第7話 小賢しい『精神力・思い遣り・自己管理』(私 高校2年生)想いのままに・女子編

【明日(あした)は、学校行事で長距離を歩く。しんどいから歩きたくない。歩く意味理解不能! 強制で、強行なんだぞ! 強歩(きょうほ)だよ! しかも、タイトルに『祭(まつ)り』が付くんだ。泣きたくなるフェステバルなんて、笑っちゃうわ。それに、歩行祭のスローガンは、『精神力』、『思い遣(や)り』、『自己管理』で、意味不明。捻(ひね)りの無さは、毎年同じだよ……】

 『今年も長距離を歩く学校行事が行われる』と、短(みじか)くも、私なりの疑問(ぎもん)と意義(いぎ)も添(そ)えて、あいつへ愚痴(ぐち)メールを送った。

【こっちは、10キロメートルを走るのがあるよ。僕は部活のノリで遣(や)っているけど、そうでない人らにゃキツイだろうな。真面目(まじめ)に遣んない人も多いし。あっ、僕も真面目に遣ってるわけじゃないよ。ただ自分のタイムに挑戦(ちょうせん)しているだけ。他(ほか)に意味は無い。去年も、今年も学年で10位以内だぞ。これってスゲくねぇ? まぁ、そっちのただ歩くだけっちゅうのは、キツイね! 我慢(がまん)大会かよ! 全然(ぜんぜん)、笑(わら)えないね! 泣きたくなるのは解(わか)る。同情するよ。学校行事だから、バックパッカーのような自由さや、自分探(さが)しみたいなのも、無さげだしね。でも自分の見詰(みつ)め直(なお)しは有りか。一人(ひとり)で悶々(もんもん)として歩くと不安と不満ばかりが浮(う)き上がって、気分が落ち込むばかりで鬱(うつ)になりそうだよねぇ。爽(そう)の明るく前向(まえむ)きな未来志向(みらいしこう)で歩き切れればよいんだけど、無理(むり)っぽいよなあ。それって、意味有るん? 筋(すじ)が通る理由付けのボイコットをしても、内申(ないしん)に影響(えいきょう)するんだとしたら、この時期の進学校の君達には最低最悪の大人都合(おとなつごう)だよな!】

 去年は部活で金石(かないわ)の浜を、ゲベのヘタレで走っていたあいつから、走りの自慢(じまん)に『よく参加するね』と、言わんばかりの非難(ひなん)めいた内容で返信が届(とど)いた。しかも、暫(しばら)くメールを送っていなかった所為(せい)なのか、親(した)しい友達が普通に話しかけるように、とてもフレンドリーな文(ふみ)だ。

 これといった理由(りゆう)も無く、メールを送りも、返しもしなかった私から、1か月半ぶりに着信したメールが、『そんなに、嬉(うれ)しいのかよ』と思わせるほど、ベリーハッピーなあいつのようすが読み取れたし、学校行事の長距離を歩きたくないブルーな気分に落ち込む私を、気遣(きづか)ってくれてもいる。

(こいつ……、ノリノリじゃん)

 1年生の時に初めて体験しようとしていた長距離を無為(むい)に歩く、無慈悲(むじひ)な学校行事の『長距離歩行祭』の事を知らせると、あいつは信じられないと言わんばかりだった。

『高校生になったら、すっごい長距離を、ひたすら歩くだけの遠足(えんそく)ですか? 変なの? そんなのってないんじゃないの? そんなのが、学校の伝統行事? その日は、天気が悪そうだけれど、それでも、決行されるのかな?』

 確(たし)かに、秋雨(あきさめ)のそぼ降(ふ)る肌寒(はださむ)い休日に決行された去年(きょねん)の体験は、その延々(えんえん)とした遠い距離に、楽しげな遠足気分で歩け通せるものじゃなかった。

 最後まで無理遣り、雨の中を我慢して歩いたから、秋の雨天(うてん)の寒(さむ)さと冷(つめ)たい秋雨に濡(ぬ)れて体温を奪(うば)われた身体(からだ)は、治(なお)りの遅(おそ)い風邪(かぜ)を引かせた。

 益々(ますます)、失(うしな)われる体力に拗(こじ)らせた風邪は、更(さら)に高熱を伴(ともな)って、肺炎(はいえん)寸前の辛(つら)くて酷(ひど)い目に私を遭(あ)わせてくれた。

【明日の天気は、好(よ)さそうだけど、体調を崩(くず)さないように気を付けて下さい】

 私の身体の心配もしている、あいつの気遣いが、……ちょっと嬉しい。

(あいつ、けっこう、メル友らしくしてるじゃん)

 毎年、寒さを感じない初秋(しょしゅう)に行われて、多少(たしょう)の雨でも決行されるはずの長距離歩行。

 それは、羽咋(はくい)市の千里浜(ちりはま)から学校まで、延々と42・5キロメートルも歩く学校行事だ。

 中学3年生でも23キロメートルを歩いたけれど、あれは、平日に行われる少しハードな遠足の距離として納得(なっとく)できていた。

 それが高校生になったら一気(いっき)に倍の距離になり、しかも日曜日の朝から点呼(てんこ)をとられて始(はじ)められている『お祭り』を被(かぶ)せた伝統行事になった。

 他校では歩行祭を強歩(きょうほ)大会とか、強行遠足とか言うらしいが、20万歩以上も歩く長距離は少ないらしい。

 全生徒は当然の如(ごと)く強制参加させられる。

 無理を押し切って最期のゴールまで強引に歩き通(とお)させるから、強行で、強歩だ!

 全(まった)く、理不尽(りふじん)此(こ)の上無(うえな)い、祭りとか、大会とか、遠足とか、小賢(こざか)しい尾鰭(おひれ)の付いた学校都合のイベントだ!

 協調性(きょうちょうせい)の無い私にとっては、頭痛(ずつう)と吐き気(はきけ)が伴(ともな)う苦痛(くつう)以外の何物でもない!

 日頃(ひごろ)、長距離なんて歩かないものだから、直ぐに靴擦(くつず)れで出来た踵(かかと)や足指の水膨(みずぶく)れが1週間以上も完治(かんち)せずに痛(いた)んで苦(くる)しませるし、ゴールしてから数日は筋肉痛(きんにくつう)に悩(なや)まされた。

 歩き疲(つか)れで気分は矢鱈(やたら)とハイになり、リストカットでもしたら、この理不尽な扱(あつか)いから解放されるかもって、思考が鈍(にぶ)った頭でマジに考えてしまいそう。

 精神的にも、肉体的にも、私にとって苦痛の極(きわ)みに過(す)ぎない学校行事だけど、翌日は代休になるのが救いだった。

 『精神力』、『思い遣り』、『自己管理』を個人個人、自主的に養(やしな)うのが目的だそうだ。

 雨天決行された昨年は、言われるままに面白半分で参加したけれど、歩き通しても、辛さと苦(くる)しさだけのフラストレーション溜(たま)りに、全然面白く無くて、『なによ、これ!』って感じで、大(おお)いに疑問を持った。

(大体、どうして、マラソンの距離よりも長いわけ? 戦いの勝利を告(つ)げて絶命した、エウクレスの走った以上の距離と歩行祭が、どう関係あんのよ! マラソンの起源(きげん)エピソードなんて、後世(こうせい)に幾(いく)つも創作された一(ひと)つかも知れないなのに)

 せめて、好きなオールディーズを聞きながら歩けば気が紛(まぎ)れたり、少しはモチベーションがアップすると思うけれど、危険を察知(さっち)できないとか、指示が聞こえないとかで、ポータブルプレーヤーや携帯電話のミュージック機能の使用は禁止されてるから、屈折(くっせつ)した思考と、ちょっとしかない気遣いと、自分に正直なだけの自己中(じこちゅう)な私にとっちゃ、ただ歩くだけなんて鬱陶(うっとう)しくて仕方(しかた)が無い。

 兎に角(とにかく)、鬱陶しくて憂鬱(ゆううつ)だ。

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 歩行祭の1ヶ月ほど前辺りから、お祭り? の日へ近付くにつれてプレッシャーが大きくなって来て、昨日は、あいつに止め処(とめど)も無いメールを送ってしまった。

【家出(いえで)した事、有る?】

 お祭りの二日(ふつか)ほど前から寝込むくらいの重病に羅漢(らかん)して仕舞(しま)いたいネガティブさと、イジメを臭(にお)わせる不登校になって欠席したいと思う『学校へ行きたくない!』の心のコールが凄く強くなって、あいつを逃避(とうひ)に誘(さそ)っていた。

【家出の経験? 無いよ。……家出するのか? なんで?】

(『なんで?』って、日曜日に42・5キロメートルも歩きたくないからよ!)

【別に理由なんか無い。ふと、そうしたいと思っただけ】

 今からの、あいつの返事次第で本当にプチ家出をするか、止(や)めるかを決めようと思っていた。

【何も不満が無いのに、家出するんだ?】

(とても楽しくて気分が最高な時や凄く可笑(おか)しくて大笑いした後とか、ふっと、なんか虚(むな)しく思う事が有るじゃない。一瞬だけど、そんな帷(とばり)が降りる気持ちになった時、『幻(まぼろし)の光』の様なパァッと明るい光りが見えたなら、其処へ飛び込んで、スゥーと軽(かる)くて楽(らく)な気持ちになりたいと、あんたも思うでしょう)

【そう! 少しだけれど、私、小金持ちなの! だから貯(たま)ったコインを使って、『月曜日には戻るから探さないで』と書置(かきお)きを残して、電車やバスに乗って、行ける所まで行って、1泊か、2泊してみるの】

(本当はね。しんどい明日をエスケープしたいだけ。そうすると、明後日(あさって)の月曜日は代休(だいきゅう)だけど、火曜日も気不味(きまず)いから登校拒否したいわけ。明日は早朝から現地集合へ向かうのを装(よそお)って、火曜日の朝は通学のフリをして、そして、夕方(ゆうがた)に帰宅するんだ。その両方の朝から夕方まで、あんたは付き合ってくれる?)

【それで、君一人だけで家出を決行するんだ?】

(あっ! そう来るかぁ……)

 今のムカついた気分でナーバスに沈んだ思いが消え失(う)せて、気持ちが決まった!

【……だね。家出仲間なんていないから。……でも今、気が変わって止める事にしする】

 無条件で『いっしょに行くよ』と、言って欲しかった。

【一人なら、付き合おうかと思ったのに、止めちゃうんだ……】

(ムカッ! その気持ちが有るなら、さっさと言えっちゅうの! それに、誰かといっしょだと、付き合わねぇのかよぉ! 失礼にも、いっしょの誰かが女子だと決め付けてるだろう?)

【そう、家出は止めたわ。じゃあね】

 メール画面を閉じてから思う。

 もしも、あいつとプチ家出をしたら、何処(どこ)へ行って何をしていただろう?

 先(ま)ずは金沢駅で持って来た私服に着替えて、学校の制服をコインローカーに入れる。それから行き先を決めて切符(きっぷ)を買う。

 私の手持ちじゃ、東京(とうきょう)か、大阪(おおさか)辺(あた)りまで列車で行って安ホテルに泊まるので限度だ。

 あいつが期待以上の金額を持って来たら、空席の有る便で小松(こまつ)空港から札幌(さっぽろ)か福岡(ふくおか)へ行く、そして向こうでリッチな気分になれるホテルに泊まちゃったりして、けっこう美味(おい)しい物を食べれたりするかも知れない。それにロマンチックなパワースポットにも行ったりするかもだ。

(安ホテルでも、リッチなホテルにしても、ツインルームなるわね)

 ホテルから、お姉(ねえ)ちゃんにプチ家出を知らせて、お母(かあ)さんとお父(とう)さんに伝えて貰(もら)おう。

 学校へは病欠(びょうけつ)って事で連絡を入れてくれるようにも、お願いしておこう。

 そうすれば、プレッシャーが小さくなって、あいつと素直(すなお)に楽しめる……。

(……なーんてね。今からでも『ごめんなさい。いっしょに来て』って誘えば、あいつは実行してくれるだろうけれど、私は『ごめんなさい』が言えないから、やっぱり、無理だわ)

 そんな理由でレジスタンスの考えは薄れ、頭痛と眩暈(めまい)と吐き気がしそうな暗鬱(あんうつ)さに、仕方無く明日は歩くしかないと覚悟を決めた。

(まあ、関東(かんとう)の方では、とてもピクニック気分になりそうにない夜通(よどお)し70キロメートルも歩く高校が有るそうだけど、それと比(くら)べりゃ、まだいいか。……じゃなくて、いいわけないじゃないの! バッカじゃないの!)

 ここに至(いた)って漸(ようや)く私は明日の鬱陶しくて憂鬱な歩行祭を、あいつに知らせて遣る。

【そうなんだぁ。どおりで……、それで家出なのかぁ……、エスケープしたいんだぁ】

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 私は一人で歩いている。

(あいつが呆(あき)れて非難した、とんでもない学校行事をボイコットせずに歩いている私は、……間違いなくバカだ!)

 人と馴(な)れ合うのが嫌(きら)いな私に、誰も寄って来ないし、声も掛けて行かない。

 私のぶっきら棒(ぼう)な態度や冷(つめ)たい話し方で、境界線(きょうかいせん)のオーラが伝わるのだろう。

 1年生の2学期の初めには、いつの間(ま)にか、私は避(さ)けられている感じになっていた。

 一人は嫌いじゃないし厭じゃない。それに、一人で歩くのは、他人からの不要なフラストレーションを帯(お)びないから気楽だ。

(日傘(ひがさ)を差して歩いても、ダメなのかな?)

 影に入りたいと思う。

 強くなってきた陽射(ひざ)しで日焼けをしないように、一人で歩く私の顔を隠(かく)すように、日傘が欲(ほ)しい。

(ただ、大勢の中の一人になるのが、厭なだけ)

 大勢の中に、混ざる自分が厭。

 混ざる事に、我慢する私が厭だ。

 何かにつけ、大人達は、体制の方向を一つにしようとする。

 挙句(あげく)に、『伝統だ』、『決まり事だ』と、言い出す。

 私は伝統も決まり事も、大嫌いだ。

 過去に学(まな)び、未来を創造(そうぞう)する為には、方向や伝統に囚(とら)われていては駄目だ。

 伝統は現在と融合(ゆうごう)して、より良く変化すべきだ。

 私は、全然違うコースを歩きたい。

(向きを合わせるのは、団体行動の原点? 団体行動をしなければ、規律(きりつ)が生まれない? 保たれない?

連帯意識が育(そだ)たない? そうかしら?)

 団体行動なんて短絡的(たんらくてき)な大人達の都合の良い発想だ。

 混沌(こんとん)としたカオスにも調和が有り、秩序(ちつじょ)と規律が生まれるんだ。

(団体行動なんて大人達が造(つく)り出す、無理矢理(むりやり)歪(ひず)めた調和に過ぎない)

 先生達が言う、『みんな』や『全員』や『連帯責任』や『絆(きずな)』などの、如何(いか)にも体裁(ていさい)の良い言葉を聞く度(たび)に激しい反撥(はんぱつ)を感じて抗(あらが)いたい私がいた。

 ある程度の調和は必要だけど、全てを合わせなくても良いと思う。

 団体ではなくて、個人個人の問題で、要(よう)は、私個人のモチベーションを高めなければならないという事だ。

 それは決して大人都合の圧(お)し付けの不条理(ふじょうり)の強制で得られたり、与えられたりするモノじゃない!

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 途中、列がバラけて来た頃合(ころあ)いで単調な気分を紛(まぎ)らすのに、あいつとの昨日のメールやこれまでのメールの交換をチラチラ見ながら後半の距離の殆(ほとん)どを歩いていたが、校舎の建つ丘の麓(ふもと)に着く頃には歩き疲れと嫌気(いやけ)で、私の気持ちは完全にだらけていて、このままバスに乗って家に帰りたくて仕様(しよう)が無かった。

 未到着者になって行方不明(ゆくえふめい)になりたいと思う。

(早く帰って、眠(ねむ)りたいよ……。お風呂(ふろ)にも、入りたいし……)

 どっぷりと湯船(ゆぶね)に深く浸(つ)かり、痛みとだるさを散(ち)らして、シャワーの打たせ湯も浴びて、堅(かた)くなった身体を解(ほぐ)さないと眠(ねむ)れそうもない。

 目の前の遅刻坂(ちこくさか)を溜(た)め息を吐きながらベタ足で登(のぼ)り始めた私の左右(さゆう)を、幾人(いくにん)もが連れ立って追い越(おいこ)して行く。

 仲間を励(はげ)ましたり、庇(かば)ったりしながら、苦しそうに歩む十人くらいのグループが、ふら付きながら歩く私の左側を擦(す)り抜(ぬ)けるように登って行くと、今度は右側を、そんなに体力があるのなら、とっくにゴール出来ているだろうと思うほど、元気にはしゃぐ三人連れが、先に抜(ぬ)いて行った十人のグループをも、足早(あしばや)に追い抜いて行った。

 毎日の登下校で歩く遅刻坂は思いのほか急(きゅう)で、登り切るのに疲れてしまう。

 普通自動車が楽に擦(す)れ違えるほどの道幅は無くて、息を切らして歩く横をオートバイや自転車が危(あぶ)ないほどの近さで通り過ぎて行くから、いつも接触しないように注意していなければならない。

 さすがに歩行祭の今日は、制限時間まで2輪の通行を禁止して歩行専用にしている。

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 4月初旬、遅刻坂の両側に植(う)え並ぶ、太い枝(えだ)ぶりの桜(さくら)の大木が満開になり、大きな桜のトンネルを作る。その桜の坂道を通いたくて、この高校に入学した。

 花の香(かお)りや新緑の匂(にお)いを嗅(か)ぎながら、弾(はず)む気持ちで歩いていたのも、暑(あつ)さが日毎(ひごと)に増す初夏になる頃には、飽(あ)きて嫌気(いやけ)が差していた。

 熱帯のトリプルキャノピーみたいに頭上を覆(おお)う桜の葉は、濃(こ)い日陰(ひかげ)を作り、多少の涼(すず)しさを感じさせるけれど、朝から真夏(まなつ)の熱気で澱(よど)む大気に、斜面の草木を戦(そよ)がす風も無く、3分の1も登らない内にバスの空調でひんやりと冷(ひ)えた身体を汗(あせ)だくにしてくれた。

 それだけで1日中、脱力感(だつりょくかん)に苛(さいな)まれてしまう。

 冬は、スノーシューズやスノーブーツが欠(か)かせない。

 平坦面(へいたんめん)が多い靴底では路面を敷(し)き詰(つ)める大粒の霰(あられ)や雹(ひょう)、薄く積もった新雪、踏(ふ)み固(かた)められた圧雪(あっせつ)、そして氷山(ひょうざん)のように凍結(とうけつ)した遅刻坂の上り下りは、とても滑(すべ)り易(やす)くて簡単に転倒してしまうから大変危険だ。

 1度、地吹雪(じふぶき)の日の帰りに転(ころ)んで5メートル以上も滑り降りてしまい、捲(まく)れ上がったコートの裾(すそ)やスカートは零下(れいか)の強い風に舞(ま)い上がるパウダーな雪と共に翻(ひるがえ)り、大股(おおまた)で曝(さら)け出したストッキングの太腿(ふともも)とブラックな秘密を登校する多くの生徒にマジマジと見られて仕舞い、凄く恥(は)ずかしい思いをしていた。

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 そして今は汗も冷え切り、ぐっしょりしたジャージを着て、臭(くさ)くて埃(ほこり)っぽい姿の自分に、うんざりしながら登っている。

 なぜか何の前触(まえぶ)れも無く不意(ふい)に、バス停に立つあいつの姿を思い出した。

 だらだらと登っている遅刻坂に居るはずもないのに、バスの中で嗅(か)ぐあいつの臭いと傍(そば)にいる気配(けはい)を感じて私は辺りを見回すと、バスを降りた私を車窓越しに見ている、あいつの顔が浮んだ。

 思い出したあいつの表情は、いつもの黙って見守っているようじゃなくて、困(こま)ったような顔で、口許(くちもと)が、『バカ……』と動いていた。

 通りのバス停から教室までは、意外と距離が有って、朝は特にこの遅刻坂で時間を食ってしまう。

 あいつが乗り込んで来るバスに乗り遅れて、次のバスになると、この坂を私は全力で駆(か)け上がらなければならない。

 坂の途中でヘタると、必(かなら)ず遅刻した。

 だから、心臓(しんぞう)がバクついて口から出そうになっても、足がガクガクと震(ふる)えても、懸命(けんめい)に駆(か)け登った。でも、その9割方、帰宅部(きたくぶ)で体力の無い私は、坂の途中に在るグラウンドを過ぎた辺りでへばってしまい、しっかりと遅刻している。

 坂を登り切ったゴール直前で、疲れ切って、今にも思考の停止しそうな私の大脳(だいのう)が見せた、遅刻坂の恥ずかしいフラッシュバックの後に、あいつを思い出しているのを不思議(ふしぎ)に思う。

(こんな、体力の限界状態で、なんで、あいつなんか、思い出しているのよ、私!)

 でも、私は解(わか)っていた。

 それは不思議でも何でもなくて、お風呂に入るよりも、眠りこけるよりも、今の私の望(のぞ)みだった。

 あいつが傍に居て、ただ黙って、見守ってくれているだけで私は、もっと、頑張(がんば)れる気がしている。だけど素直でなくて、正直でもない私は、非実現的な望みと決め付けて、頑(かたく)なに否定して認めたくはない。

 のんびりと歩いて来た私は、制限時間ギリギリでゴールした。

 歩き通しても、疲れと痛みと虚しさしか感じなかった。

 達成感(たっせいかん)や充実感(じゅうじつかん)は無くて、虚しさだけが残る。

 歩き終えた子達が、あちらこちらに集まって騒いでいたけれど、その体感談(たいかんだん)は疲れ過ぎてハイになった気持ちが言わせている一過性(いっかせい)の事にしか過ぎない。

 歩いて疲れた身体を休める為の安息日を挟(はさ)んで翌々日から授業が始まると、みんなは歩行祭の話題を全(まった)くと言っていいほど話題に出さなくなった。

 相変(あいか)わらず私は歩行祭の意義を見い出せずにいたけれど、それを敢(あ)えて口にはしない。

 延々と42・5キロメートルも歩いて、体感したのは忍耐と我慢。そして1週間ほど続いた下半身の筋肉痛で、無意識の内に婆(ばあ)さん歩きで通学していた。

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 忍耐や我慢は、本当に美徳(びとく)なのだろうか?

 それは、養(やしな)わなければならない事なのだろうか?

 目的を持ちチャンスを窺(うかが)うのならば、達成する為の事柄(ことがら)の習得(しゅうとく)とそれを行う時期まで、自然と忍耐や我慢が必要になる。

 歩行祭で、それしか感じなかった忍耐や我慢は42・5キロメートルを高校の在学中の3年間に、1年に1度、合計して3度、歩き通す事で養われるものだろうか?

 大学入試の迫る3年生では、受験勉強の佳境(かきょう)の最中(さなか)に行われる事になる。

 歩行祭前のブルーな気持ち、わざわざ安息日に開催(かいさい)され、歩行後に1週間も続く筋肉痛。

(嫌気がして、吐きたくなるほど、うんざりだ!)

 来年は、精神的にも、肉体的にも、受験勉強の妨害(ぼうがい)や障害(しょうがい)にしかならないと、私は思う。


 つづく

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