第17話 甦る波に浚われた記憶と森で迷子になった記憶(私 高校3年生)想いのままに・女子編


 明千寺(みょうせんじ)の御郷(おさと)の1階の座敷(ざしき)や居間(いま)に寝ると、決まって家中の部屋の灯(あか)りを消した深夜に、『ドタ、ドタ、ドタ。ドン、ドン、ドン。ドシン、ドシン』と、何か大きくて重い生き物が、2階を歩き回る音が1時間くらい聞こえて来て、其(そ)の度(たび)に襖戸(ふすまど)や縁側(えんがわ)のガラスの引き戸(ひきど)がビリビリと震(ふる)えている。

 音の大きさと動き回る振動(しんどう)の響(ひび)きから、ドブネズミ程度(ていど)の大きさではなくて、肥満(ひまん)の猫(ねこ)以上の重さが有り、犬(いぬ)ならば少し大きな中型犬(ちゅうがたけん)ぐらいで、正体は今も不明だが、もしも狂暴(きょうぼう)な獣(けだもの)だったら小学生だった私どころか、今でも太刀打(たちう)ちできないだろう。

 それは、物心(ものごころ)が付いた子供の時も、金沢市へ離(はな)れた今も同じで、時折(ときおり)、私や御客(おきゃく)さんが泊(と)まりに来たりしたら特に賑(にぎ)やかになって、2時間程(ほど)は喧(やかま)しいのが治(おさ)まらない。

 姉(あね)と私の部屋が2階に新しく間仕切(まじき)りして作られると、天井裏(てんじょううら)や誰(だれ)もいない2階の空間(くうかん)から大きな音は聞こえていた。

 何度も喧しい最中(さいちゅう)に、姉(あね)といっしょに行(い)き成(な)り戸を開けて電灯を点(とも)しても、途端(とたん)に音は鳴(な)り止(や)んで、誰も、何も見付けられなかった。

 祖父母(そふぼ)と両親に訊(き)いても、『昔から聞こえているし、何(なん)かが棲(す)んどるがや』と、答えてくれるだけで、誰もが、音の正体(しょうたい)を知らなかったけれど、何かが来て居(い)て護(まも)られている感じはしていた。

 こうした現象(げんしょう)や状況は、トヤン高原の中や周辺の集落に住(す)んでいる同級生達には当たり前の事で、上級生達も、下級生達も毎晩同じ体験をしているから、きっと、得体の知れないモノの縄張(なわば)りに住(す)まう人間達の状態を夜(よ)な夜な観察しているのだと思っていた。

(……私は慣(な)れていて平気だけど、これを彼に話したら、もの凄(すご)くビビるだろうなあ……)

 それと、彼が話した不思議(ふしぎ)な体験に似(に)たような出来事(できごと)を、私も小さい時に体験している。

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 まだ幼稚園(ようちえん)の園児で、小学校に上がる前の年の夏、宇加川(うかがわ)地区の磯(いそ)で遊んでいて波に浚(さら)われた事が有った。

 突然に来た大波で、あっと言う間に磯から流され、直(す)ぐにグルグルと波に揉(も)まれて水中へ沈(しず)められてしまった。

 私は水面の明るさを目指(めざ)し、必死に踠(もが)いて水を掻(か)き、どうにか浮き上(あ)がると磯は、ずっと向こうに見えた。

 大型船が通った波紋(はもん)も、風に立つ波頭(なみがしら)も無い穏(おだ)やかな海面で、のんびりと一人(ひとり)で私は磯の岩場で、アメフラシを棒で突(つ)いて遊んでいた。

 『半透明(はんとうめい)のような体なのに、なんで濃(こ)い色の体液が透明な内臓(ないぞう)みたいな処(ところ)から出て来るんだろう? 薄(う)っすらとでも、透(す)き通(とお)って見えないのかな?』と、紫色(むらさきいろ)の中身を岩の上に撒(ま)き散(ち)らかさせて、その臭(にお)いを嗅(か)ごうとしたところへ、磯で砕(くだ)けた大波が被(かぶ)さって来て、私は一瞬(いっしゅん)で海の中へ浚われていた。

 そして、やっと浮き上がった私を大きなうねりが徐々(じょじょ)に沖へと運(はこ)んで行く。

 海は深くなって足を伸(の)ばしても、冷(つめ)たい水ばかりで、全然、底に触(ふ)れない。

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 お父(とう)さんも、お母(かあ)さんも、泳ぎと潜りは上手(じょうず)で、よく岸から離れた深(ふか)みの岩場で貝や雲丹(うに)を獲(と)って来てくれたし、スパルタ式で私を指導してくれたお姉(ねえ)ちゃんも、泳ぎは上手で速(はや)かった

 まだ体の小さな園児(えんじ)でも泳(およ)ぎと潜(もぐ)りは、お父さんとお母さんから教(おそ)わっていて得意(とくい)だったから、少しくらいの波に巻かれても平気なのだけれど、この大きなうねりには翻弄(ほんろう)されるだけで、泳ぐのを止めた私は、どうにか浮いているだけで精一杯(せいいっぱい)だった。

 万一(まんいち)、水難事故に遭(あ)った時の為(ため)の対処として、浮いて漂う事も習(なら)っていた。

 風が強くて波の高い海に落ちた場合は、残念な事に波を被って海中へ引き込まれないように、手足で大きく掻きながら頻繁(ひんぱん)に向きを変えて息を繋(つな)ぐしかなくて、何か浮力(ふりょく)の有る物に掴(つか)まらない限(かぎ)り、真夏でも沖の水温は低いから直ぐに奪われる体力に、私が半日も生きていれば御の字(おんのじ)だと、お父さんは言っていた。

 うねりだけで凪(な)いでいる夏の海なら、幼児(ようじ)の私でも漂っていれば、二(に)、三日(さんにち)は生存できるとも言っていた。

 だから今、教えられた事を実践しながら、強い直射日光で干涸(ひから)びない様に時々一回転して漂っている。

 しかし、このままだと何処(どこ)かの誰(だれ)かに発見されないと、干乾(ひから)びてミイラか、沈んで膨(ふく)らんだ土左衛門(どざえもん)になってしまう。

 それとも、七尾湾(ななおわん)の外へ運ばれたら小さな私なんて大きな口の魚に一飲(ひとの)みにされて、あっさり彼の世(あのよ)行(ゆ)きになっちゃうかもだ。

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 ちょっと潜って底の様子を探(さぐ)ろうとしたけれど、近くの海面以外は、どちらを向いても果(は)ての無い薄暗い闇(やみ)が広がっているだけ、真下(ました)の方は真っ暗(まっくら)で全然、底が見えなくて心細(こころぼそ)くなってくる。

 内浦(うちうら)の七尾湾から富山湾(とやまわん)への潮流(ちょうりゅう)に連(つ)れ去(さ)られている私は、このままだと富山湾へは流されずに外洋(がいよう)の日本海(にほんかい)へ運ばれるかも知れない。

 もの凄く心細くなって、出るだけの大きな声で何度も、何度も叫(さけ)ぶのに、遠くの岸に人影(ひとかげ)は見え無くて、小舟(こぶね)や漁船も視界に入らない。

 だんだんと岸が小さくなり、やがて、見えなくなってしまう。

 益々(ますます)、うねりが大きくなって、何処を見ても、真っ青(まっさお)な波しか見えない。

 一人ぼっちだという現実が、とても気持ちを不安にさせて、小さくて非力(ひりき)な私は泣(な)きながら漂うだけしかなかった。

 力を抜(ぬ)いて漂う私の周りの海水が足下(あしもと)どころか海面まで冷たくなって来て、爪先(つまさき)から足が攣(つ)り……、脹脛(ふくらはぎ)が腓返(こむらがえ)りを起こして、とても、痛(いた)かったのを覚(おぼ)えている。

 だけど、不安なだけで不思議と怖(こわ)いとは思わなかった。

 真上の太陽のギラギラした輝(かがや)きの痛さと波間に反射する陽射(ひざ)しが眩(まぶ)しくて、目を開けていられない。

 流されて覚えているのは其処(そこ)まで、其処から先の海上(かいじょう)での記憶が欠落(けつらく)している。

 眩しさと不安と疲(つか)れで、たぶん、私は意識を失(うしな)ったのだろう。

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 気が付くと、私は木立(こだち)の中の大きな石の上に寝ていた。

 其処(そこ)は木々が鬱蒼(うっそう)と茂(しげ)る小さな丘の中腹(ちゅうふく)に建つ、鳥居(とりい)が無い神社の境内(けいだい)だった。

 鳥居が無いのに、明(あき)らかに拝殿(はいでん)と本殿(ほんでん)が連(つら)なる切妻(きりづま)屋根の簡素(かんそ)な社殿(しゃでん)のみが在り、年月を経(へ)た大きな木の板に、『住吉宮(すみよしぐう)』と、神社の社名(やしろめい)が深く彫(ほ)られていた。

 沖の海面を漂っていた私は、なぜ此処(ここ)にいて、何処を、どう遣(や)って来たのだろう。

 何も覚えていないし、知らないし、分からない。

 境内(けいだい)一面に青々(あおあお)と草原のように群生(ぐんせい)する羊歯(しだ)は、梢(こずえ)を揺(ゆ)らす風が群(む)れる葉を漣(さざなみ)の如(ごと)く戦(そよ)がせる度に、葉の下で何かが蠢(うごめ)いている気がして不安になって来る。と

 恐(おそ)る恐る羊歯の中を歩き回り、境内から見覚えのある物が見えないか探すけれど、辺りの斜面には太(ふと)くて樹高(じゅこう)の高い翌檜(あすなろ)の木が林立(りんりつ)して見通しが悪く、此処の位置を見当付ける物は何も見付からなかった。

 そんな状況で、社殿前の鳥居が有るべきの参道(さんどう)を兼(か)ねた、朽(く)ち掛けて草だらけの石段の下に道路が見えた時は、海の上の一人ぼっちは全然怖ろしくなかったのに、この場所と得体(えたい)の知れない不気味(ぶきみ)な出来事が急に不安を怖(おそ)れに変えて、人や自動車の影を求(もと)めて叫びながら下の道へ石段を駆け下りた。

 もう泣きそうだけど、泣いても仕方が無いのは幼子(おさなご)の私でも分かっていた。

(私のような小さな子供の声で、泣いても、叫んでも、喚(わめ)いても、金切(かなき)り声(ごえ)の悲鳴(ひめい)でも、此処からは聞こえない! 全部、茂(しげ)みや木立に吸い込まれて通らないんだ。だから、人や家を探しながら道を進むしかないのだけど、心細くて怖い!)

 道は境内から見たよりも、薄暗くて狭(せま)かった。

 それに、草だらけの未舗装(みほそう)で、ジメジメしていた。

 薄暗い道のどちらを見ても、誰もいなくて人家も見えない。

 境内とは違って、風が無くて動く物もないけれど、小動物のざわめきや爬(は)虫(ちゅう)類(るい)の犇(ひし)めく気配と臭いがしている。

 右手の奥は暗過ぎて、道が続いているらしいとしか判別できない。

 左手の方も同じくらい暗いけれど、遠くに射(さ)し込む光が見えて、其処はもう少しだけ明るいのだけど、どちらも不安で不気味だった。

 それでも、境内に戻っても助けは来そうもなさそうだと思っていたので、取り敢(あ)えず暗さから脱出できそうな其の光を目指して歩いて行く事にした。、

 暫(しばら)く歩くと光が大きくなって、近付いている事は確かなのに、何時(いつ)の間にか辺りが真っ暗で、空の色も見た事が無いくらいに暗い。

 肩から背中のゾクゾクが治(おさ)まらない私は、光の場所に向かって全速で駆け出した。

 こんなに暗くて狭い初めての溝(みぞ)のような一(いっ)本道(ぽんみち)で、私は独(ひと)りっ切りだった。

 圧(の)し掛かる恐さに立ち止まったり、蹲(うずくま)ったりしていても、誰も助けに来てくれない。

 歩き始めた時から、後を着いて来る気配に掴(つか)まれるかも知れない。

 蛇(へび)や疣蛙(いぼかえる)に触った時のような臭いが強まっていて、気味(きみ)が悪い。

 真っ暗な中、今も、真後ろを、溝の上の真横を、いっしょに走っているかも知れない。

 パシャッ、水溜(みずたま)りだ。

 ズルッ、泥濘(ぬかるみ)や苔(こけ)で足裏が滑る。

 ぐにゃり、何か、柔(やわ)らかいモノを踏(ふ)んだ。

 草じゃなくて弾力が有ったから、きっと、生き物だ。

 聞こえるのは、足許(あしもと)からの駆け騒(さわ)ぐ音に頭上を舞う風切(かざき)り音、それに私の息遣(いきづか)いだけ。

 迫(せま)る気配の音や踏み付けた生き物の呻(うめ)きは聞こえない。

 光の場所は、目の前だ。

 右側から、明るい光が差(さ)し込んで来ている。

 其処を曲がれば、此処から出られると直感(ちょっかん)した。

 正面に続くだろう道は、艶(つや)の無い壁(かべ)のような漆黒(しっこく)へ射し込む光と共に吸(す)い込まれて、向こう側が、どうなっているのか、全然見えなくて分からない。

 先に続いているのか、向こう側が在るのか、それとも行き止(ど)まりの壁で終わりなのか、あまりにも漆黒過ぎて、全然分からなかった。

 全力で駆けながら転(ころ)ぶように曲がった私は、突然に眩しい光の中へ出て、足裏(あしうら)は硬(かた)くて平(たい)らな地面を踏んだ。

 直ぐに、真上の太陽からの真夏の陽射しが、ジリジリと肌を焦(こ)がす熱に汗ばんで来て、今ほどの戦(せん)慄(りつ)する肌寒さが嘘(うそ)みたいだ。

 近くにワイン工場が在る場所の、しっかりとセンターラインが引かれた舗装(ほそう)道路の上に私はいた。

 後ろを振り返って、今来た暗い道を見た。

 だが、其処に暗黒の穴のような道は無くて、路肩(ろかた)のラインの向こうには側溝(そっこう)と笹(ささ)に縁取(ふちど)られた栗(くり)の果樹園が在った。

 生臭(なまぐさ)い臭いは無くなり、泥道(どろみち)を来たはずなのに靴は汚(よご)れていない。

 何処から、何時(いつ)から、私は違う世界へ行っていたのだろうと思う。

 朽ちた石段を、降りた時から?

 鳥居の無い神社に、寝ていた時から?

 波に浚われて、沖に漂っていた時から?

 もしかして、不思議な体験をした私は蘇(よみがえ)りなの?

 不気味で不思議な場所は、亡(な)くなった人が行く黄泉(よみ)の国なの?

 龍(りゅう)や魔族などの異形(いぎょう)が棲(す)まう異世界なの?

 それとも、呪(のろ)われた怖(こわ)い忌(い)みの地なの?

 熱中症が見せた白昼夢(はくちゅうむ)かも知れないけれど、生きて戻って来れて良かったと安堵して、眩しい色鮮(いろあざ)やかな世界を見回して感謝する。

 見知った道路と暑い陽射しに安心した気持ちが、再び、得体の知れない恐さに不可解(ふかかい)さの不安が重(かさ)なって、私は大声で泣いた。

 そして通り掛かった近所の人の軽トラックが、泣きながら歩いている私に気付いて乗せてくれた。

 迷子(まいご)になっていたと思われた私は、その人の軽トラックに乗せられて明千寺の家に帰る事が出来た。

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 あの時は、恐ろしくて確かめに行かなかったけれど、あの神社は明千寺からトヤン高原を抜けて、国道へ出る道の脇(わき)に在る神社だと思う。

 小高い小さな丘の中腹に杉と翌檜の木立に囲まれて建つ、鳥居が無くて社(やしろ)だけの神社だから、記憶と同じだ。

 波に浚われた磯へも、あれから何度も行ってみて思い出そうとしたけれど、未(いま)だに、はっきりと思い出せていない。

 ずっと、怖い記憶は無意識に隅(すみ)へ除(よ)けて、本当に有った事なのかも、分からないような朧(おぼろ)な記憶にしていた。

 一人ぼっちで、生死の淵(ふち)を彷徨(さま)よった事なのに、私は忘(わす)れようとしていた。

 それなのに、この海を去年(きょねん)の夏休みに見ていたら、ふと、思い出して確かめたくなった。

 それで、お母さんとお婆ちゃんに訊(き)いてみた。

『あったわ! そんな事が、あったわねぇ。あんときは大変だったわぁ。あんたが、お昼になっても、帰って来(こ)んかったから、お母さんが、あんたが遊んでいた場所を、あちこち探(さが)し回ってねぇ。そしたら、あんたは岸に倒れとって、意識が無くてねぇ。医者を呼ぶわ。お巡(まわ)りさんは来るわで。えらい騒ぎになってしもうて、村の衆(しゅう)も大勢(おおぜい)来てね。それでぇ、みんなで穴水の大きな病院へ運ぼうってことになって、トラックの荷台に筵(むしろ)を重ね敷(しき)して、あんたを寝かして行ったねぇ。でも、あんたが行く途中で気が付いてねぇ。みんなで大喜びしたわ。あたしは、あんたを抱いてね、泣いて喜んだよ』

 お婆ちゃんが目頭(めがしら)を押さえながら、懐(なつ)かしそうに話してくれていた。

 トラックの荷台で気が付いたのは、憶えていない。

 私の忘れられていた記憶の中では、神社の石の上だった。

 確かに、『波に浚われて気を失った』、『目が覚めたら神社の石の上で寝ていた』……と、金沢へ引っ越す前は思っていた。

 私は、忘れていた……。

 それが、お婆ちゃんの話で、別々の出来事だったのを思い出した。

 磯で波に浚われた事と、森で迷子になった事を……。

 身に迫った二(ふた)つの窮地(きゅうち)を、いつの間にか、私は一(ひと)つの出来事にしていたらしいのだ。

 けれど、果(は)たして、そうなのだろうか?

 磯で大波に浚われた日と、森で迷子になっていた日は、別々の日だったと思うけれど、森で迷子になって石板の上で寝ていた日も、私は磯で波に浚われていたんじゃないかと思う。

 だとしたら、私は2度も波に浚われている……。

 何処かの記憶が、欠落している……?

 森で迷子になる前の私と、今の私は、本当に同じ私なの?

 あんなに沖合に流されていたのに、どうして、岸に戻って来られたのだろう?

 幼子の私が沖合だと思っていたのは、案外、岸辺に近かったのかも知れない、とか?

 気を失って岸で倒れていたのは、沖へ流されていたのが、打ち上げられたからなのだろうか?

 そもそも、私を浚った大波は自然の波だったの?

 森の中で迷子になっていたのに、なぜ、神社の大きな石の上に寝ていたのだろう?

 あの暗くて狭い道は、いったい何処だったのだろう?

 今も其処だけが、どうしても思い出せない。

 私が波間で気を失っている間に……、木々の間で泣き疲れて眠っている間に……、誰か……? いや、何かが救ってくれたのかも知れない。

 それが、彼の体験談でリアルに甦(よみがえ)る。

 彼は本当に、試されて選ばれたのかも知れない。

 お婆ちゃんの話しの後、私は神社へ見に行った。

 寝ていたと思っている大きな石は、確かに、びっしりと羊歯が生い茂る狭い境内の隅に横たわって有った。

 苔(こけ)や枯れ葉(かれは)に覆(おお)われて、石の表面は僅(わず)かしか見えていない。

 眠りから覚めた時に見た石の表面には綺麗(きれい)にした痕(あと)が有って、誰かが苔生(こけむ)した表面を拭(ぬぐ)って汚(よご)れや埃(ほこり)を掃(はら)い、それから私を横たえたのだと思っている。

 平(たい)らな境内に半(なか)ば埋もれた、その大きくて平(たい)らな石は、もう、随分(ずいぶん)と昔に立っていた石板が倒れたようにも見えた。

 もし、石板だったら、碑文(ひぶん)や呪文(じゅもん)などが刻(きざ)まれていたのかも知れない。

(まだ、地面に埋まっている面に残っているかも。この夏休み中に調(しら)べてみよう……、ううん、今から彼を誘(さそ)って、行ってみようかな)

 確か、鳥居の無い神社の下の道を折(お)れて、脇道(わきみち)を通って来ると此処の場所、立戸(たっと)の浜へ来(こ)れたから、行くのは直ぐだ。

 そして、その立戸の浜へ至る道の途中にも、私は気になっている薄気味(うすきみ)悪い不思議な神社が在るので、ついでに探索したい。

 其処は、道沿いの幅3メートルほどの用水路の向こう側で、向こう側に立つ石の鳥居から畦道(あぜみち)のような参道が森へと続いていた。

 森の縁(ふち)の木々の間には、ぽっかりと暗い穴のような空間が開き、参道は穴の奥の社まで続いているのだろうと思えた。

 道路からは、暗い穴の中が良く見えなくて、穴の奥の境内や社まで、どのくらいの距離が有るのか、窺(うか)がい知れない。

 だが、薄気味悪い不気味さは、暗い穴だけじゃなかった。

 不思議な事に鳥居は道路へ向いているのだけど、道路と鳥居の間に在る用水路を渡(わた)る橋が無くて、簡単(かんたん)に行く事は出来ない。

 草深(くさぶか)い用水の縁を見ても、以前に橋が掛けられていたようすも、跡(あと)も無かった。

 どうやって行くのか、どんな場所で、何が祭(まつ)られているのか、興味(きょうみ)が有ったけれど、お婆ちゃんからは、『集落内の神社以外へは、立ち入るな』と、きつく言われていて、今でも行ってはいない。

 それに、社が隠(かく)れる森の奥の高い梢(こずえ)から、何かに見張(みは)られているような気配を感じて、近付くのを控(ひか)えていた。

 だけど今、異空間や邪神(じゃしん)? を体験した彼がいっしょなら、探検(たんけん)する勇気(ゆうき)が湧(わ)くかも知れないかなと、そう思って彼を見る。

(うっ! うわわわっ! うっわぁー)

 蒼白(そうはく)な顔に目を見開いた真剣(しんけん)な表情で、彼は私を見ていた。

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 幼(おさな)い頃の記憶に耽(ふけ)り、黙(だま)って海を見ていたのが不味(まず)かった。

(わわっ、話題を変えなくちゃ。……石板を見に行くのは、無理(むり)っぽい)

「あっ! ごめん。これ、あなたが被っていて。その影に入るから」

 そう言って、被っていた鍔の広い大きな白い帽子を彼の頭に乗せ、その影に入るのに彼の肩へ凭(もた)れ掛る。

 私の背が触れて、ビクッと振えた彼の肌が、びっしょりと濡れて冷たくなっているのには驚いた。

 触れた時のヌタッとした感じに、『うっ』と思ったけれど、慣(な)れてくると、冷えた汗の冷たさが気持ち良い。

 冷たさを求めて、触れる位置を変える度(たび)に、ビクン、ビクンと振るえてくれる彼が面白(おもしろ)い。

(このべっとりとした、全身に掻(か)く汗(あせ)は、直射日光に曝(さら)される暑さを、冷却(れいきゃく)している汗? それとも、肌の乾燥(かんそう)を防(ふせ)ぐ粘膜(ねんまく)? もしかして、戦慄(せんりつ)した寒気(さむけ)からの、冷たい汗なのかな?)

 ヌタッとした後に、今も感じるザラつく肌は、まだ鮫肌(さめはだ)になったままなのだろう。

 錯覚かも知れない不思議体験を怖がっている癖(くせ)に、弱音(よわね)の一言(ひとこと)も吐かずに痩(や)せ我慢を通す。

 そんな彼を、私は楽(たの)しくて可愛(かわい)いと思ってしまう。


 つづく

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