人って言っていたけど、あのお姉さんだったのね」と菅野とその奥を交互に見ると、推察したように美椛はニヤリと微笑み駅から離れていった。
「菅野! 遅くなってごめん!」と騒ぎながら安土が改札を抜けて、彼の場所へ向かってきた。美椛と同じように電灯が照らす場所をくぐって。
「いや、全然大丈夫。店はもう決まってるから、もう一度駅に入るぞ」
一度改札から出てきた安土を気遣う事なく、菅野は素知らぬ顔のまま駅を指差す。
「はぁ? なら早めに言ってよ。駅から出ちゃったじゃん!」と安土は掛けていた鞄を菅野に思い切り当てて、呆れたような声で不満を放つ。彼はこうなる事をすでに分かった上での行動だった。
「悪い悪い……でも駅前を指定して来たのは安土だろ?」
彼女は菅野の肩に手を置き「私が悪いって言うならもう一度目を見て言ってくれる」と囁き、ぐっと顔を寄せると彼の体は思わず縮み上がる。分けた前髪とマスクの間にある二つのブラウントパーズのような瞳、それでいて彼女はその武器を理解していた。
向かいの電灯もその事実を悟ったように彼女の宝石に照らし、鉱物の奥に光を通す。スポットライトのような外部光ではなく内から神秘的な輝きを与える。
そんな惹句を一瞬にして菅野は脳内でナレーションを作り上げた。
「------いや、店の場所を伝えていなかった僕が全て悪いわ」
簡単に言えば菅野は安土に惚れていた。
〝目は口ほどに物を言う〟と言われているが、それは大きな間違い。実際は口や身振り手振りなんてものは信じられない。
目で語るものが全てだと彼は思っていた。最近では瞳孔の大きさや視線についての研究が進んでいて心の動きは瞳に現れる。〝死んだ魚のような目〟だって、その人を実際に見てなくてもどんな心情かなんてすぐに想像がつく。
きっと菅野が彼女を見ている時だって何らかの変化は出ているはずだ。
そのことを安土に伝えたのは入社して五年後、今から十年以上前のこと。
菅野は大学で臨床心理学を専攻していて、人間の心を軽く理解したつもりでいた。就活はまず初めに時間に追われる仕事、企画や営業といったノルマが設けられている仕事も外して残ったのが今の仕事だ。
個人で経営するカウンセリングルームで当時の社員は三人。そこに安土と菅野は同時期に就職した。単に仕事上や人間関係の悩みを聞いて心の翳りを晴らしてあげる仕事だと思っていたが、先輩の仕事を見ている中でやけに客との距離が近いと感じる、それは安土も同じだった。
相談当初は荒々しかった性格も数ヶ月後には丸く穏やかになっていて、一人にかける時間と労力が他のカウンセリングルームとは比べるまでもなく多い。それこそがこの会社の売りだったが、菅野にとっては悪い話でしかなかった。
妥協や解決済みという自己暗示をすることなく長く人に寄り添う。大学で学んでいた単純な脳の回路は全く意味を持たず、毎日が勉強の日々で思わぬ角度からの相談や悩みがあった。
だが一つだけ良いこともある、それは自分よりも下の人間を知れること。
若い頃に両親を同時に失った彼は自らを一番不幸な人生と感じていた。だがそれは間違っていた。誰一人塞ぎ込む事なく、明るい未来を見るために来ている。
残った人生を不幸だと決めつけずに前を向こうとしている人が半数以上だった。
目を見れば、目には見えない心を見ることができる。空笑や嘘くさい賛美は目を見てしまうと、意味のない行為だと思える。安土の目を見続けると大きな鳥類の脚に捕まれているように体が動かず固まる。
目を逸らしてはいけない気がするような、瞬きさえも躊躇してしまうような。だが菅野の場合掴まれたのは目だけではなくて心も同時に。
彼女はあまり自ら過去を明かさない。菅野は十年以上も一緒にいるが、知っているのは高校時代に多くの異性から好かれていたことくらい。知りたいようで知るのが菅野は怖い。
秘めている部分へ慎重に手を伸ばすのはカウンセリングも恋愛も何変わりない。
安土は肩に乗せた手をパッと離し「分かってくれたらいいの」と言って呆気なく目を逸らした。彼は紅潮したまま遠ざかる背中を目で追って、数メートル先で彼女が振り返る。
「何ぼーっとしてんの? 美人な同僚とご飯に行ける現実に今更緊張してきたか?」
そんな過誤な自信ですら彼女の目にはしっかり現れている。
二人は淡いオレンジ色の電飾が等間隔で吊ってある居酒屋に入った。予約をしていたが二人で使うには勿体無いくらいの広い個室。先に暖簾を上げて安土が中へ入っていき、後ろ髪が靡くほどエアコンの風が強く熱していた体を急速に冷ましていった。
「なんか場違い感すごくない? 普通にカウンター席でもよかったんだけど……」
敷いてある座布団は八枚あり、横になって寝られるくらいの広さの座敷席の壁にある小窓は、分厚い窓枠も相まって東京の夜景を収めた一枚の写真のようにも見えた。見惚れるわけではないが、ずっと眺めていられる景色だ。
「まぁ狭いよりはいいんじゃん? それに今日話すことも静かにしたいからさ」
菅野の言葉に彼女は頭を軽く上下し、何かを理解したような表情で奥の席に座った。
「あれ? 菅野って明日は休みの日だよね? 十九日って確か……」
「そうそう、だから今日は明日のことを考えずに飲めるわけです」
「いいなぁ、私は明日三人も予約が入ってて、一人は自傷行為がやめられない子で」
「まぁ……長い付き合いになりそうだな、何かあったら担当を変わるよ」
「ありがとね、菅野くん」と語尾にハートがついておかしくないほど過剰に甘い返し。既に彼女は酔っているのかと思えるほど、テンションが高い。
「とりあえず飲み物を適当に頼んじゃうね。いつものでしょ、どうせ」
菅野は生ビール二つとお品書きに大きく載っていた刺身盛りを頼んだ。
先輩には話せないことも同期の安土になら一呼吸置かずに話せる。もし彼女が居なかったら、菅野でさえカウンセリングルーム通いになっていたくらいまで追い込まれた事もあった。
多くの人生を右に左に振ってしまうこともあれば、揺れを止めてしまうこともある。心身に少しずつ蓄積されていく苦悩やストレスが仕事には付き物。実際、いつ壊れてもおかしくない状況なはずだが今は〝慣れ〟というフィルターで霞ませているだけ。
冷酷な性格の菅野ですら同情をしてしまう相談などいくらでもある。いかに一人で抱え込まないことが重要だった。
月に一、二度度の間隔で数人スタッフを集めて飲み会を開いていたが、今回は安土と菅野だけ。それに対して彼女は妙に心躍らせていた。
「------で? 話したい事って何よ、わざわざ予定蹴って来たんだから」
安土は両足を大っぴらに放って縮こまった体を伸ばす。
「いやぁ……最近、二人で話す時間なかったし、わけなく会うのも良いかなって……」
菅野の意外な答えに彼女は口を大きく開け、わざとらしく頭上の電灯へ向けて仰反る。
「なんだよ、そんな理由なら先に言って。大事な話かと思ってスーツで来ちゃったよ」
「最近さ、やけに相談に来る高校生が多くないか? 気のせいかも知れないけど……」
「うっわ、いきなり仕事の話かよ」
トンットンッ 壁を小突く音が聞こえ、安土は急いで足を閉じてすまし顔を作る。生ビールが二つテーブルに置かれ、店員が退出するのを見計らって菅野はファイルを取り出した。
過去の相談者の年齢と職業、軽い相談内容が書かれている。
「まぁ、高校生っていうか比較的若い人たちが多いよね。はい乾杯!」
手元に置いてあるグラスに安土はひとり当てて、そのまま喉に流し込む。
「それに男女比もわかりやすいように、女性が多いし……」
「人間関係、将来、異性への意識が一番混合する時期なんだろうね」
「安土は高校時代に似たような悩みはあった? 溜め込んでいた事とか」
菅野はグラスの下層から浮き上がる炭酸に視線を落としながら話を続けた。
「無いよ。性格によってだと思うけどなぁ……言えない子は誰にも相談しないし」
「だよな……相談に来てくれる子なんて氷山の一角に過ぎないってことか」
「逆にさ、仕事以外の悩みは菅野にはないの? 色恋話でも今なら聞いてあげるよ」
「一切無いね。毎朝、雨樋の上で鳴いている雀が可愛いと思うくらい」
菅野がそう答えると、安土は目元に皺を寄せて半歩下がったような表情になった。
「老後みたいな生活してんじゃないよ。お金あるんだしちょっとは遊べばいいじゃん」
「それがな……三十年以上経験してこないと何をすればいいか、分からないんだよ」
「真面目だねぇ菅野は、良く言えば誠実だけど……」
------誠実か。コンビニ前にいる若者たちを今更、羨んでいる僕を誠実って言う
のか?
「そんな褒め言葉に変換するとは、安土は長い人生を歩んできたんだな」
「たったの二十年無いくらいねっ!」と言って持っていたグラスを力強くテーブルに置いた。二人は普段からこんな風に年齢いじりをする、三十代後半を楽観視できる唯一の時間で、友人があまり居ない二人にとって同世代は何よりも貴重。一方的に菅野はこの先の人生に安土が不可欠だと思っていた。
最も理解してくれていて笑みも涙も見せ合っている、そんな彼女に思いを伝えようとして予定を合わせた。
三十七歳にして初めての告白。
「なぁ……安土……玲凪(れな)------」
菅野は名前を言った後に、頼んである刺身はまだ来ていない事に気がついた。運ばれてくるタイミングによっては伝えている最中だってこともあり得る。
「いきなりフルネーム……ってどこ見てんのよ」と安土は反射的に首を引っ込めた。
暖簾が上がり、刺身盛りがちょうど良く運ばれてきた。
「うわぁ、来たじゃん。美味しそう」
目の前で固まっている菅野には目も向けずに、彼女は刺身を取って小皿に乗せる。店内BGMが切り替わるタイミングを待ち、菅野は笑みを無理に作って話を始めた。
「一旦……話をしてもいいか? それとも先に食べようか……」
菅野は緊張で口が最大限まで開かず、ア行の言葉の発音に違和感を持った。
「別にいいけど食べながら話す事ってできない? 移動続きでお腹すいちゃってさぁ」
安土は端に重ねられていた小皿を彼の前に置き、箸をその上に置いた。
「分かった。食べながらでもいいから、耳だけこっちに向けていてくれ」
「そんなに大事な話なのね」と言って箸を置き、下ろしてある後ろ髪を左右に振った。
「安土と十年以上同じ職場で過ごしてきて様々な姿、変化を見てきた。ただ、仕事から切り離しても頭の中にはずっといて……気付いたら僕は安土の事が好きにな……」
菅野は次第に小声になっていき、最後の方は掠れた。彼女の目元には薄く涙の膜が張られ、天井から吊られているオレンジ色の電飾が他方向から照らす。そして数秒後には溢れ出した。肩に乗っていた長い髪がスッと真下に落ちて、肩を小刻みに震わせながら必死に涙を堪えようとする姿を彼は見つめて数十秒が過ぎた。
「な、なぁ、安土……大丈夫か?」だが反応は無い。
鼻を啜る音が一定間隔になった頃、目元を赤く腫らした安土はようやく顔を上げた。
「------ごめん。嬉しくなって涙が止まらなくなっちゃった……ごめん」
隣席の笑い声が遠くにある感覚、まるで彼女の声以外を遮断しているような。
「その……告白をしようと思ってたんだ、突然でごめん」
「いや、こんなこと言うのっておかしいけど、その……続きを聞かせて」
目尻に溜めた涙をグイッと拭って、安土は真正面にいる菅野を見つめた。
「どんな人生を過ごして来たのか、癖はなんなのか、どんな風に物事を考えるのかを知りたくなっていた。安土を好きになった日は今思えばずっと昔だったのかも知れない」
菅野は一言ずつ抑揚を付けて言う、今度は掠れずに。
「------つまり? 私にどうしろと?」と歪んだ笑顔で安土は聞き返す。
「付き合いたい」
彼女は目を細め、口角を目一杯上げた表情で深く頷く。笑みを隠すように唇をぎゅっと結びながら「年齢は十個ほど下ですがよろしくお願いします」と恥じ入るように返した。
二人が付き合い始めてから一週間が経った。
社内では何の変わりない過ごし方をしているが、目線がぶつかる事が多くなった気がしていると菅野は思う。一昨日、安土の家に行って溜まっていた愚痴を二時間ほど話した。いや聞かされた。
日々、他人の話を聞くことは慣れているはずだったが親身になって聞く事ができなかった。女性の愚痴は思ったよりも中身が少なく、解決させると言うより聞かせることで楽になるのだろうと思った。
3話に続く
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