第3話 唇にキスの感触! キスをされたの、私?(私 高校1年生)希薄な赤い糸・女子編
始発の金石町(かないわまち)のバス停から金沢駅(かなざわえき)方向へバス停を二(ふた)つほど過(す)ぎた辺(あた)りから、イヤホンから聴(き)こえる曲がノリの良いシャンソンスタンダードから、スローなバラードに変わった。
短いバラードが2曲続いた後は、スィングなディスコ調ばかりになるはずだ。
遠くの初(はじ)めての場所へ来て浜風に吹かれ、見知らぬ町を当ても無く歩き廻(まわ)った所為(せい)で疲(つか)れたのと、御腹(おなか)も満たされた今は、ジャズバラードの優(やさ)しい調(しら)べで少し眠(ねむ)りたい。
武蔵(むさし)が辻(つじ)を過ぎる頃(ころ)には、4曲目から始まるアップテンポのスィングなノリで起(お)こされるはずと考えていた。
更(さら)に幾(いく)つかのバス停を過ぎて瞼(まぶた)がトロンとして来た頃、あいつの通う工業高校近くのバス停に着いて、乗車口のドアが開いた。
開いた乗車口からドタドタと勢(いきお)い良く先頭で乗り込んで来たのは、あいつだった。
とっくに弓道部(きゅうどうぶ)の部活が終わり、既(すで)に下校していると思っていた私は、慌(あわ)てて顔を逸(そ)らす。
窓枠(まどわく)に頬杖(ほおづえ)を突(つ)いたまま、身体ごと捻(ひね)ってシートに凭(もた)れ掛かる。そして、左眼を瞑(つぶ)り、あいつから死角(しかく)になった右眼は、窓ガラスに映(うつ)るあいつを追う。
窓ガラスの中のあいつは、私に気付(きづ)いて一瞬(いっしゅん)停まった。そして、ちょっとだけ戸惑(とまど)いながらも私の横に来る。
近寄(ちかよ)って来るにつれて、あいつの臭(にお)いが鼻孔(びこう)を刺激(しげき)した。
汗臭(あせくさ)い少し饐(す)えた臭い。それに天日干(てんぴぼ)しした蒲団(ふとん)の臭いもする。
日焼けした肌(はだ)の太陽の匂(にお)いだ。
(部活臭(ぶかつしゅう)?)
あいつが横に座った反動の揺(ゆ)れを感じながら、未(いま)だに回答を返していなかった、あいつから届(とど)いていた質問メールを思い出した。でもそれは、もう答える必要が無くなった内容の質問になっている。
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高校に入学して1か月くらい経(た)った頃、兼六園下(けんろくえんした)のバス停から乗った帰りのバスの中に、偶々(たまたま)あいつがいた。
座席に座ると直(す)ぐに、ポケットの携帯電話が着信で震(ふる)える。
あいつからのメールだ。
【君も、バス通学なのですか? 朝は、どのバスに乗るのですか?】
(いきなり、質問かよ! 『お疲れさん、同じバスに乗ってるよ』とか、ふつう、前置(まえお)きするだろう)
『捜(さが)せば』と、文字キーを打(う)とうとしたけれど、私が捜し出されるのを望(のぞ)んでいるみたいで止(や)めた。だから、返信はしなかった。
それに、私が乗る朝のバスを、あいつは勝手(かって)に捜し出すに違いないと考えていたから、あいつの質問には答えない。
十日(とおか)ほど過ぎた朝、私が乗り込む始発(しはつ)の停留場(ていりゅうじょう)から二(ふた)つ目のバス停に、あいつがいた。
あいつは、ジッとバスを……、私を見ていて、降車口横の最前席に座る私は逃(に)げ場の無さに動揺(どうよう)してしまう。
バスの大きなフロントガラス越(ご)しの丸見(まるみ)え状態なのに、顔を背(そむ)けるのは無神経過ぎる。
気持ちの動揺を気付かれまいと抑(おさ)えて、私は無表情を装(よそお)い、あいつを見返す。
(とうとう、あいつに見付かってしまった……)
バスのフロアを歩く足音が近づいて来る。
あいつは多くの座席が空席なのに、躊躇(とまど)う事も無く、真っ直(まっす)ぐに来て私の横に立った。
何か言われるというよりも、何かされるのじゃないかとビビってしまい、反射的に避(さ)けるように頭が傾(かし)いでしまう。
(何かされる覚(おぼ)えは、有ったっけ? ……無いよね?)
不安にドックンドックンと胸が強く鳴(な)って、絶対、真横のあいつにも聞こえていると思った。
(こっ、こいつ…… なんか気持ち悪くて怖(こわ)い!)
予想に反(はん)して、あいつは無言で立っているだけで、何もしてこなかった。
(朝の挨拶(あいさつ)をしてくれれば、私も、挨拶を返すのに……)
『でも、私からはしないよ』と、唇を噛(か)んだ。
あいつは見下(みお)ろすような上から目線で頭や髪や後(うし)ろ襟(えり)や肩や……、きっと、私の見える限りの部分を隅々(すみずみ)まで観察しているだろう。
そうしているだろうと分かっていても、私は、あいつを見返す事ができない。
(あーあ、とうとう、あいつに見付かっちゃったかあ!)
その日からあいつは、私が乗る朝の通学バスに必(かなら)ず乗って来て、私の真横に立つ。
毎朝、兼六園下のバス停で私が降車するまでの、12、3分間の私の真横が、あいつの定位置になった。
きっとあいつは、大好きな私の傍(そば)にいて私を護(まも)っているつもりでいると思う。
それに、余計(よけい)なモノが私に言い寄ったり、変な物が付いたりしないように見張(みは)っているのだ。
最初は、周(まわ)りの乗客の視線を気にしての恥(は)ずかしさと、壁(かべ)の如(ごと)く横に立つあいつのプレッシャーとうっとおしさでドギマギしていたけれど、いつも無言で何もせずに立っているだけなのだから、シールドかバリアーみたいなオブジェとして、いつしか横にいるのが当たり前に感じていた。
あいつの視線は感じるけれど、私も見られても良いように、身嗜(みだしな)みの手入れとチェックを怠(おこた)らなくなった。
(バスの中で異性から迫(せま)られたり、不粋(ぶすい)な真似(まね)をされたりする事は、まず無いと思うけれど、もし、言い寄って来る奴(やつ)がいたら、あいつ以上に強く撥(は)ねつけて、2度と、私に近寄れなくしてやる!)
兼六園下のバス停での降車で立ち上がった際(さい)に私は、無感情な目であいつを見ると、少し紅(あか)くした無表情なスケベそうな厭(いや)らしい顔で私を見詰める、あいつの眼と合ってしまった。
(ちょっとぉ~。なに、その厭らしい目付きは? お願(ねが)いだから、私に変な事をしないでよ! もう信じられない。さぁ、大好きな女の子の座っていた席が、空(あ)いたわよ。早く座って、私の温(ぬく)もりを感じて身悶(みもだ)えなさい!)
降車後、暫(しばら)く立ち止まって、あいつが私のいた席に座るか見ていた。
バスの窓ガラス越しに私を見ているあいつは、ソドムとゴモラを滅(ほろ)ぼす神罰(しんばつ)の炎(ほのお)を見て塩の柱にされたように立ったまま動かない。
私は雷(いかずち)を浴(あ)びせる身勝手(みがって)な裁定者(さいていしゃ)じゃなくて、タカビーなS(サディスト)の女王様気分であいつを見ていた。
間も無くバスは発車して金沢城の百間堀(ひゃくけんぼり)に掛かる石川橋(いしかわばし)を潜(くぐ)り、広坂(ひろさか)方向へと見えなくなった。
バスが見えなくなるまで、あいつは私の期待に反して、温もりの残(のこ)る座席へ座る事はなかった。
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心地良(ここちよ)いバラードを聴きながら、ぼんやり、車窓を流れる街の灯(あか)りを見ていると、そんな、あいつが初めて私の横に立った時の、可笑(おか)しくも、安(やす)らいだ気持ちになったのを思い出したのと、それに遠出の疲れも加(くわ)わって、揺ら揺らと振(ふ)れ遠のく意識が眠気(ねむけ)を誘い、次第(しだい)に重(おも)くなって行く瞼は、いつしか、隣(となり)にスケベなあいつが居(い)るのに、私を無警戒(むけいかい)に眠り込ませてしまう。
夢を見ていたのを、覚(おぼ)えている。
夢の中の私は紅い色の世界で、真っ赤な夕陽を見ていた。しかも私は一人(ひとり)じゃない。
誰(だれ)かと手を繋(つな)いで、私達は夕陽を見ている。
誰かの顔が間近に迫り、その唇が私に話し掛けて、私は嬉(うれ)しそう。
何処(どこ)かで嗅(か)いだ気がする匂(にお)いがしている!
誰かの体臭?
手を繋いでいる誰かに言われるまま目を閉じると、唇(くちびる)に誰かの唇が触(ふ)れ、『ああ、キスをされたんだな』と、思ったところで目が覚(さ)めた。
私が見る夢の中の世界と客観的な私の姿(すがた)、たぶん、相手の誰かから見た私。
初めて見た、リアルで不思議(ふしぎ)な夢……。
(うっ、うう……、なっ、なに? 何かが顔に…… 付いた?)
目覚(めざ)める直前の浅い眠りの中、顔に何か当(あ)たった気がした。でも、痛(いた)くはなくて、押し付けられた感じだっだと思い直(なお)した。
(ううん、違う。何かが…… 頬(ほほ)に。ううん、頬と、……唇にも、触れた!)
楽しい夢心地の、気持ち良い眠りが妨(さまた)げられる。
バスの揺れで窓ガラスに触れたのかも知れない。でも、ガラスみたいに硬(かた)い感じゃなくて、冷(つめ)たい触りでもなかった……。
寧(むし)ろ、夢の中のキスがオーバーラップしたような、柔(やわ)らかい温(ぬく)もりの触れた感じが、うっとりと気持ち良くて、まだ目覚めたくないと、目を閉じたままの夢現(ゆめうつつ)に思う。
(うーん、目が覚めそう。もっと、夢の中にいたいのにぃ……)
心地良い夢見が、虚(うつ)ろな覚醒(かくせい)へ移って行く。
(あうっ! いっ痛(つ)う……)
背中に鈍(にぶ)い重みの、鋭(するど)い物が当たった。
(なっ、なにすんのよ! 夢見が良かったし、この半起(はんお)きが気持ちいいのに!)
いっぺんに目が覚めて、ちょっと、気持が悪い。
振り向くと、立ち上がって降車ブザー押す、あいつが私を見ていた。
頬の違和感(いわかん)と背中の痛みに、睨(にら)み返す。
口を尖(とが)らせるようにへの字に噛み締(し)め、眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せ、ワザと眉(まゆ)を吊(つ)り上げた。
寝惚(ねぼ)け眼(まなこ)だったけれど、私は精一杯(せいいっぱい)に睨み付けたつもり。
目頭(めがしら)と眦(まなじり)に力を込めて睨み付けるけど、エネルギーや質量の無い私の眼光(がんこう)は、レーザーの熱量やビームの粒子加速と超振動の波動も伴(ともな)わなくて、全(まった)くの無力な眼力(がんりき)でしかなかった。
それ以前に、あいつは私の睨みに気付いていないみたいだし……。
(あいつに…… 無視(むし)された?)
私の眼力を無視したあいつは、『降りないのなら、置いて行くぞ。降りるのなら、付いて来い』と言わんばかりに、『フッ』と薄笑(うすわら)いを浮(う)かべる。
車窓(しゃそう)の向こうに香林坊(こうりんぼう)の街路樹(がいろじゅ)のイルミネーションが見え、バスの減速ブレーキで車体前部の沈みと慣性(かんせい)に引かれるように、私は前方の降車口へ急(いそ)ぐ。
あいつに小突(こづ)かれていなかったら、危(あぶ)なく寝過ごしてしまうところだった。
(ちょっ、ちょっと~。あんたは私を置き去(ざ)りにするつもり? ……ねぇ、置いて行かないでよぉ)
耳の中に超ノリの良いアップテンポのスィングジャズが、ジャンジャン響(ひび)いているのに、私は起き切れていない。
自分の不甲斐無(ふがいな)さに唇を噛む私はバックを掴(つか)み直して、あいつの後を追うように急いでバスを降りた。
バスを降りたあいつは、私を待たずにスタスタと足早(あしばや)に歩いて行く。
(待ちなさいよう……。迷子(まいご)になっちゃうじゃない。ここから、バスで帰った事が無いのよ……)
香林坊や片町(かたまち)へは、明るい時間帯に両親と自家用車(くるま)で偶(たま)に買い物に来るくらいで、バスを利用して来た事はなかった。
片町から犀川(さいがわ)に架(か)かる桜橋(さくらばし)の袂(たもと)へ繋がるリアルでレアな若者の街、ダウンタウンの竪町(たてまち)や新竪町(しんたてまち)へは、姉(あね)と中学生の頃に何度か来たけれど、いつも放課後(ほうかご)で、行き帰りは毎回歩きだった。
乗り継ぐバス停の所在(しょざい)を知らない私は、あいつに小走(こばし)りで追い付いて真後(まうし)ろを歩いた。
(……なっ、なんか変! この位置関係って、彼氏(かれし)の後(あと)を従順に付いて行く、内気(うちき)な彼女みたいに見えるじゃない! それか下僕(しもべ)……、使い魔のような……? しっ、しまったぁ~)
目の前を進む、あいつの背中を見ながら、顔を左右に振り、この位置関係を否定(ひてい)して悔(く)やんだ。
とうとう乗り継ぎの四高(しこう)記念公園前のバス停まで、あいつに先を歩かれてイニシアチブを取られてしまっていた。
後に付いて歩いていると、自分の息が臭った気がして、両手を口に翳(かざ)して吐(は)く息を吸(す)ってみると、ラーメンの匂いがする。
(あっ! 金石でラーメン食べたんだっけ。もしかして、私の息…… ニンニク臭い? 擂り下ろしニンニク味噌と、辛味噌を入れたのが、不味(まず)ったかも……)
バス停に着くと、あいつの後ろ、ほんの1メートルほど距離を取って風下に立ち、私の息の臭いが、あいつの方へ漂(ただよ)わないように気を使う。
程無(ほどな)くしてバスが到着すると、乗車順番の先頭にいたあいつが、無言で脇(わき)に避(よ)けて先に私を乗車させて、先にあいつが乗れば、離(はな)れた席に行こうと考えていた私を少し戸惑(とまど)わせた。
私は誰もが嫌(いや)がるニンニクの臭いを意識して、あいつも嫌がらないか、心配していたのに……。
(レディーファーストなの? ちょっと嬉しいかも。でも、確(たし)かにエチケットだけど、これって古いヨーロッパの貴族達が、自分の身を守(まも)る為(ため)に、危険の察知(さっち)と盾代(たてが)わりの露払(つゆはら)い役を女性達にさせる、体裁(ていさい)の良い言い方だったのでしょう? いかにも、女性に優しくて、大切にしているって感じに思えるけれど、当時の社会的地位の低い無能な女達をコントロールする意味も、含(ふく)まれていそうだし……。まぁ、いいっか。あいつは微塵(みじん)にも、私に露払いをさせようと思っていないだろうから、これは素直(すなお)にあいつの優しさでしょう)
乗り継いだ東部車庫行きのバスは、僅(わず)かな乗客で空席だらけだった。
私は空いていた降車口直前の最前席に、いつものように座る。
あいつは後部に行いって、毎朝のような私の真横には立たなかった。
やはり、あいつもニンニクの臭いが厭(いや)なのだと思う。でも……、私を先に通してバスに乗せる際に、必要以上に体を避けたり、顔を背けたりしていなかったから、私のニンニク臭い息の所為(せい)じゃないかも知れない。
(どうして、近くに来ないの? 私を護ってくれていたんじゃないの? 夜間の方が、酒に飲まれたオッサンや、挙動不振(きょどうふしん)な若いのや、連(つ)るまないと何もできない輩達(やからたち)が乗って来るから、いろいろと、非常に危険だと思うんですけど。あんた、普通にヘタレでストーカーっぽいわけ?)
真横の居るべき場所に、あいつが居ない。
(そうよ、あいつは、乗車口のステップで、ニンニク臭い私を避けているように見えなかったな)
見通しの良い横の空間に、詰(つ)まら無さを感じながら、私は疑(うたが)いを持つ。
(なぜ、あいつは、横に来なかった?)
中途半端(ちゅうとはんぱ)に起こされた疲れて気怠(けだる)い身体(からだ)を車窓に凭れ掛け、傾(かたむ)けた頭も、窓ガラスへ預(あず)けるように着けて、頬杖を装いながら唇を撫(な)でてみる。
唇の半分に残る違和感が、何かに触れられた気にさせていた。
香林坊のバス停に着く直前、まだ目覚め切れていなかった私は、何かに触れられたと感じた。
その直後に、あいつは偶然に触れたかのように私の背中を強く押して来た……。
(たぶん、私は、あいつに起こされた……。背中に当たったのは、ワザとで、乗り換えのバス停が近づいたのを。私に知らせたんだ。ああっ、きっとそうだ。……でも、背中は痛かったぞ!)
起こすにしては、優しくなかった。
(あいつ、らしくない……?)
香林坊での降車で、立ち上がって私を見るあいつを思い出す。
あの時も、私の眠気眼に映(うつ)ったあいつは、赤味(あかみ)の差した熱っぽい顔をしていた。
(この唇と頬に残る感触も、私の眠りを確認するのに、あいつが、指先で撫でたから…… なのかなぁ? 私が気付いて起きるように……? 指で? ……あいつは、私に触れてみたかったのか……? 私の唇と頬に触(さわ)ってみたかった……?)
降車口へ向かうバスの中でも、乗り継ぎのバス停への移動でも、私を無視するかのように先を急ぎ歩いた、あいつ……。
さっきのバスの降り際での、あいつの紅い顔。
乗車口のステップに足を掛ける際にも、視界に入ったあいつの顔が、紅っぽく見えた。だけど、それは、車内灯の灯りで照(て)らされて、紅く見えていただけなのかも知れない。
(私を起こしたのは、背中の痛み……? 唇と頬に残るこの感じ……? そして今、私に近付こうとしないあいつ? ……変だ!)
本当に、あいつらしくない。
(ん! もしかして、寝ていた私は、キスをされたの……? そんなぁ、きっと、指か息ね。息! でも、あいつはスケベだ。夕方、私のスカートの中を覗いていた! ……あいつは私に何をしていた? ……近付いて? 息が掛かるほど、近くに……? 触れるほど……? ううん、あいつには、そんな度胸(どきょう)なんて無いわ。有るはずが無い! 無いと思う……、だけど……)
このバスに乗る時も、あいつの横顔が紅かった。
(然(さ)り気(げ)無く、レディーファーストしたくらいで、どうして、そんなに紅くなる? 私が傍にいたから? 毎朝の私の横の立っている時は、紅くならないのに……)
車内灯の白い光りに照らされると、紅く映えるのだろうか?
(そう、車内灯は、青白い明かりだ!)
後方の座席にいるあいつを意識しながら、唇の違和感への不審(ふしん)な思いが、堂々巡(どうどうめぐ)りをしている。
(夢の中でも、キスされていたし……?)
すっかり夜の帳(とばり)が下りて、暗い車窓のガラスに映る、自分の唇と頬を見ながら、気持ちが焦(あせ)り出す。
(もっ、もしかして、ほんとに、キスされたかなぁ…….ってことは、ファーストキス? まっ、まっさかぁ……、あいつがー? えっ、えー?)
窓ガラスに映る私は、もう、キスをされたと思い込みそうになっている。
また、否定(ひてい)と肯定(こうてい)を繰(く)り返す。
(いやいや、あいつはスケベだし……、でも、でも、夢まで見て熟睡(じゅくすい)していたから、キスされたか、どうかなんて……。だけど、夢も、唇も、リアルな感じ……? うーん、わからない。わからないから、まあ……、どうでもいいか。されてないって事にしちゃえ。だって、覚えてないもんね。そう、覚えていない……。でも、……夢の中のキスの相手は……)
唇に残る感じは、まだ記憶に無い未経験のはずのキスみたくて、夢の中のキスだと思っていたのは、本当にされていたのかも知れない。だけど、もういい加減(かげん)にしよう。
やっと、堂々巡りの思いを強引に纏(まと)めて包(つつ)み込み、記憶の忘却域(ぼうきゃくいき)へ払拭(ふっしょく)した頃合いで携帯電話が不意打(ふいう)ちのように震え、その予期せぬ驚きは、弛緩(しかん)させてぼんやりしていた私の全身をビクンと跳(は)ねさせた。
【見に来てくれて、ありがとう】
あいつからのメールだった。
いっしょにバスの中で揺られていて、まだ、どちらも降車していないのに送信してくるなんて、私が寝過ごさないようにと、親切の目覚まし代(が)わりなのだろう。
離れた席でも、私を見守って送られて来た、
あいつの気遣(きづか)いが、ちょっと、粘付(ねばつ)くけど嬉しい。
唇を摩(さす)りながら、返信を打つ。
【別に。あんたに、会いに行ったんじゃないよ。金石の海を、見に行ったんだからね】
返信は無かった。
やがて、あいつが降りるバス停に着いて、あいつはバスの最前部に有る降車口から降りて行った。
降りがけに私を見た顔は、悲(かな)しげで寂(さび)しそうだ。
(しょうが無いなぁー)
【ほんとに夕陽が綺麗だった。あんたも、イイ顔していたよ。でも、スケベだったね】
私は、冷酷(れいこく)になりきれない。
末尾(まつび)に軽く皮肉(ひにく)るくらいで、好きでも無いスケベな男の子を、誤解を与(あた)え兼(か)ねない優しげな文でフォローしてしまう。
他の男子へは、冷たく酷(ひど)い言葉を重(かさ)ねて突き放せられるのに、何故(なぜ)か、あいつにはできていない。
たぶん、小学校6年生の私を見ていた、あいつの顔の所為(せい)だ。
不躾(ぶしつけ)な言葉とは裏腹(うらはら)に、誤(あやま)って興味深々だった異世界の姫(ひめ)に声を掛けてしまった戸惑いと不安と後悔に、私の返答で無理解と嬉しさが混(ま)じる明るく陰湿(いんしつ)な表情……。
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案の定(あんのじょう)、家に帰ると家族全員が私から離れて、距離を置いた。
特に両親と姉が、私に『ニンニク臭いから2メートル以上、離れてろ』と言って、避けられたのはショックだった。
(そんなぁ……、2メートルって酷い! 離れ過ぎじゃん! せめて、1メートル半くらいでいいじゃん)
やはり、ニンニクは家族みんなで食べなければいけないと改(あらた)めて思い、私は反省する。
無情な家族の反応から、あいつはニンニク臭いのを我慢(がまん)してくれていたのだと知った。
つづく
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