第15話 『ジレラ君』と『白い小さな原付バイク』(私 高校3年生)想いのままに・女子編
書中見舞(しょちゅうみま)いの葉書(はがき)は、一昨日(おととい)の夜に書いて昨日(きのう)の朝、店の前に有るポストへ投函(とうかん)した。
今、私が居(い)る場所は能登(のと)半島内浦(うちうら)の明千寺(みょうせんじ)、私が産まれた石川県(いしかわけん)鳳珠郡(ほうすぐん)の穴水町(あなみずまち)諸橋(もろはし)地区に在る町だ。
夏の能登半島の清々(すがすが)しさを彼に知らせて遣(や)りたくて、書中見舞いを書いて投函した。
夏休みに入ると直(す)ぐに明千寺に来て、休みの期間中は途中(とちゅう)で家族旅行でも行かない限り、ずっと此処(ここ)にいる。
毎年、夏休みを御里(おさと)で過(す)ごすのは、金沢市(かなざわし)へ引っ越してからも欠(か)かさずに続けていて、原点回帰(かいき)のリセットをさせてくれる私の夏のイベントだ。
此処の風や海や地域の匂(にお)いは私の心を開かせてくれて、癒(いや)される気持ちはなだらかに広がり、素直(すなお)で寛容(かんよう)な私にさせてしまう。
いつ来ても、ずっと変わらない明千寺の風景は、私の原風景(げんふうけい)そのものだ。
此処での癒しは金沢で暮(く)らす私を支(ささ)え、しっかりと前を見させて強く後押してくれる。
小学生の頃(ころ)のように一日中、外で遊(あそ)ぶ事もなくなり、日課は朝夕に磯(いそ)へ行くのと読書をしながら昼寝をしてしまうくらいで、テレビの番組は殆(ほとん)ど見ないし、テレビやスマートフォンのゲームもしないけれど、ノートパソコンは調(しら)べモノを詳(くわ)しく探求(たんきゅう)するのに良く使っている。。
此処は街のような遊んだり、ショッピングする場所はなくて気持ちが騒(さわ)ぐ事もなく、日々をゆったりと流れる時間の中で過(す)ごせる。
もちろん、学習が本分(ほんぶん)の学生だから涼(すず)しい午前中や静(しず)かな夜には勉強もする。
夏休み中の夏季補習や合同合宿授業や登校日などの学校行事は、中学でも高校でも全(すべ)てブッチして……敢(あえ)て無視して参加しない。
(だって夏休みを学校へ行って顔合わせしたり、お勉強会に出席して粛々(しゅくしゅく)、黙々(もくもく)とするなんて思春期(ししゅんき)の貴重(きちょう)なフリーダムディズが台無(だいな)しになって、勿体無(もったいな)いじゃない!)
学校特有の建物の古さに見合っただけ沁(し)み込んだ大勢の先輩方のムカつく臭(にお)いと、辛気(しんき)臭(くさ)く殺伐(さつばつ)とした息が詰(つ)まる教室よりも、此処の自然に囲(かこ)まれて自由で健康的な生活をしながら勉強した方が、よっぽど身に付いて憶(おぼ)える。
『お前の好きにしろ。結果は、善(よ)きも、悪(あ)しきも、お前自信に行くんだからな』と、両親は因果(いんが)を諭(さと)しながら私の好きなように夏休みを過ごさせてくれた。
ただ、夏休み末(まつ)の模試(もし)や学力テストだけは受ける様にしている。
これらのテストの成績を良くして、学年順位を上げる事ができていれば、誰(だれ)も私を咎(とが)める事ができないでしょう。
実際、今まではそうできていて、良き点数のテストの結果が私の身勝手(みがって)の効果を証明(しょうめい)していた。
トップクラスの成績じゃないけれど、それに次ぐ上位で、成績順位をジリジリと上げて来た。
(私は今、退屈(たいくつ)で、ちょっち寂(さみ)しいかな。……私に会いに来てくれる……?)
受験勉強中の高校3年生にもなって、毎日小学生の時のように海で泳いで、夏休み明けに全身真っ黒な肌のままでは登校できない。だから余り日焼けをしないように、できるだけ外出を避(さ)けている。
出掛けても朝の内か、陽差(ひざ)しが弱くなる西陽(にしび)になってからだ。
(だいたい、一日中、泳ぎたいわけじゃないし、穴水や宇出津(うしつ)の大きい町まで買い物に行くのは、ちょっと遠くて買い物などの明確な目的がないと、行動する意欲が湧(わ)かない。それに、あんまり欲しい物は無いし、パソコンやネットゲームをするのにも、週刊誌やコミックを読むのにも飽(あ)きちゃったし、地域中が賑(にぎ)やかに盛(も)り上がる夏祭りも終わちゃって、気分は開放的なのに、何もする気が無くて詰まらないだけ……。故(ゆえ)に、けっこう暇(ひま)してる。でもね、何か、ときめく刺激(しげき)を求めたいし、期待したい。だって、ひと夏のラブっちい思い出が欲しい年頃(としごろ)じゃん!)
送った暑中見舞いに、そんな意味を含(ふく)ませた絵を描(えが)いて、認(したた)めた我(わ)が儘(まま)に添(そ)えた。
(気付いて、私を、ドキドキさせて)
インターハイの直後に、彼からメールが届いた。
【予選落ちした……。ごめん】
(御免(ごめん)って何よ。なに謝(あやま)ってんのよ!)
私は、『頑張(がんば)って』と応援を贈(おく)ったけれど、勝ちなさいと強迫(きょうはく)はしていない。
(私の為(ため)でなくて、あなたの弓道(きゅうどう)でしょう)
メールを見て、そう思う。
残念な試合結果を知らせる以外に、彼からメールは来ていない。
予選落ちして、ウジウジと彼はメゲているのだろうか?
私から慰(なぐさ)めや励(はげ)ましのメールはしない。
それは、彼にイニシアチブを取られそうで嫌(いや)だった。でも、気になる……。
その意味も含めて、葉書に想いの言葉を綴(つづ)った。
*
「こんにちわぁー」
若い男の人の声だ!
御里は此(こ)の辺(あた)り唯一(ゆいつ)の雑貨屋(ざっかや)を営(いとな)んでいて、声のトーンからして雑貨屋へのお客(きゃく)さんだ。
風の通りが良い縁側(えんがわ)に転(ころ)がっていた私は、応対(おうたい)に出ようと身体(からだ)の向きを変えた時、『はーい! はいはい、いらっしゃい』と言うお婆(ばあ)ちゃんの声が台所から聞こえて、(お婆ちゃんが出たのなら、まあ
いいっか)と私の動きが緩慢(かんまん)になった。
それでも、(若い男なんて誰(だれ)だあ)と、ゆっくり膝(ひざ)を立てて起(お)き上がって、敷居(しきい)の襖(ふすま)の影から除(のぞ)き見た。
(ぎょっ! えっ、ええっー!)
俯(うつむ)き加減(かげん)で照明(しょうめい)の影になっていても、缶(かん)コーヒーを買って更(さら)にアイスを手にしたお客さんが彼だと、私は分かった!
(いきなりだぁ!)
スマートフォンから着信のメロディが聞こえていなくて、此処(ここ)に来る事や近くに来ている事の知らせは来ていなかった。
(なのに、其処(そこ)にいる!)
葉書の裏面に描いたイラストはコミックの絵を真似(まね)て、ちょっと退屈で淋(さみ)しいかもって表情の女の子にしたつもりだったから、その私の思いを感の良い彼は察(さっ)したのかも知れない。
私もだけど、いつも彼は黙(だま)って行動に移して来る。
(ほんと、驚きだわ!)
私は、もっと良く見て確認しようと、座敷の縁(ふち)へ近付いて行く。
暑中見舞いの葉書を投函したのが昨日の朝だ!
夏休みの居場所を初めて彼に教えたから、事前にメールで知らせて来て会いに来るだろうと考えていたけれど、その翌日の昼下がりの今、行(い)き成(な)り彼が此処に現(あらわ)れるとは思ってもいなかった!
戸を全(すべ)て戸袋(とぶくろ)に仕舞(しま)って全開にしてある縁側から、真夏の昼下(ひるさ)がりの御風呂(おふろ)の御湯(おゆ)のような熱(あつ)い風が、座敷(ざしき)から御店(おみせ)の中を通って玄関(げんかん)から抜(ぬ)けて行き、大きく揺(ゆ)らされた縁側と玄関の風鈴(ふうりん)が彼の訪(おとず)れを知らせるように喧(やかま)しく鳴(な)り響(ひび)く。
ムッとする熱気(ねっき)の重たさに、踏(ふ)ん張(ば)って立ち上がったばかりの私はフラ付いて倒(たお)れてしまいそうだ。
(暑(あつ)い! この全身の熱さと感覚の薄(うす)れは、熱気だけの所為(せい)じゃない!)
フラ付く私の目に、御釣(おつ)りを渡(わた)そうとする、お婆ちゃんの向こうに彼が見えた!
(来た! ……来てくれた! ……本当に来てくれた! ……かっ彼だぁ!)
胸がドキドキして来て、顔が火照(ほて)っていくのを感じながら、私は店に降(お)りずに敷居(しきい)に立って彼を見ていた。
(……期待していた通りに、彼は来てくれた……⁈)
予想以上の早い彼の来訪に驚(おどろ)いてしまった私は、敷居に立ち尽(つ)くした儘(まま)、声が出せない。
私の気配(けはい)を感じたのか、彼はゆっくり顔を上げる。
起こした顔の上目遣(うわめづか)いの瞳(ひとみ)が動いて、彼は私に気付いた。
ギョッと眼(め)が見開いて、顔が驚きの表情に変わり、そして彼の瞳が泳(およ)いだ。
『チャリーン、チャリ、ヂャラッ、ヂャリーン!』
次の瞬間、受け取り掛けた御釣りを手から零(こぼ)れるままに、彼は身を翻(ひるがえ)し、急(いそ)いで外に出て行ってしまった。
(あーっ、にっ、逃(に)げた……! ちょっとぉ~、普通、『やあ』とか、『オスッ』とか、笑顔で言うんじゃないの! ちゃんと、挨拶(あいさつ)しなさいよ!)
「まっ、待(ま)ってよ!」
表(おもて)の通りに小型のバイクの噴(ふん)け上がるエンジン音が聞こえて、私は慌(あわ)てて裸足(はだし)のまま外へ飛び出したけれど、彼が既(すで)に左の坂上(さかうえ)へ登(のぼ)り切るのが見えた。
彼が乗るのは白色の小さなバイクで、上辺(じょうへん)の角(かど)を落とした変則(へんそく)六角形(ろっかっけい)の金沢ナンバーから、排気量50CC未満(みまん)の原付(げんつき)バイクだと知った。
(驚きだ!)
こんな能登半島内浦の幹線道路から外(はず)れた田舎(いなか)の集落まで原チャリで遣(や)って来るなんて、彼の行動力に私は呆気(あっけ)にとられて一瞬、離(はな)れてい行く彼の後ろ姿に見惚(みと)れてしまった。
(はあぁ!)
「こらぁーっ、待てぇー、何処(どこ)行くのよぉー。戻(もど)って来てよぉー。御釣り、いらないのぉー?」
一目散(いちもくさん)に逃げて行く後ろ姿に叫(さけ)んでも聞こえないのか、彼は振(ふ)り返りもせずに走り去(さ)ってしまった。
(くっそぉ、急いで、ジレラ君(くん)で追い掛けなくっちゃ)
追い掛けようとしている私を、お婆ちゃんが私を見て言った。
「彼氏(かれし)かい?」
ドキッとした。
(そんなのなんかじゃないわ! 彼は……、まだ、違(ちが)う……)
「違うわよ! ただの友達よ」
(まだ、違うのよ……)
彼に恋愛(れんあい)なんか、意識していない。
それを否定(ひてい)する気持ちが、彼を友達にさせた。
(友達なの? つい、この間まで碌(ろく)に話もしていなかったのに……? 確(たし)かに、メル友なのかも知れないけれど……)
「此処まで、来たのに?」
そう思いながらの私の行動に、お婆ちゃんの突(つ)っ込(こ)みが来た。
(彼が一方的に、私を好きになって、恋(こい)をしていると想い込んでいるのよ。……恋……、此処に誘(さそ)ったのは、私だけど……)
『恋』の単語が、思っただけなのに心に沁(し)み込んで、胸の深い処(ところ)がキュンと鳴(な)った。
(でも、違う!)
「友達よ!」
切(せつ)なくなる気持ちを、私は振(ふ)り払(はら)うように強く言った。
「あの子、あなたを、友達以上と想ってるんじゃないの?」
クラっと来た。
更(さら)に鋭(するど)く、お婆ちゃんは畳(たたみ)み掛けて来る。
(確(たし)かに、彼は私を好きで、何度も告白してきたわ。そして私は、それを全部、振ってきたんだからね!)
「そっ、そんなこと、……ないわよ!」
語尾(ごび)の声が、小さくなってしまった。
(あっ、いけない! 彼が逃げてしまう。早く追いかけなくちゃ)
お婆ちゃんに言った言葉と、行動しようとする思いに矛盾(むじゅん)を感じながら、私は裸足にスニーカーを突っかけて急いだ。
「そう、お友達なの? まあ、いいけどね。これ、渡してちょうだいね」
そう言って、外へ出ようとする私に、コンクリートの床に散(ち)らばった小銭(こぜに)を指差(ゆびさ)した。
「え! ええー。うう、あいつめぇ……」
呪(のろ)いの溜息(ためいき)を吐(は)きながら小銭を見詰(みつ)めた私は、仕方無(しかたな)く箒(ほうき)で隅(すみ)に転(ころ)がった小銭をブツブツ言いながら集めて拾(ひろ)う。
「……ふぅー!」
そんな私を見て、お婆ちゃんが笑っている。
「金沢のお友達が、此処まで会いに来たのね。きっと、あの子は、あなたの事が、とても好きなのよ。だから、あなたを見て固(かた)まっていたのね。さぁ、直ぐに追い駆(か)けて、御釣りを渡して来てちょうだい」
お婆ちゃんが、お釣りの硬貨(こうか)を拾い終わった私に言う。
彼の気持ちと私の想いを言われて、ドキドキしてくる。
「ちゃんとヘルメットを被(かぶ)って、帽子(ぼうし)も持って行きなさいよ。それと、これもね。あの子が買って代金を頂(いただ)いた物よ」
カチンコチンに凍(こお)った、2本のアイスキャンディを袋に入れて渡された。
「お婆ちゃん、ありがとう。ちょっと行って来るね」
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彼が小銭を落とした音にハッと我に返った私は、彼が身を翻す前に駆け寄って、もっと大きな声を呼び止めていたら、今頃は店の前の木陰(こかげ)に置かれているベンチで仲良く此のアイスを食べていたかもだ……。
少し反省しながらも想像した『もしも』に、『これは、ひょっとしてぇ、残酷(ざんこく)な……運命の……赤い糸なの……⁈』と、必然(ひつぜん)の出逢いを考えてしまう。
そんな枷(かせ)になる様(よう)に過(よぎ)る妄想(もうそう)を、『まさか、そんなつもりは無いわよ!』って、左右に振る頭で払拭(ふっしょく)させた。
払拭させながら直(す)ぐに、玄関の下駄箱(げたばこ)の上に置かれた『ジレラ君』のキーと暑さ対策にバイザーを外したフルフェイスヘルメットを掴(つか)み、裸足でスニーカーを突っ掛け履(ば)きしだけの私は、、車庫の横に停めてあるスクーターに跨(またが)る。
排気量125CCのイタリア製のスクーター。
伯父(おじ)さんのだけど、私のお気に入りの『ジレラ君』だ。
エンジンの噴(ふ)け上がりをチェックしてから、アクセル全開で彼を追い掛ける。
原付なんかより、ずっとパワフルで速い。
(ふふっ、ランナウェーを追い詰めるチェイサーは、やっぱり、ビックパワーで威圧的(いあつてき)にだよね)
明千寺の水田が広がる台地を下り、宇加川(うかがわ)の集落に入った。
道は、ここで海岸沿(ぞ)いの道路とT字(ティーじ)に交(まじ)わる。
右は宇加川、前波(まえなみ)、沖波(おきなみ)と海岸沿に集落が連(つら)なって立戸(たっと)の浜に到(いた)る。
左は花園(はなぞの)、古君(ふるきみ)、竹太(たけだ)の集落が在るけれど、海岸沿いは建物が少なくて寂(さび)しい。
『諸橋』は、その七(なな)つの集落を全部含めた地域全体の呼(よ)び名だ。
「いない! ちょっとぉー、何処行ったあー」
彼を求めて叫んだ私は、『ジレラ君』のエンジンを止めて、視界の限りに原付を走らす彼の姿を探し、その噴かすエンジン音に聞き耳を立てるけれど、姿は見えず、音も聞こえない。
地図も、GPSも見ずに、感だけで走る人は、たいてい右へ行く。
方向的にも、穴水町は右だ。
でも、穴水町へ行くには左の方が、ずっと速い。
左へ行けば、道は竹太の向こうの能登町(のとちょう)鵜川(うかわ)の町で、トヤン高原を内陸側へ迂回(うかい)していた国道249号線に繋(つな)がる。
緩いカーブが連続しているだけの国道は広くて走り易(やす)く、海岸沿いのようにウネウネと頻繁(ひんぱん)に曲がりくねっていないから、穴水町へ戻るにも近くて速い。
(彼も、GPSぐらいは見ているはず。だけどきっと、見通しいの良い左には行かないわ)
逃げる彼は、右に行くはずだと思う。
(明千寺の御里に居るのは決して嫌じゃない。寧(むし)ろ私は楽しんでいる。だけど、どんなに喜んで楽しんでいても、ふっと切なさが過る事が有るの。それを葉書に認めて遣っただけよ!)
でも来てくれた事は嬉しい!
(だから、絶対に捕まえて感謝の気持ちを伝えたい!)
その思いは『ジレラ君』のアクセルをグイっと開けさせて、更に加速させて行く。
いくら真夏の昼下がりの辺鄙(へんぴ)な田舎道で、人影が全然無くて、車やバイクのエンジン音も全く聞こえず、気配も感じられなくても、最大限に研(と)ぎ澄(す)ました注意力で危険を察知(さっち)して回避(かいひ)できるように、いつも心掛(こころが)けている。
先行する彼の後ろ姿を探しながら、不意な危険でも避けれる様に物音や風音に聞き耳を立て、目の周りの筋肉(きんにく)に力を込めて見開いた眼(まなこ)で視界に入る物陰や脇道(わきみち)、影や光の動きを見付けて、取り返しのつかないような事にならない様に気持ちを張り詰めさせている。
彼を追い駆け、T字路を右に曲がって、宇加川、前波、沖波と海沿いの集落を一気に走り抜け、家並みが途切(とぎ)れて右側に一面の緑の田畑、左側に砂浜が広がる開けた場所まで来て停まってみた。
(あの小径(しょうけい)タイヤの原チャなら、もう見えても良いのに……)
この先の道は海岸際を通り、小さな岬(みさき)を廻(まわ)った向こう側に在る甲(かぶと)の町に至る。
更に富士山の様な形の円山(まるやま)の麓(ふもと)を超え、1時間以上も海岸沿いを走って、やっと穴水の町に着く。
円山は富士山よりずっと低い、だけど見る度(たび)に頂上が噴火した火山の様だと思う、しかし行ってみたら頂上に噴火口痕(ふんかこうあと)の凹(へこ)みや池は無くて平(たい)らな境内(けいだい)に古(いにしえ)に建立(こんりゅう)された加夫刀比古(かぶとひこ)神社の社(やしろ)が在るだけだ。
加夫刀比古神社まで登って見渡そうかと考えたけれど、境内は木立に囲まれて穴水方向に限らず全周の眺望(ちょうぼう)を遮(さえぎ)っているのを思い出して止(や)めた。
水田の中を真っ直(まっすぐ)ぐにトヤン高原へと続く右側の道は、国道から明千寺へ行く道と交差する。
左側には、松と雑木(ぞうき)の生垣(いけがき)の向こうに細かい砂の渚(なぎさ)が広がっている。
立戸の浜の白い砂浜だ。
私はエンジンを止(と)めて、耳を澄(す)まし、辺(あた)りの様子を伺(うかが)う。
盆過ぎの風のない昼下がり、真夏の太陽にじりじりと照り焼きにされる中、蝉(せみ)の鳴き声だけが大きく聞こえ、逃げた彼の原付のアクセルを全開にする甲高(かんだか)い爆音は、どこからも聞こえてこない。
(くっ、いない……。逃げ切られたか……? それとも、反対方向だったのかしら?)
取り逃がしたものは仕方(しかた)が無いと、思い掛けてハッとした。
(取り逃がすって何? 今、私は彼を追い掛けていた……んだ。捕まえて『ありがとう』と言うだけだったの? それで終わりなの? 『ありがとう』の後(あと)はどうすればいいの? なぜ、彼は逃げたの? ……恥(は)ずかしいから? 金沢から遥々(はるばる)、明千寺まで遣って来たのに?)
私から顔を逸(そ)らして、逃げる彼の姿を思い出す。
(私と、どんなふうに会うつもりだったの? 私に、なんて声を掛けるはずだったの?)
彼は、店で買い物をしていた……。
(私をチラ見しただけで、いいの?)
事前にメールを寄越さずに、彼は来た。
私を見て、驚いていた。
あそこが私の御里だと、彼は知らなかったんだ。
(どうして、逃げるのよ!)
缶コーヒーを買っていたのは、間(ま)の持たせや演技じゃなくて、本当に買いに来て、偶然に私と遭遇(そうぐう)して仕舞ったんだ。
そして逃げた。
私に会いに来たのに……、それなのに逃げた⁉
(軟弱者(なんじゃくもの)! 弱虫(よわむし)!)
不意の遭遇で、あなたの想定外だとしても、明千寺に来ているのだから、あれは想定内でしょう?
(なんで! 私に会いに来たんじゃないのぉ?)
「せっかく、……私に逢(あ)えたのに、背中を見せて逃げ去(さ)るなんて、最低じゃん! なんか、がっかり!」
イラつく気持ちが、ぼやきになって出た。
ハイだったテンションが、急速に下がって行く。
(詰まらなくて、イラつくわぁ~。それに、暑いしぃ……)
泳(およ)いで気分を変えようと、私は人気(ひとけ)の無い浜辺にジレラ君を乗り入れる。
いつでも海に入れるようにワンピースの下には水着を着ていて、夏休みに明千寺に遊びに来ると、天気の良い日は決まって磯(いそ)へ行って泳いでいた。
朝夕(あさゆう)の凪(なぎ)ぎに、私はフィンを着けてシュノーケリングをする。
朝の凪ぎは、水が冷たく澄(す)んでいて気持ちがいい。
サザエやウニや岩牡蠣(いわがき)が見付け易(やす)くて、その日に食べたいのを獲(と)る。
稀(まれ)に繁殖地(はんしょくち)から流れて来るのか、大きなアワビも見付けた。
港の埠頭(ふとう)の石組みの間から素手(すで)で捕まえる蛸(たこ)は、私の腕に幾(いく)つもの丸い吸盤(きゅうばん)の痕(あと)を附(つ)けながら、逃げようとする。
その蛸の頭を裏返(うらがえ)して動きを止めさせてから、小さなクーラーボックスに入れて帰った。
夕方は水着を替(か)えてサングラスを掛け、凪いだ海面に力を抜いて揺(ゆ)ら揺らと漂(ただよ)う。
肩と腰にパットのような自作の小さな浮力補助を着けて浮くと、全身を弛緩(しかん)させての浮遊感(ふゆうかん)が堪(たま)らなく気持ち良くて、時々そのまま寝てしまって少し沖の方へ流されてしまい、冷たい潮(しお)の流れに起こされていた。
日焼け止めクリームを塗(ぬ)っているけれど、それでも、毎日そんな事ばかりしているから、けっこう黒くなってしまった。
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ツーリングの先客がいるのか、この辺りでは見た事も無い白い原付が1台、渚に停めて有る。
(ナンバーの上に横書きで、金沢市と書かれた変則六角形のナンパープレートに白いボディカラー、……もしかして、この原チャは彼の?)
私は疑(うたが)いながら、その白い原付の真横に私はジレラ君を停めた。
原付に触れるくらいの傍(そば)に立つと、つい今し方まで稼働(かどう)していたエンジンの熱気(ねっき)が、素足へ伝わって来た。
フルフェイスのヘルメットとショルダーバッグが、ハンドルに掛けてある。
バッグのポケットから、彼に宛てた私の暑中見舞いのイラストが覗(のぞ)いていた。
私が描(か)いたイラストの、此処での私の顔……。
(あっ、やっぱり、この白い原付は、……彼のだ。もう、逃がさないからね!)
『逃げちゃったモノは、仕方ないか』と、半分諦(あきら)めていたけれど、思いがけずに彼の所在を見付ける事ができてしまった。
逃げ切りをしなかった彼は、此処(ここ)に留(とど)まって再び明千寺へ行こうか、迷っているのかも知れない。
(何処(どこ)に彼は……? いるの……? う~ん……いた、あれかな~? うっ、浮かんでいるの?)
浜に、水面(みなも)に、彼を探す私の目へ、フロート付きのロープで囲まれた遊泳範囲の真ん中辺りに、彼らしきモノが浮いているが映(うつ)った。
けれど、緩(ゆる)いうねりに合わせて浮き沈みするだけで動いていないように見える!
(ええーっ、そっ、そんなぁー。ヤバイの? あっーもう、泳げないクセに、海にはいるから! まっ、まだっ、間に合うよね!)
急いで浜辺を駆けて2、3歩(に、さんぽ)、渚へ入った所で、もっと良く状況を把握(はあく)しようと目を凝(こ)らして見ると、ゆるーく、ゆるーく、うねる波間に黒いゴーグルを着けた彼が仰向(あおむ)けで浮かんでいて、息はしているようだった。
俯(うつむ)せで漂(ただよ)っているのじゃないから、溺(おぼ)れてはいないと思う。
(ちょっとぉ~、びっくりさせないでよ。竜宮(りゅうぐう)の使いに、連れ去られそうとか、大祓(おおはら)いの姫様と、彼岸(ひがん)の川を渡り掛けているとか、思っちゃって、焦(あせ)ったじゃないのー。……でも、無事でよかったわぁ~。ふぅー)
大きな溜(た)め息を吐いて、彼が生きていたのに安堵(あんど)しながら、怖(こわ)がらずに彼が水へ入り浮かべている事に驚いてしまう。
(えーっ、泳げているじゃん! いつの間に、泳げるように……? いっしょなクラスになった、小学6年生と中学2年生の夏は、いつも見学か欠席で逃げて、1度も、プールに入らなかったくせに……)
私はジレラ君を彼の原付の横に停めて持って来た白い大きな帽子を被り、もう水が怖く無くなったのならと、彼の浮かぶ海へ静かに入って顔だけを水面から出した屈(かが)んだ姿勢の私は、ゆっくりと波を立てないように進んで彼に近付いて行く。
接近するにつれて彼の胸が、規則的なリズムで小さく上下(じょうげ)しているのが分かり、ただ浮かぶのを楽しんでいるだけだと知った。
空を向いて沈まないように安定した呼吸をする彼は、近付く私に全然気付いていない。
7、8メートル手前で潜(もぐ)り、波紋(はもん)が美しい海底の砂地スレスレに、アトランティスから来た男の泳ぎスタイルの二蹴(ふたけ)りで、一気に距離を詰める。
(逃げた仕返しに、ちょっと驚かしてあげるわ)
水面を漂うバランスを保(たも)つのに水中で水を掻(か)く、彼の手に触(ふ)れそうなくらいに近付いてから、私はスーッと彼の真横に立ち上がった。
真横に出てくる私の気配を感じた彼は、一瞬、ピクッと痙攣(けいれん)したかのように震(ふる)えてから、手足の動きが止まった。
彼にとっては、全(まった)く予想もしていなかった事態に違いない。
海から亡霊(ぼうれい)か、死霊(しりょう)の如(ごと)く、得体(えたい)の知れない生物がザバッと浮き上がって来たとでも思ったのだろう。
大抵(たいてい)の人は予想もしていなかった突発的な危機的(ききてき)事態に遭遇すると、驚きと、狼狽(ろうばい)と、焦りに恐怖(きょうふ)、そして、状況の理解(りかい)や状態の把握(はあく)が脳内で同時に行われて、そのオーバーワークな処理に頭は真っ白になってしまう。
故(ゆえ)に、危機の回避(かいひ)や対応する咄嗟(とっさ)の動きを出来ない身体は、金縛(かなしば)り状態になってしまう。
水を掻くのを止めてピクリとも動かない彼は、息もいっしょに止めたのだろう。
固(かた)まったまま徐々(じょじょ)に沈(しず)んで行って、彼の口も、鼻も水面下になった。
引き攣(つ)る顔の黒いゴーグルで隠れた見えない瞳は、私だと分りかけているはず。
私は両手を揃(そろ)えて彼の沈みゆく胸に当てると、体重を掛けて一気に被(かぶ)さり、金縛りの彼を沈めた。
胸だけ押すと上半身だけ沈み、下半身が水面に出てしまうから、沈めている最中(さいちゅう)に、片手を彼の腹部に移(うつ)して押さえ込む。
私の両手は彼の胸と腹を押さえ、彼は身を捩(よじ)る間も無く、私にされるがままに無抵抗で確実に沈めてられて行く。
冗談(じょうだん)でも、私は残酷(ざんこく)だ。
(サプライズは、大成功だ! 予想以上だったかも……)
彼を捕まえた嬉(うれ)しさと楽しさの勢(いきお)いで、私は笑いながら彼を沈める。
ゴーグルをした顔を私に向け、彼は息を懸命(けんめい)に止めている。
(すっごく、楽しい!)
「アハハハッ」
楽しくて可笑(おか)しくて、水中でも、彼を見ながら笑い声が出てしまう。
被さった勢いと私の重(おも)みが、縞模様(しまもよう)の波紋(はもん)で固めた砂地の海底に背中が着底した彼を、更に押さえ付けてしまう。
瞬間、ガバッと、彼の口から大きな泡(あわ)が出た。
突然の事で半分ぐらいしか吸い込んでいないだろうと見込んだ、彼の肺の空気が泡の塊(かたまり)になって出て行き、生存限界(せいぞんげんかい)が近付いて来た彼が手足をバタつかせて身を捩(よじ)る。
(これ以上は、ダメ! 彼は限界よ)
鼻と口から、泡を漏(も)れ出しながら踠(もが)く彼が、可愛(かわい)そうになって来て急いで彼から離(はな)れた。
近くの水面に浮かぶ帽子を拾(ひろ)い、振り返りながら彼の様子を見守(みまも)った。
(もし、溺れたら、助けないといけないだろうな……。浮けているくらいだから、溺れないとは思うけど……)
ほんの1メートル程度の深さでも、底に押し付けられて圧迫された肺から息を吐き出し、そして空気じゃなくて海水を飲んで肺に入れてしまうと、水の中で激しく咽(むせ)てしまい、直ぐに酸欠(さんけつ)でブラックアウトになってしまう。
意識を無くしてしまうと、急いで引き上げて水を吐かせても自力で目覚(めざ)めるのは難(むずか)しい。
こんな人気(ひとけ)の無い田舎の渚じゃ学校で扱(あつか)いを習(なら)ったAED除細動器(じょさいどうき)は無いし、スマートフォンで119番して救急車を呼んでも、ここだと到着するのに30分以上は掛かるだろう。
だから、私が祈(いの)りながら全力で救命(きゅうめい)するしかないが、私のマウスツーマウスの人工呼吸と心臓マッサージでは再び彼を活性化(かっせいか)させられるか、自信が無い。
(もしも……)
楽しさだけで彼にした悪ふざけを私は、とても後悔した。
バス事故から身(み)を挺(てい)して私を護(まも)ってくれた命の恩人(おんじん)の彼を、私は衝動的な軽い冗談から殺(ころ)そうとしている。
突然、此の世界から彼を失うかも知れない恐怖に駆られ、熱くなる目頭に視界が滲(にじ)んだ。
急(いそ)いで彼の方へ向きを変えて行こうとしていると、ザバッ、ザバッーっと、彼が水中から飛び出して来た。
ホォッと安堵(あんど)の気持ちで一杯になった私は、やはり海水を吸い込んだのだろう、辛(つら)そうな彼の激(はげ)しい咳(せ)き込みを背後に聞きながら、寄り添う事はせずに浜辺に戻った。
止まらない彼の咳き込みに再び振り返ると、ゴーグルを外(はず)し、泪(なみだ)と鼻水と涎(よだれ)だらけのグシャグシャな顔で、彼はゲホゲホと咳き込みながら、膝上ほどの深さの海面をヨロヨロと岸へ向かっている。
弱弱(よわよわ)しくも彼が元気に見えて安心したのと、サプライズが成功して嬉しいのと、何より彼が生還したのが喜ばしい。
そして彼のヨロけてふらつく姿が可笑(おか)しくて、私は怖(こわ)さと悲しみの涙目で、また笑ってしまう。
(……もしかして私は、物凄(ものすご)く酷(ひど)い女なのかも知れない……)
「アハハハハ。ねぇ、大丈夫(だいじょうぶ)?」
飲み込んだ海水で喉(のど)が焼けるのだろう、辛そうに顔を顰(しか)めて盛(さか)んに唾(つば)を吐(は)く。
砂浜に上がった途端(とたん)、彼は懸命(けんめい)に穴を掘(ほ)り、ガハガハと激しく穴の中に嘔吐(おうと)した。
一頻(ひとしき)り吐瀉物(としゃもの)が出終わると、吐き気が残るのか、ゴボゴボと排水溝(はいすいこう)のような音を立てて空(から)嘔吐を繰(く)り返し、そのまま穴に突っ伏(つっぷ)した。
気持ちが悪くて、直ぐにでもゲロを吐きたいのに、わざわざ穴を掘って白い砂浜を汚(よご)さないようにした彼に感心する。
(あっ、ヤバイ! 気絶(きぜつ)したかも?)
ビクン、ビクンと、彼が痙攣(けいれん)してから動かなくなったように見えて、私は焦って駆け出した。
吐き気が治(おさ)まったのか、半分も近付かないうちに、彼は顔を起こしてゲロを吐いた穴に砂を掻き寄せたり、崩(くず)したりして埋(う)めてから、ゴロゴロと波打ち際へ転(ころ)がって行った。
汚物(おぶつ)塗(まみ)れの頭と顔を海水で洗(あら)い、口も漱(すす)いだ彼は、海から上がったと思うや、チリチリに焼けて乾(かわ)き切った砂浜に俯(うつぶ)せに倒れた。
「アハハッ、おっかしい」
彼に酷い事をしたのだけど、彼の足搔(あが)く? 藻掻(もが)く? その様子がコメディのパフォーマンスみたいで面白(おもしろ)い。
(でも、本人は、死ぬか、生きるかの瀬戸際(せとぎわ)みたいで、必死なんだろうな)
彼は熱い砂浜へ突っ伏したまま、ピクリとも手足を動かさない。
だが、はっきりと上下する背中から、息はしていて意識もしっかりして来たように思えた。
つづく
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