第8話 あいつに救われたんだ⁈(私 高校2年生)想いのままに・女子編

 朝のバスの中で私の横に立たれるのは、やはりプレッシャーだと感じている。

 触れたり、話し掛けたり、覗(のぞ)き込んだりなんて、あいつはして来ないけれど、視界の右の隅(すみ)に壁のようなあいつの存在は、あいつのフレグランスの香りと共に溜息(ためいき)を吐(は)く安心感も有るけれど、チクチクと胸が疼(うず)く圧迫感も有った。

 其処(そこ)に居られるだけで断崖絶壁(だんがいぜっぺき)を感じていた。

 私が乗車するバス停からいっしょに乗り込む人達の中に、私を見知っている近所の人もいて顔が合うと会釈(えしゃく)を交(か)わしている。

 だから、毎朝必ず私の真横に来られるだけで彼氏と彼女の関係だと思われているだろう。

 何もしゃべらず、互(たが)いを見る事も、笑顔になる事も無くても、傍目(はため)には恥(は)ずかしがり屋とはにかみ屋の無口なカップルと思われていそうだ。

 それがプレッシャーなのだけど、今更(いまさら)、『私の傍(そば)に来ないで』とは言えない……。

 仮にメールで、そう伝えれば、きっと近付かなくなると思うけれど、あいつの事だから少しだけ離れて立ち、私を見ているようになるのに決まっている。

 其の立ち位置は私的に気不味(きまず)いし、あいつが急に離(はな)れて立った事に私と同じように低位置に座(すわ)ったり立ったりする乗客達や見知っている近所の人達が、二人(ふたり)に何か有ったのだろうなと有らぬ誤解(ごかい)と詮索(せんさく)を招(まね)きそうに思えた。

 もう1年半近くにも経(た)った2年生の2学期にもなると、朝のバスで私が座るシングルシートの真横にあいつが来て立っているのにも慣(な)れてしまって、もうドキドキする事も無く、立たれる事への恥ずかしさは薄れて遺憾(いかん)だとも思わないが、顔を上げてあいつの表情を見る勇気は無く、ただ降車後に歩きながら車窓の向こうの空(あ)いた私の座っていたシートには座らずに立ち続けて私を見詰(みつ)めるあいつを、私の瞳(ひとみ)だけが追っている。

 あいつは鞄(かばん)を左手に持ち替(か)えると右手の掌(てのひら)で心臓辺(あた)りの胸を押さえて、前を横切って行く私の方へ顔を向けながら、あいつの瞳も私を見続けていた。

 これはもう私が降車する時の決まり事のようになっていて、私が座っていたシートの後ろのシートやあいつの近くにいる乗客達が私とあいつを交互(こうご)に見ていた。

 この状況を私は顔を上げて確認してから、頬(ほお)や耳の後ろの首筋に熱さを感じると顔を伏(ふ)せて足早(あしばや)にバスの後方になった横断歩道へ向かう。

 毎朝、堂々と胸を張って忠誠(ちゅうせい)ポーズのあいつを、私は恥(は)ずかしくて顔を火照(ほて)らせて紅(あか)くしているのに、『ざっかしい』とか『うざくらしい』とか『もういいから、やめて!』とは思っていない。

 あいつを好きか、嫌(きら)いかと訊(き)かれたら、キライじゃないと私は即答(そくとう)できるけれど、その気持ちは恋愛に至(いた)っていないとはっきり言える。

 あいつにはこれまでにも何度か『胸キュン』と『ドギマギ』をさせられたが、その『ドキン』として耳朶(みみたぶ)や目の下の頬辺りがカァーと熱くなるような想いは持続せずに、2、3日後にはいつも通りの冷静さに戻っていて、あいつを見ても心のトキメキを感じない私がいた。

 毎朝、私の横に来る素振(そぶ)りから、あいつは今も私を好きでいてくれて、私への再三のアプローチをするチャンスを窺(うかが)っている。

 だけど私は折れて靡(なび)くような態度を見せてやらないから、あいつは物分かりの良い友人や親(した)しい知人のフリをして無言で傍にいるが、それを私は憐(あわ)れんだりしない。

 中学校では、私より成績が良くない男子を恋愛対象と考えていなかったし、スポーツクラブのエースでもマッチョでもなく、ルックスも良くなければ距離を置いて、親しくなられては困(こま)ると思っていた。

 ファッションやトークのセンスが楽しくて、快活(かいかつ)で聡明(そうめい)さを漂(ただよ)わすイケメン以外からの告白は、受け入れないし、私が恋心を抱(いだ)いての告白もしないと、そう決めていた。

 並(なら)んで歩きながら笑顔で話し合うのは、そんな男子じゃなければならないと思っていた。

 なのに、中学校の3年間に心と身体が舞い上がるほど、ときめく出逢(であ)いは無かった。

 結果的に、あいつの文や態度に惑(まど)わされても、その煌(きらめ)きは一過性(いっかせい)で、暫(しばら)く経つとあいつの好意に同調できない私がいた。

 私は、あいつに恋焦(こいこ)がれて息が詰まる程に、愛(いと)しくて切(せつ)ないとは想わない。

 それよりも、そこそこ鬱陶(うっとう)しいと思っている。

 でも私は、それが本当に鬱陶しいって事なのか分からない……。

 傍に来て立たれると『ああ、今日も来るんだ……』、そう意識しながら安心している自分がいるのも確(たし)かで、立たれていないと『今日はどうしたのだろう』、バス停と歩道とバスの中を振り返ってまで探(さが)していていて、見付けられないと寂(さび)しさでシュンと気落ちしてしまう。

 そいいう気持ちになる自分と、そんな気持ちにさせるあいつが鬱陶しい!

 だから、鬱陶しいとは何だろうかと、本当に鬱陶しいのかと考えてしまう。

 態度的にあいつは、ふざけた野郎でも御調子者でもなくて、行動も部活で弓を引いている所為(せい)なのか、騒々(そうぞう)しくはなくて静かだった。

 親しくしていないから実際なところは分からないが、どことなく熟考(じゅっこう)しているような、物事に動じないような、そんな落ち着きが有るように傍目から見えていて、そういう私よりも思慮(しりょ)が深そうに思える雰囲気(ふんいき)にもムカついている。

(どうしてガキっぽくしていないのよ! 勝手に私より大人(おとな)びないでよね! う~ん、もうイラついて鬱陶しい!)

 やはり、あいつは確実に成長しているようだ。

 人間的に、男として、学業的よりも社会的に貢献(こうけん)して成長していると思っている。

     *

 工業高校の機械科に在校しているあいつは、弓道部での鍛錬(たんれん)と趣味の創作(そうさく)、そしてアルバイトでの技能の習得(しゅうとく)に熱中していて学業を疎(おろそ)かにしているでしょうから、中学校の時の成績のように学年の中間辺り、しかも後寄(うしろよ)りだろうから、成績を上げるよりも赤点教科が増(ふ)えて落第候補にならないように、テスト期間は必死に一夜漬(いちやづ)けの勉強をしている事だろう。

 でも、あいつはだぶん、あいつの態度や言葉尻(じり)から学校の成績には拘(こだわ)っていなくて、進学の為(ため)の勉強よりも教養の為の勉学を意識していて、成績順のラスト十人に入らない限り、本当に慌(あわ)てる事が無さそうに見えた。

 中学生の時でも学校では教えない専門的な知識、芸術性、社交的な事に興味が有って学んでいるように思えた。

(社交性を学んでいるなら、恭(うやうや)しく朗(ほが)らかに私に接して来なさいよ! Shall we dance?みたいな、私に傾(かし)いで御誘(おさそ)いの言葉を掛けて来れば良いのに……)

 工業高校の機械科へ進学したあいつの事だから普通教科よりも、そちらの方に興味が有って、きっと自分の将来を見据(みす)えて真剣に学んでいると思うし、普通教科では作図に必要な数学の三角関数の応用やツール名や動作名称を理解する為の英語や会話や読み取りを正確にする為に国語力や工業系に必要な化学や科学を理解できるまで調べている筈(はず)だ。

 しかし学業では、あいつより私の方が優秀だと自分を納得させているが、それはあいつへの妬(ねた)みと嫉(そね)みで、そんな事でしかジェラシーを拭(ぬぐ)えない自分を腹立たしく思う。

 こんな北陸の狭(せま)っ苦(くる)しい地域での成績順で優越感を得ようなどと、しかも、そんな事でしかあいつが私に相応(ふさわ)しい恋愛対象なのか見極める事のできない、自分の狭隘(きょうあい)さがプレッシャーになっていると分かっていて、私はイラ付いていた。

 そんなイライラした気持ちを、あいつに打ち付けて遣(や)りたい!

 限界突破ができない自分の不甲斐無(ふがいな)さを怒鳴(どな)り声とキックドロップで、あいつに蹴(け)り付けたい!

(なんで、あんたはこんな私を好きになったのよ! 我(わ)が儘(まま)で、意地悪で、素直じゃないブスな私に、どうして、しつこく纏(まと)わり付くのよぉ!)

 あいつからのメールは消去せずに全て残している。

 イライラする私を落ち着かせる方法は解(わか)っている。

 それは全て、これまでのメールの遣り取りに書かれていたから、私は泣き笑いながらあいつと私のメールを読み返しているんだ!

 苛付きを文字にしたメールを送っていないから、たぶん、この私の嫉妬心(しっとしん)にあいつは気付いていないと思う。

 これを其の儘にあいつへ投げ付けたら、あいつは絶対に悲しみ、きっぱりと私の前から消えてくれるだろう。

 私を動揺(どうよう)させて不安で苛立たせる全ての原因は自分だと、はっきりとあいつが自覚してくれれば、飛蚊症(ひぶんしょう)のような異物が私の視界から消えて、スッキリした私の世界は眩(まぶ)しいくらいに明るくなってくれる……筈だ。

(……でも、それは違う! それだと、今の私より遥(はる)かに矮小な私になってしまう!)

 蹴り付けるのとは、真逆(まぎゃく)だ!

     *

 私のあいつへの態度と物言(ものい)いを変えるつもりは無い!

 何も言葉や文にしないけれど、あいつの優(やさ)しさには気付いていて、時々、『ええっ?』、『なんで?』と思い込みのプレッシャーに負けそうになる私は、朝のバスで衝動的(しょうどうてき)に何度も見上げて顔をあいつに向けそうになっていた。

 通学しない夏休みの間や土日の登校する時間帯には、当然の如(ごと)く朝御飯にも起きずにスカピーと熟睡(じゅくすい)していて、揺(ゆ)り起こされるか、御昼近くになって自然と起きるまでは気持良く寝ている。

 目が覚(さ)めると、いつも目覚めの微睡(まどろみ)にリアルな夢見(ゆめみ)の心地良さが残っていて、その非現実感が好きだった。

 良くバスの中で、現実の朝の通学バスの中の様に、シートに座る私の横にあいつが立っている夢を見ていた。

 カーブや交差点を曲がるバスの揺れに合わせて、あいつの足の上にバッグを落としたり、右肘(みぎひじ)であいつの太腿(ふともも)を小突(こづ)いたりして、顔を私へ向けさせるように仕向けて『お早う♪』と笑顔で挨拶を交わす、そんな仕様(しよう)も無い夢ばかりを見ていた。

 ジレンマの解消(かいしょう)と願望を叶(かな)えたみたいな本当に仕様も無い夢だったけれど、夢を見た日は、夢見の微睡から深夜に心地良く就寝(しゅうしん)するまで、気持ちが軽くて一日中楽しくいられた。

 夢を見れなかったり、うろ覚(おぼ)えだったりした朝が続くと、何だか寂しくなって、衝動的にあいつの家の前まで行ってみた事が有る。

 フラりと行って、実際にあいつと出逢う事は無かったけれど、何度か素通りしていた。

 でも、そんな衝動的な行動をしていたのは、あいつに恋焦がれていたからじゃない!

 あいつへ好意を持っていないと言えば嘘(うそ)になるけれど、その『好き』は『恋』や『愛』じゃないと私は思いたい。

 素直じゃない私は、いい加減に付き纏うあいつとの想いを清算(せいさん)しようと考えていた。

 でも、清算はあいつを消してしまうという意味じゃない。

 あいつからのメールが来なくなれば……、あいつが私の横に立たなければ……、この胸の息苦しいプレッシャーは無くなるのだろうか……?

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 世の中のあらゆるコミュニティには必(かなら)ず、些細(ささい)な失敗や失言(しつげん)を執拗(しつよう)にカラかって責め立てる揚(あ)げ足取りや、何でも彼(か)んでも反対する天邪鬼(あまのじゃく)や、ニヒルというかヒール役みたいな意味も無く悪ぶる人が一定数存在する。

 これは知的生物の社会的な節理(せつり)なのだろうと、私は考えているが、私もその一人(ひとり)かも知れない。

 学校では、朝に訊(き)かれた問いに『白よ』と答えて、同じ問いを訊かれた御昼(おひる)には『黒ね』と答えを変えてあげる。

 放課後には『白だわ』と言い、就寝(しゅうしん)前の真夜中のグループチャットへは『やはり黒でしょう』と送り、本日繰り返された同じ問いに二転三転と真逆のような答えを、どうでもよいような問いには、どうでも良いとばかりに、思い違いや考えが変わったフリをしてワザと反対に言ってあげる。

 それは自分が答えた後の皆(みんな)の反応を見て答えの訂正(ていせい)をしているみたいで、嘘偽(うそいつわ)りの答えを鬱陶しいとばかりに平気でしている。

 皆の顔色を窺い、皆の大半を占(し)める大勢が望(のぞ)む、面倒な皆が納得(なっとく)するような、そんな答えを私はさり気無く言ってあげている。

 しかし私は、皆が言っていない少数派の意見も、ワザと言って反対されて潰(つぶ)されるような真似(まね)もしてあげている。

(こういうのを繰り返せば、その内に誰かが気付いて、呆(あき)れた皆は私を気に掛けなってくれるでしょう)

 怠惰(たいだ)、狡猾(こうかつ)、敏捷(びんしょう)、厚顔無恥(こうがんむち)の女子や男子が今も私の近くに集(つど)いで、全く重みの無い話題で騒々(そうぞう)しく盛(も)り上がっている。

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 過去を振り返ると憂鬱(ゆううつ)な恥ずかしさの後悔(こうかい)だらけ、未来を考えれば、まだ何も描(えが)けていない不安の絶望(ぜつぼう)しかない

(こんな不安と不満と鬱積(うっせき)は、あいつの所為じゃない! 全然違う!

 現実の生活と勉学は不満ばかりで鬱(うつ)になりそうと思うけれど、本当は人生を投げ捨てたりするような、人間を辞めるほどの大問題は一つも無く、たぶん、自分を取り巻く日常の環境に『こいつだ!』と特定できる事が無いのが不満の原因だと思う。

 日常の不安なんて、知らず知らずに蝕(むしば)まれる病気に、突発的な事故や事件に遭(あ)っての怪我(けが)や死亡への無力さと、そんな事を思い描いてしまう自分の空虚(くうきょ)な思考で、こんな止(と)め処(ど)も無い事ばかりと考えてしまう自分が厭(いや)になって来ている。

 こんな悩(なや)みでも家族に相談すれば当然親身(しんみ)になって心配してくれて、道を示(しめ)して光を差し込ませてくれるだろう。

 でも、衝動的に自(みずか)ら人生を終わらせないかと、心配されるのが続きそうだから、敢(あ)えて相談したくはない。

(あいつ……、あいつなら……)

 こんなくだらない悩みをひっくるめて私を抱き締(し)めてくれるはずだと思っているけれど、その時点で『面倒臭(めんどうくさ)い女』だとソッポを向かれそうな不安が有った。

(でも、あいつなら……きっと……)

 不安に苛(さいな)まれると、いつも脳裏(のうり)に浮かんで来るのは私を見ようとするあいつの顔で、思い出すのは中学校の卒業式の日に聞こえたあいつの声だった。

     *

 ノイローゼ気味になった時の在り来たりな言葉だと思っていた『人間、辞めちゃおうかな』が家の玄関を出た瞬間に頭を過(よぎ)った。

 その言葉が呪文(じゅもん)や祈(いの)りの文句(もんく)のように頭の中で繰り返され、周(まわ)りの景色が殆(ほとん)ど視界に入らぬままに、毎朝繰り返す惰性(だせい)の無意識さでバスに乗り込んでいつもの降車口前のシートに座った……というか、気が付いたら座っていた。

(なに……? 今朝(けさ)の私は、変だわ?)

 そう思う私は背を丸めてバックを胸に抱え込んで俯(うつむ)き加減(かげん)にしている。

(人間を辞(や)めるには、どうするんだっけ?)

 この人間をというのは自分の事で、辞めたら暗黒の無に至るって事になるのかも知れないが、そんなのは納得できないので、今の自分とは違う新(あら)たな何かへの転生(てんせい)をと考え、そうなる事を望んだ。

(やっぱり人間を辞めて自分を此(こ)の世界から無くすのは、死ぬって事なんだよなぁ。死んで奈落(ならく)に落ちてから、現在、過去、未来の何処(どこ)かへ輪廻(りんね)転生するのだろうけれど、今の私も、死んでしまった私も、転生した私も、それを知る事はできないし、その記憶も無いんだろうなぁ。……知る事が無いのは、真の闇で無になってしまうのと同じね)

 なんて自問自答(じもんじとう)していたら、いつの間にか乗り継(つ)ぎのバス停に着いてしまった。

 急(いそ)いで席を立ち、降(お)りようとしたら真横に立っていた人に当たってしまい、『あっ! ごめんなさい』と謝(あやま)りながら、直(す)ぐにその人の降車口に近い左脇へと抜(ぬ)けようとした。

 すると、その人は少し左へズレて私の動きを塞(ふさ)ぐように邪魔(じゃま)をする。

 降車する人達が次々と降車口から車外へ出て行く。

 焦(あせ)った私は邪魔をする人に顔を向けてキッと睨(にら)みつけてやったら、驚(おどろ)いた事にそいつはあいつで、『はあっ?』となってしまった。

 『どうして』と思いながらも『そうだった、いつも此処(ここ)に、こいつは立っていたんだ!』と、不思議(ふしぎ)な感覚を実感で上書きした。

(くっそぉー! 邪魔すんなぁ! どきなさいよ!)

 眦(まなじり)に力を込めて、強くあいつを睨んで遣った。

「此処で降りまーす」

「すみません、通して下さい」

 叫(さけ)ぶように大きな声で言いながら、あいつの脇(わき)を擦(す)り抜けて急いで降車した。

 バス停周りの見慣(みな)れた風景に聞き慣れた喧噪(けんそう)、吸い込む空気と頬を撫(な)でて行く風の匂(にお)い。

 向かい側の乗り継ぐバスが来るバス停へ向かいながら、私はバスの中の鬱から解放されている自分に気が付いた。

 乗り継ぎのバスの中では、いつもいっしょになるクラスメートと明るく話し、いつものようにいっしょに登校した。

(落ち込んで自分を見失(みうしな)っていた私を戻(もど)してくれたにのはあいつだ! あいつは……、様子のおかしい私に気付いていたのかも知れない……)

 バスを降りて友達と笑顔で語(かた)りながら校舎への最終アプローチの遅刻坂(ちこくざか)に来た時、私は気付いた。

(あっ! なぜ、ここにいるの?)

 あいつが向こうの路地の角にいて、隠(かく)れもせずに私を観察するようにマジマジと見ていた。

(どうやって、ここへ? さては、私の後から降りてタクシーで先回(さきまわ)りしたなぁ)

 私に気付かれたのを知っても、あいつは私を見続けて、今朝の私の異常具合を診断(しんだん)している。

(やはり、あいつはいつもと違(ちが)う私に気付いていたんだ……)

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 通学靴を下足箱に収(おさ)めて内履(うちば)きに履(は)き終えた時、スマホがメールの着信で震(ふる)えた。

 『誰(だれ)からだろう?』と思いながらスマホの画面を確認すると送信元は、あいつだった。

(まさか、校舎の敷地内まで入って来て、『正面玄関前で待っているから出て来い』なんて内容じゃないでしょうね)

 教室へ向かう途中、女子トイレに入った私は、あいつからのメールを読んだ。

【もし君が、望みを抱けなくなっていて、もうこれ以上は進めないと感じているなら、そして、幸(しあわ)せが幻(まぼろし)に見えていて、この先の人生が無茶苦茶(むちゃくちゃ)になりそうで、君の世界が足許(あしもと)から崩(くず)れ落ちそうに思えるのなら、君は僕に向かって手を伸(の)ばすんだ!】

(なに……、これって……)

 膝(ひざ)がプルプルと震えて立っていられなくなった私は、蓋(ふた)を閉じた便座の上に座った。

【いつもの朝のバスの中なら、右手を斜(なな)め上に出してくれるだけでいいんだ。そうしたら僕は君をしっかりと掴(つか)んで絶対に離しはしない! 離れていても、君の居場所の目印(めじるし)を知らせてくれるなら、直ぐに僕は其処を探(さが)し出して駆(か)けつけるよ】

(気付かれていた!)

 姑息(こそく)にも毎朝、あいつは私を鋭(するど)く観察していたんだ。

 私の表情、視線、肌の荒(あ)れや色、髪(かみ)の寝癖(ねぐせ)、制服の皺(しわ)や着こなし、姿勢、肩と襟(えり)に着くフケ、手の爪の長さまでも細かく毎日の変化の善し悪しをを確認していたんだ。

(きっ、気持ち悪い! ……でも、今更(いまさら)ぁ? いやいや、あいつがキモいのは、ずっと前からだ!)

 あいつから掛けられた初めての言葉は、キモさを感じた『どうして四角(しかく)い爪(つめ)?』だったはず!

 今の爪の形は、角(かど)に丸みが出て来ているけれど、まだまだ納得できるような女性的な爪の形にはなっていない。

 あの頃からずっと、あいつは私を探して観察して、何度も『好きです』って告白して来ている。

 そして私は、其の度(たび)に『ごめんなさい』、『嫌です!』、『私は好きじゃないです!』と、断(ことわ)り続けている。

 それでも無害な空気感を装(よそお)うあいつは私の近くにいて、衝撃的な感動で私の心を何度も揺さぶってくれていた。

(なんてタイムリーなの! この微妙(びみょう)な心の持ちようの負(ふ)の変化に、あいつは気付いたんだ!)

【授業中の教室の片隅(かたすみ)で蹲(うずくま)っていでも、目が眩(くら)む孤高(ここう)の断崖の先端でも、吹き荒れる強い風の中でも、真(ま)っ暗(くら)な闇の中でも、大海原(おおうなばら)の泡立(あわだ)つ波間(なみま)でも、真(ま)っ白(しろ)な吹雪(ふぶき)の中でも、僕は必ず手を伸ばす君を見付け出して抱き締めに行くんだ。君を守って、君を支(ささ)える為に、僕は君の目の前に立って、最後まで君の盾(たて)となって、君を助けるんだ!】

 ストレートに私を助けると綴(つづ)って来るあいつはキモいけれど、またしても私の心は揺さぶられていた。

 鼓動(こどう)が速くなって、胸がドキドキしている。

【君が最善を尽(つ)くしても、尽くし足りなくて途方(とほう)に暮れる君が諦(あきら)めそうになった時、君の世界が冷たくなって行く感じがする時、君が独(ひと)りぼっちで彷徨(さまよ)っている時、君は僕へ手を伸ばすんだ】

 耳朶(みみたぶ)に、首筋に、そして額(ひたい)と目の下から頬に、カァーと熱さを感じて、私の顔は火照(ほて)っている。

【何かに怖(おそ)れて涙(なみだ)ぐむ瞳で見渡してみても、君は心の安らぎは見付けられない、そんな時は僕へ君の手を伸ばしてくれ! 君は僕に伸ばした手を、ただ振り返って見るだけでいいんだ。君の手を握(にぎ)る僕は君の心へ駆け付けているよ。何よりも君が大切だから、不安な心を慰(なぐさ)めて君の気持を楽にしてあげたい。うなだれている顔を上げて、君に全てを捧(ささ)げている僕を見て欲しい。いつでも僕は君の傍にいるから、いつだって僕を頼(たよ)ってくれればいいんだ。僕は、此処にいるよ】

(あいつぅ……)

 悪寒(おかん)がして、全身がゾクゾクしてしまう。 

 火照る顔に寒疣(さぶいぼ)が出た腕!

 読み終えた私はトイレから出て、始業のベルが鳴(な)り響(ひび)く廊下を教室へと急いだ。

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 教室に入ると仲(なか)の良い女子達が駆け寄って来て、『どうしたの? 顔が赤(あか)いわよ! 何処(どこ)か痛(いた)くて気分が悪いの?』、『保健室で寝てた方が良いよ』、『泣(な)くほど苦(くる)しいなら、早退(そうたい)して病院で診(み)て貰えば!』と、私を心配する言葉を彼女達は口にする。

 女子も、男子も、教室にいる皆(みんな)が私を見ていた。

(泣く? ……痛くて、苦しくて、泣いている? 私が……? 何処も痛くないし、気分も悪く無い。ただ視界が潤(うる)んで、鼻詰(はなづま)り気味で、少し息苦しいかな……、はっ! なぜ?)

 私は気付いた!

 皆が見ている自分の顔と、霞(かす)んで見え難(にく)いから目を擦(こす)り、鼻水が垂れそうだから鼻を啜(すす)って、少しボゥとしている自分の事なのに、私は全く意識していなくて気付いていなかった。

(あいつのメールを読んでから教室に来るまでに、知らず知らずに涙腺(るいせん)が緩(ゆる)んで紅潮(こうちょう)した頬に泪(なみだ)を流していたんだ! そして、今の私は霞(かすみ)に覆(おお)われたような頭で、状況と状態の詳細(しょうさい)が理解できないくらいに感動しているんだ!)

 『あっ、あ、あ!』、何か誤魔化(ごまか)して、この不自然な状況を繕(つくろ)うしかない。

 『どうしたの? また痛くなったの?』、これは勘違(かんちが)いされているのかも。

 私は小声で言う、『……そう、こんなに痛いのは……初(はじ)めて……、ううっ』、涙の原因は酷(ひど)い生理痛(せいりつう)にしてしまう。 

 既に女の子が始まっていて、予想される女の子のピークは今週の土日だったから、いつも通りのハードルなら軽く遣り過ごせるでしょう。

 金曜まで何気(なにげ)に普段通りのメランコリーを装えば、週明けの気分はスッキリしているはずだ。

【手を伸ばすんだ!】

 あいつのメールの一節(いっせつ)が浮かんで、再(ふたた)び緩む涙腺に涙を流しながら私は手を伸ばした。

 すると伸ばした手にしっかりと握られた感触が有って、『嘘! 誰(だれ)?』と見た相手は、涙越(なみだご)しに滲(にじ)んで見える女子だった……。

 『わかったわ! 保健室へ連(つ)れて行くわよ!』

 少しグッタリしたフリをする私は両脇から支(ささ)えられたまま、保健室へ連れて行かれてベッドに寝かされた。

 横の台には誰かが持って来ていたのか、未開封のペットボトル入りの水が、『ちゃんと、水分補給するんだぞ』と言って置きながら、私の額に手を当てて『うん、顔は紅(あか)いけれど、熱は無いようね』と安心された。

 『じゃあ、私達は教室に戻るからね。薬を飲んでも痛みと気持ち悪いのが治(おさ)まらなかったら、早退しろよ。無理すんなよ。お大事にね!』、そう言って行こうとする二人の顔は、『ありがとう。そうするわ』と感謝を伝(つた)えながら滲んで行き、また泣き出している自分に気付いた。

 『また泣いている! 泣く事じゃないよ。少しは治まって来たのでしょう? 大袈裟(おおげさ)だなあ』

 笑って手を振る二人の女子の滲んだ姿が保健室から出てドアを閉(し)めて行く。

 そうか、生理が始まったから情緒(じょうちょ)不安定な抑鬱(よくうつ)で、こんなに感受性(かんじゅせい)が高ぶっているんだと自分の精神状態を分析しなから、スマホを出して天使(てんし)の囁(ささや)きのようなあいつのメールを読み返した。

 横に手を伸ばすだけで、あいつは私の伸ばした手を掴んで次のバス停でいっしょに降りてくれるんだ。

 それから私の望む場所へ、例(たと)え其処が地上(ここ)に無い世界でも、あいつはいっしょに行ってくれるだろう。

 でも、手を伸ばした時点で私はもう、其処へ行くテンパった気持ちは萎(な)えていて、更(さら)にバスから降りて落ち着きながら穏(おだ)やかな気分になって行く私は、きっとあいつに縋(すが)り付いて、『抱き締めてよ』と願(ねが)ってしまうはずだ。

 教室の中でも、外出中でも、『今、私は手を伸ばしているよ』とメールを送るだけで、あいつは私の手を掴みに遣って来るだろう。

 そう思うだけで泪を流して安心する私がいて、実際に試(ため)してみたくなってしまうけれど、私に手を伸ばしてみる勇気(ゆうき)は無かった。

 黙(だま)って立っているあいつに、其処まで想(おも)われていると知っただけで、安らぐ私は大丈夫(だいじょうぶ)だ!

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 小さな足音が近付いて来て止まり、衣擦(きぬず)れの音が纏わり付きながら消えて、吊(つ)り革(かわ)を掴んだ軋(きし)み音が頭上から聞こえ、人の動きを追い掛ける風がいつものフレグランスを漂わせて、あいつが横に来てくれたのを感じた。

 私はポケットからスマホを取り出すと、画面に触(ふ)れて文字を打ち込んで行く。

 メール文が完成すると、ちゃんと意思が伝わる文に出来ているのを確認してから送信した。

 そして、車窓に映(うつ)るあいつの顔を見上げて、私を見ているあいつの目線に視線に合わせてやる。

(私は別に捻(ひね)くれているわけじゃない。素直で優しいんだぞ!)

 だから、昨日のあいつの行為とメッセージへ返信してやった。

【REACH OUT I,LL BE THERE……『手を伸ばせ、僕は其処にいる』……いいね! 偶然(ぐうぜん)でしょうが、1960年代にヒットしたオールディの曲の歌詞に似(に)てるわね。ノリの良いテンポの速い歌で、私は好きよ。歌詞の意味はね、愛する彼女へ『困ったら絶対に助けるから、俺(おれ)を頼ってくれ!』っていうの。……ありがとう。私は大丈夫だから】

     *

 何の関連性の無いあいつからの肉食系メールは、突然、何の前フリも無く授業中に届いた。

【ベーコンを生(なま)で食べますか?】

(なんだこれは⁈)

 意味深な質問だけど、怪(あや)しげな意味不明の質問は言った相手に質問仕返しする事にしている。

 質問は理解し易い明瞭な内容にして、答えを察する事ができるようにしなければならない。

【食べるよ。『加熱処理 生食可』や『加熱食肉製品』と表示されているのならね。で、これ何か意味が有んの?】

(もしかして性格占いなのだろうか? 今更、私の性格を知ろうなんて、呆(あき)れるわ)

【豚肉の加工品なら『生ハム』や『そのまま食べられるウインナーソーセージ』も同じでしょう。】

 私は肉食系で野性的なんだぞと言わんばかりに、生肉食いを追加して遣った。

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 私の問への返信は来なかったが、ふと、小学校の帰りに歩いていた一面の水田の中を真っ直ぐに通る畦道(あぜみち)を懐(なつ)かしく思い出した。

 春、耕(たがや)された田には、水が張られて苗(なえ)を植(う)えられた。

 夏、稲(いね)は青々(あおあお)として、ピンと背を伸ばすように育って行く。

 秋、稲は少し黄ばんで、膨(ふく)らんだ実を豊(ゆたか)に付けた穂(ほ)が御辞儀(おじぎ)をするように垂(た)れて、稲穂(いなほ)を戦(そよ)がす風の大地の広がりを感じさせる香(かお)りが、私を包んでいた。

 『今日の晩御飯は、炊(た)き立ての白い御飯で美味(おい)しく食べたいな』、そして『明日の朝食は半熟(はんじゅく)の目玉焼きとカリカリに焼いたベーコンにしよう』なんて、あいつのべーコンが私の食欲を刺激(しげき)してくれている。

     *

(奈落の縁(ふち)に立とうとした私を掴みとめて救(すく)ってくれたのは、あいつだ! そんな恩人(おんじん)を『あいつ』呼ばわりのままじゃ、私の気持ちに感謝が足りないよなぁ……)

 イメージチェンジで『……さん』、いやいや其処まで敬(うやま)うのは早過ぎでしょう。

 『……様(さま)』の様付けは、もっと有り得ないし、似合(にあ)わないし、全く懸(か)け離れた呼称(こしょう)だ!

 『……君(くん)』、クラスメートへの呼び掛けで、年齢的には合うのだけど、あいつの執拗(しつよう)さは『君付け』に相応(ふさわ)しくない。

 もっと親しみを込めた身近さの『あなた』や『彼』では、まだまだ私への救いが足りないと思う。

 それでいろいろ悩んだけれど、もっと私に感謝を積(つ)ませてくれるまで、『あいつ』のままにしておく事にする。


 つづく

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