第4話

 菅野の今日の予定には引きこもりの男性の相談が入っている。数週間前に来た人とは別だが年齢を聞いてため息が出た。歳は五十で両親は高齢でありながらもその男性の面倒を見ている。

 今更何を変えられるのか、社会はあなたを必要としていない事くらい誰にだって分かる------と網戸に張り付いた騒がしい蝉を眺めながら彼は呟く。


 あの若者たちを見て感じた、無視していい過去なんか存在しないと。将来を見続けて今を大事に扱う。柵越しから見ていた人の目は怖いくらい冷めていた、やはり目は心中を隠せない。ただ、それはあくまでも建前だ。菅野にとって歳を重ねた引きこもりは夏場の蝉よりも苛立たしい存在には変わりない。


 チリーン、リンッ 猛暑日と定められた外気温に差し掛かった昼過ぎ、風鈴が鳴ってスーツを着た男性が入ってきた。額からは汗が流れていて、ピシッと四角に折り畳まれたハンカチで拭う姿は菅野が思っていた容姿とは随分ほど遠いものだった。

 「こんにちは! こちらのシートを記入してお待ちください」

 いつものように安土が対応すると男性はゆっくりと頷き、すぐ横に置かれている長椅子に座った。数秒の沈黙を挟み、「すみません。今って……何年でしたっけ?」と彼女に尋ねる。

 本棚の上に置いてある小さなカレンダーを手に取って見せながら「今は2020年ですね」と答えると男性は軽く会釈し記入を再開した。眠っているように俯き、目を細めゆっくりと手を動かす姿はまるで悟りを開いているみたいだ。


 「はい! ありがとうございます。では……一番手前のお部屋にお入りください」

 書き終えると右手を長椅子、腰元の手すり、木製の柵と順番に持ち替えて重そうに腰を上げた。靴底を床に引き摺りながら菅野がいる相談室に向かう。

 「こんにちは、担当させて頂く菅野です。荷物は下の空箱に入れちゃってください」

 男性はドア横で一回、椅子に座る直前にもう一回頭を下げる。

 「海野(うみの)と申します。本日はよろしくお願いし致します……」ゆっくりとした口調ながら丁寧な言動と動き。彼は一通りの流れを説明してから相談シートの記入を始めた。


 「いきなりですが、海野さんは何年前まで働いていましたか? 大体で結構ですので」

 「三年前くらいです。長いこと教師をしていました」

  ------社会から離れて三年……随分と最近だ。

 「そうなんですね……相談内容の中に〝対人への恐怖感〟とありますが、話せる範囲でいいので経緯を話してもらう事ってできたりしますか? どんな些細な事でもいいので」

 海野は鞄を持ち上げて膝上に置くと一枚の写真を取り出した。端が折れ曲がっていて少し黄ばみがある。

 「あの……これは私が教師人生で最後に受け持ったクラスで、ここにいるのが私です」

 写真には三十人くらいの生徒と真ん中に教師が一人。記載されている年数は三年前。

 「何ていうか……結構荒れたクラスでして、私はいじめを見ていないフリをしていました。明らかに蹴られた跡のある女子生徒を無視して……それが半年間続きました」

 海野はゆっくりと話し始めたが、菅野と目線が合うもすぐに逸らす。


 「そして半年後、私は親の介護があると言って学校を去りました。向けられていた生徒たちからの突き刺す様な目と己の弱さから逃げてきたのです」

 何十年と続いてきた教師人生をさっぱりと切れるほどの威圧感がそこにはあった。菅野は黙々とシートに向かい合い、話すテンポがゆっくりの為に全ての言葉を書き続ける。

 「もし校内で見えている現状が片端だとしたら、耐えていた女子生徒の苦しみはどんなものだったかと考えているうちに軽い鬱に……それで家に引きこもり始めました」

 ------海野はいじめが見えている部分だけでは無いと知った上で無視を続けていた。

 「その中で一人……まぁ、個人のプライバシーで名前は伏せますが、受け持っていた生徒が自殺をしたと聞きました。我々、大人を恨んでいる旨の遺書が見つかったそうです」

 薄目を開け、まるで手前の机に言葉が書いてあるかのような単調な話し方。抑揚が無く、ただ菅野は相槌を繰り返しているだけで話は勝手に進んでいく。

 「私はその子の担任であり深く接した大人でもあります。考えない日はありません。私の教育においてどこで躓いてしまったのか。それを悔やむばかりで先には進めず、対人への恐怖で社会から遠くに」


 海野は話終えるとスッと菅野の顔を見て静かに微笑んだ。脱力したような表情と溜まっていたもの全てを吐き出せた様な満足感を感じる。菅野はボールペンの先を強く紙面に突き、シートへの書き込みを終わらせた。

 「------その件は、海野さんだけが悪いわけではありません。ですが、亡くなってしまった生徒を忘れて前を向くというのは出来ません。悔やみながらも、共に私達は寄り添って考えて参ります」

 彼は因習的な言葉を伝え、何の感情もないまま右手を差し出した。向ける表情は笑顔。


 「寄り添う……ですか、ありがとう……ございます」

 そう呟くと首に繋がっていた糸が切れたように、海野はゆっくりと頭を下ろして手を握る。相談シートの一枚目を捲り、彼は足元の棚の影に携帯を隠して安土へ電話をかけた。

 「復帰後に就きたい職種などがお決まりでしたら、何でも良いので教えてください」

 「やっぱり子供を見るのが大好きです。何でも良いので関われれば……」

 返された言葉を聞いて菅野はこの男のことが更に嫌いになっていった。一度は嫌になって逃げた世界。対人間において好き嫌いは執拗に貴方を追いかけると心中で思いながら、彼は微笑みを作る。

 「分かりました。では、次のステップに移らせていたただきます。お隣の二番のお部屋へお願いします」

 「次は何を話すのでしょうか……?」

 「より事情などを詳しく聞いた上で合ったものを探していく……みたいな感じです」

 何となくは納得した様子で海野は荷物を持って部屋を出ていった。話し方がゆっくりで単調だったせいか、感情と切り離しているみたいだった。思い出したくない過去を話す時人の目は濁ったような灰色になる。

 瞬きを忘れ、乾いて、目の前のものが反射しているだけかもしれない。ただ、あの男は仕方なく話しているような、自ら変わろうとはしていない気を菅野は感じた。


 窓外は暗くなり退勤時間まであと三十分。あれほど騒いでいた蝉も寝てしまった頃だろう。馬が合わないと感じて海野の件を安土に丸投げしてしまったが、上手く話を進められただろうかと菅野は時計を眺めながら思った。相談中に携帯を繋いでいたのも引き継ぎをスムーズに行うため。


 彼は気になって安土のデスクを見に行くと、数時間前に見た黄ばんだクラス写真が置いてあった。

 ------まさか、この中にいる生徒を探してくれと言う、探偵の様な案件でも受けたか? 

 真ん中で微笑む教師時代の海野------先生。生徒の大半は日差しが眩しいのか、目を細めて真顔になっている。どこにでもあるようなこのクラスの中に、命よりも優先すべき憎悪が生まれているとはとても考えにくかった。どの子が、どの子に対して何をしていたかは知らない。

 ただ菅野は身勝手に------この子かもと思った。何の根拠もなければ説明だって難しい。でも直感で、一瞬で、脳は悪そうなやつを抽出した。

 両端の生徒と違和感を持たせるような間で頬横にピースを構えて、カメラに向かって笑顔を見せる女子生徒。海野を担当した安土のレポートに一通り目を通したが、聞いた事とさほど変わりない内容。


〝物静かな印象を持った〟と斜めがかった字で記入されている。明日も海野は予約を入れていて、菅野は担当を完全に安土へ変更をするために上部の担当名を書き換えた。

 だが翌日、安土は体調不良で欠勤した。昨晩に電話をしていた時は普段と変わりない感じだったが、この狂った暑さのせいもあるだろう。他のスタッフと安土の仕事を分担し、菅野は昨日に引き続き海野を担当する。

 コーヒーが入ったカップを持ちながら、菅野が用意をしていると一人のスタッフが近寄ってきた。前髪を真っ直ぐ下ろせば目元がすっぽりと隠れてしまいそうな長髪のこの男は上原。


 「安土さんが体調不良なんて珍しいですよね? 僕は初めて見ましたよ」

 歳は菅野と近いが『笑空』に入ってきて八年。前職はホストだがイメージと違い律儀で可愛い彼らの後輩。

 元の職業柄、話を聞き出すのが滑らかでオマケに顔も頭の回転も良い。

 「まぁ……昨日は別格に暑かったからな。ゆっくり休む日もあっても良いかもな」

 「仕事帰りにでも、何か甘い物でも買って届けてあげれば良いじゃないすか」

 上原は菅野だけに聞こえるよう、耳元で囁く。

 「なんで安土の見舞いに行くんだよ。明日には元気になってるって!」

 菅野は声を荒げたが、上原は両肩に手を置いていて無理矢理に上半身を旋回させる。力が強かったのと手にはカップを持っていて抵抗する術が無かった。すぐ後ろにいるスタッフは安土以外揃っていて、クルッと半回転させられた先にはスタッフの嘲笑するような眼差しが計十個ほど。

 菅野と安土の先輩の江田に至っては口元に手を当てて、まるで小動物の赤ちゃんを愛でているような表情だ。


 「……多分、みんな気づいちゃってますよ。先輩と安土さんの……関係」

 上原は浅く頷き『笑空』の室長である宮島もまた、一番奥のデスクで菅野にグーサインを向ける。嫌な気分ではなかったが少し戸惑った。揶揄われるとはこう言うものなのかと初めて彼は理解した。

 「------すみません、これって、何のことですか?」と菅野は無知を装う。そして周りの目線は安土のデスク周辺に集中した。事務室のデスクは縦に五列、横に二列あって、右側の二列目が彼の席。急いでデスクに向かうと小さな貼り紙が貼ってあった。


『明日、体調不良で休む。もし心配で大好きな私に会いたくなったら、

           甘い物でも買って家まで届けてね。  安土 玲凪』


 菅野が読み終えて周りを見回すと既にそれぞれの仕事を始めていた。もちろんの事、上原も。すぐに机上から剥がし彼は平常心を取り繕って仕事を始める。

昼の休憩中に菅野は上原を外へと連れ出し知っていることを聞き出すと、休みの日に安土は関係の匂わせ発言を繰り返していたと答えた。

 「十年来の関係がある男性から、実は昔から好きでしたと告白をされてしまいましてって、結構大きな声で話してたんですよ」と身振りを激しくして、表情をコロコロと変えながら当時の状況を説明する上原。

 「それで? 菅野って名前が出たのか?」

 「出てないんすけど、先輩が安土さんのことが好きなのは有名だし、察したというか」

 「え? いつ好きって言ったんだよ。そんな話を笑空で言ったことないよ」

 「先輩が安土さんを見る時の目がなんかこう------めちゃくちゃ輝いんてるんですよ」

 菅野は目元に指先を当て「これが?」と聞き返す。

 「例えるなら、高級店のガラス棚に入ってる宝石を見ている様な目というか」

 その例えを聞いてもなお、彼は理解ができなかった。

 「でも、最初に気付いたのは先輩の江田さんなんですよ。あの人、女性特有っていうか恋愛ネタ好きだから何となく違和感を抱いてしまったんでしょうね。その後に室長の宮島さんに伝わったという流れですね」

 焦ったように取り繕う上原の口元はずっとニヤけていた。


 「隠していても面倒だしなぁ……上原が言っている通り。付き合ったのは最近だけど」

 菅野は平静さを取り繕って自白した。

 「完全に好きな人を見るような目、してましたもん」


 職業的に嘘や誤魔化しが透明に見えるスタッフも多い。 


 彼はもう一度、上原を睨んだ。


5話に続く

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