第5話

 チリーン、リンッ 風鈴の音が鳴って海野が入ってきた。


 二回目で手慣れたように名簿に名前を書き横の長椅子に座る。すぐに奥の部屋から江田が出てきて名簿を確認して案内を始めた、休みの安土の代わりと言ったところだ。前回のきっちりとしたスーツとは違ってグレーのスウェットにサンダル。髪は右に大きく跳ねていて、たった今起きましたと言われても納得できる姿。

 「こんにちは、今日もよろしくお願いします」

 手に持った長財布を椅子に座る前に静かに横のポケットに仕舞いながら「今日は安土さんじゃ無いんですね」とぼそっと呟く。暗い表情でもない、かと言って残念がる様子もなく菅野は困惑した。

 「そうですね。今日は僕が担当させていただきます。前回までの続きの話で------」ダンッ! 海野は突然、両腕を机にだらりと乗せ前屈みで大きく息を吐いた。温泉に胸まで浸かる時の第一声のように。


 「菅野さん……〝まるで引きこもりだ〟そんな風に今日の僕を見て思いませんでしたか?」と仏頂面で彼に問う。菅野は目の前に座る海野をじっと見下ろした。


 ------この男はいきなり、何を言っているのか。


 「いえ……特に思う事はありませんでしたが……」

 彼は乗せていた腕を下ろして背もたれに仰反ると、グーッと両腕を宙へ突き伸ばした。

 「あなたは心の声が大き過ぎます。あれですか? 接客業をしていても早く帰れと思いながら、お客に対応する様な感じなんでしょう? そうでしょう?」

 吸った息をそのまま不満に変えて出したように海野は話す。第一印象の物静かな印象が消え菅野の心中で憤りが再び姿を見せた。駐輪場で見た瞬間消えたと思っていたものが。

 「そんな事ないですよ。このお仕事が好きだから続けているんです」

 怒りを隠すよう何食わぬ顔で彼は返す。そんな答えを求めていない事くらい分かるが。

 「でも……人には好き嫌いを色濃く示すんでしょ。それです、教師から離れた理由は」


 ------この男は頭が狂っているのか? 突然話し始めて人を理解している口振りとは。

 「でも、好き嫌いは誰にでもあって、特別恥じる様なことはありませ------」と言い終わる直前、海野はいきなり机に拳を叩きつけ、部屋内にドンッと轟音が響く。

衝撃の弾みでボールペンが床へ落下した。

 「似た様なことを安土っていう女にも言われた。よくあんな身なりで言えるよなぁ?」

 値切る商人のよう声を低くして怒る海野を見て、甲高い心音が彼の身体中を駆け巡る。

 「隣の部屋に他のお客様もいらっしゃいますので、そういう行動はお控えください」

 海野は自分を落ち着かせるように、鼻から大きく息を吸った。


 『笑空』に来る人の中で泣き出す人や吃ってしまう人、怒り始める人は確かにいる。だがそれは後悔や自責を含むことが多い。今、目の目にいる海野は一体、何に当たっているのか彼は疑問に思った。

 ------おそらく相談に乗る側の人間に対しての怒り。空笑や偽善といった海野の生き方とは正反対な行いを嫌っている。過去に親しい人に裏切られ、家族に見放された経験がある人は小さな優しさでも疑い、本能的に対人の信用を拒む。それによって社会的参加が出来づらい環境に自ら進んでいくという。


 「一つだけ、質問してもいいか? 直感で正直に答えてくれ」

 「------何でしょうか?」


 「誰かの理想や夢を否定する時、それは善意か? 嘲笑い、無謀だと思うからか?」


 海野は真っ直ぐ彼の目を見据えて問う。

 「リスクがない方を選びます。場合によって意地悪と言われてしまうかもですが」

 菅野がそう答えると、海野は首を浅く振って目を閉じた。

 「そうか、正直に答えてくれてありがとう。菅野さんはそうやって生きて来たんだな」

 「いえ……まぁ、平凡に生きて来ましたけど」

 〝誰かの理想や夢を否定する〟とは仕事ではよく起きる事だ。年齢、経験値によっては否定することも優しさだ。それが出来ないスタッフも中にはいるが、ダラダラと相談期間を伸ばし続けている。

 客の急ぐ気持ちに応えるよう、現実ははっきりと伝えるのは良いことであって、話を聞いてあげるだけでは何も進まず、何も見えない。ただそこに新たな道を示すような言葉を掛けたらきっと何かが変わる。

 菅野は過去に同じ経験をしていた。自らが夢を探すように、憧れるように。

 「あのぉ……ちょっと失礼が過ぎた、悪かった」

 海野は急に頭を下げる。

 「安土から提案させていただいた『復職プログラム』についてですが------」

 その後に一時間程度、希望する職種の説明をした。二度目は感情が表に出てこなかったが、抑えきれない何かが彼を狂わせることは確かだ。

 出口まで見送り、軽いレポートを書いて安土の机に置く。一体、海野に彼女は何を言われたのか、整理された机上を眺めながら菅野は考えた。


 「おい菅野くん! 安土の残像でも見えたか?」と言って室長の宮島は立ち尽くす彼に寄ってきた。見た目は温厚で優しいおじちゃんという感じだが、若い頃は大手企業の役員まで昇り詰めるほどの才の持主。腕の伸びた皺に隠れた筋肉は、菅野ら三十代にも引けを取らないほど。

 「いや、海野さんの件で少し心残りがあって……」と菅野が言うと、宮島は眉間に皺を寄せわざとらしくため息をついた。〝やれやれ〟そんな風にも感じ取れる。

 「俺らの仕事は人に前を向かせることじゃない。後ろを振り向かせないことだよ」

 ------意味が分かるような、分からないような。菅野は顎先に手を当てて考え始める。

 「なんだその感じ、言った意味をあんまり理解していないな?」

 「すみません、ちょっと難しい感じがして……その意味を教えてください」

 宮島は頷き、側に積み上げられている段ボールを持ち上げて彼の背後に置き始めた。

 「どうだ? 後ろに置かれた箱が気になるだろ? そのままずっと気にしていてくれ」

 振り向くと雑に積み上げられた箱がギリギリの角度で耐えている。宮島は数歩歩いて部屋の端まで行くと、彼に手招きをした。

 「今立っている場所が辛く苦い過去だとして、箱がある場所が先の人生だとしよう」

積み上げられた箱までの距離は三メートルくらい、大股で歩けば三歩くらいの間隔。

 「菅野くんは俺の目を見続けながら、体は箱の方向へ向かってくれ」

 「わ、分かりました」と言って彼は目だけを宮島に向けたまま、箱がある方向へと少しずつ進み始めた。

 「俺から目を逸らすなよ?」菅野はゆっくりと崩れそうな箱へ、前を向いていれば大股で進んでいたが、先が見えずに慎重さを重視する。

 あと一歩くらいで------と彼は思っていたがすぐに積まれた箱に胸が当たり、バランスを崩して床に崩れる。彼が思うよりも体は先へ進んでいた。

 「つまり、俺が伝えたいことはこんな感じだ」


 ------? 箱を元に戻しつつ宮島の顔を見ると、片方の眉を上げて満足げな表情。

 「すみません、何かもっと分からなくなって来たような……」

 宮島はもう一度分かりやすくため息をつき、早足で彼に近づいた。

 「菅野くんは後ろを振り向きながら進んでいたな? そのせいで前が見えずに、たった三メートルの距離をゆっくり慎重に進んだ。だが今、俺は振り向かず一直線で向かった」

 菅野は三メートルの距離を数十秒も掛けて進んでいた。対して宮島は一秒。後ろを見ながら進むのと、前を見ながら進むのでは恐怖感が格段に変わる。


 「〝後ろを振り向かせないこと〟は未来へ進ませる前準備だ。まずは何度も振り向いてしまうような過去を薄めてあげて、気にならないくらいにさせる事だ。分かったか?」

 菅野がようやく理解したように頷き、宮島は恥ずかしそうに笑う。

 「しかも普通なら一秒で進める距離を菅野くんは十秒も掛けた。後ろばかり見ているからだ。俺らの仕事上、早くお客さんには明るい日常を過ごして欲しいと願いばかりに、その人の生き方や過去を無視しがちだ」

 「ようやく、言っていた意味が分かりました。」

 「塞いでしまった原因を深く知って、それから薄めてあげる。俺ら如きじゃ消せない」

 今までの菅野は残された時間や早く社会復帰させようと奔走していた。その人が同じスピードで歩くことが困難かも知れないのに。


 「もし安土も戸惑っていたら教えてやってくれ。勿論、会社の仲間としてだからな?」

 「最初からそのつもりですよ……他に何があるんですか」

 「何かこう……手取り足取り、仲良く……イチャイチャ、丁寧に?」と言って悪戯な笑みのまま宮島は部屋から出ていった。


6話に続く

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