第9話 真横の絶壁は守護の盾になってくれた!(私 高校3年生)想いのままに・女子編

 朝、いつもの時刻に、家から1番近い停留所が始発のバスに乗る。

 そして、私はいつもの運転席の反対側に有る、降車口前の最前列のシングル席へ座(すわ)った。

 この座席位置は交通事故で特に多く被害を受けて、人命を失(うしな)う確率も非常に高い。それが分かっていて此処(ここ)へ座るのは、それなりの理由が有った。

 それは、車体の最前部に在る降車口に最(もっと)も近くて降り易(やす)い事。

 発車時刻ギリギリでも、空席な事。

 シングルシートだから、他の乗客と肩や体が触(ふ)れ合わない事。

 それに、目の前がフロントウインドーなので、視界が開けて明るいから、カバンの中の探(さが)しモノを探すのに都合が良くて、気に入っていたからだ。

 いつも二(ふた)つ目のバス停であいつは乗車して来る。

 今日も、バス停で待っているのが、バスの大きなフロントガラス越しに見えて来た。

 耳に嵌(は)めたイヤホンの白いコードが、胸ポケットからだらりと長く垂(た)れ下がり、袖口(そでぐち)を二つに折(お)り返して腕まくりをした学生服は、開いた詰襟(つめえり)に第1ボタンを外(はず)し、左手には何も入れてなさそうなペッタンコにした革の学生鞄を怠(だる)そうに抱(かか)えて、右手は詰まらなそうにポケットに突っ込んでいる。

 そんな、いつものだらしない姿で、あいつはバス停に立っていた。

 バスが近付くと、あいつも私を見ているのが分かって、重なる視線が一瞬だけだけれど、二人(ふたり)を見詰(みつ)め合わせていた。

 この時、家や学校で嫌(いや)な事や、詰まらない思いや、些細(ささい)な悩みが有ると、直(す)ぐに視線を外して目を逸(そ)らす。

 あいつに心の中を読まれそうな気がして、私は目を逸らしてしまう。

(あいつも時々、先に目を逸らしたりするから、私と同じなのかも……? 眼(め)の光や姿勢(しせい)は、けっこう語(かた)るからね)

 今日のあいつは、目を逸らさずにバスへ乗り込み、フロアデッキを真っ直ぐに私の許(もと)へ遣(や)って来る。そして、何気に、当然の如(ごと)くとばかり、私の真横へ立つ。

 どんなにバスが立ち客で混(こ)み合っていても、無理矢理、人を掻(か)き分けて来て、あいつは必ず私の横に立ちに来る。

 それに、気遣(きづか)ってくれているのか、いつも先に降(お)りる私が降車し易いように、半歩ほど後ろへずれて立っていた。

 去年の秋、あいつに救(すく)われてから心の距離は少し近付いていると、私は感じているのに、互いのパーソナルスペースの交(まじ)わりは殆ど深まっていない。

 クリスマスも、年末も、お正月も、冬休みも、春休みも、そして高校3年生の晩春(ばんしゅん)の今も、あいつは私を救ってくれた時のような積極性を見せてはくれなかった。

 積極性よりも落ち着いている私に満足しているようで、敢(あ)えて距離を保(たも)ち、私を刺激(しげき)しないようにしている気がしている。

 あいつの方へ手を伸(の)ばせば、その手を握(にぎ)り、抱(だ)き寄せてくれると思うけれど、私も敢えてゼロ距離になる事を避(さ)けている。

(もしも、抱かれ心地(ごこち)が良くて、顔を埋(うず)めてしまったら、乱(みだ)れる心と日常に大学受験を間近(まぢか)にした高校3年の学業を今まで通りに行える自信が、私には無い!)

 あいつが、横にいる気配(けはい)と匂(にお)いだけで、なぜか、安心を感じてしまう私がいる。

(今日もこいつは、私を護(まも)っている気で、……いるのかな?)

 そう思うだけで、黙って立つだけの何も話し掛けて来ないあいつに、私は優(やさ)しい気持ちになれそうだった。

 私を護る、私だけのアイギスの楯(たて)……!

(そうなると、私はパラス・アテナだよね。その、ヴァージンゴッデスのイメージ、清純で勝手気儘(かってきまま)な私には、ぴったりかも。実際、ヴァージンだし)

 この楯が傍(そば)に有る限り、あらゆる災厄(さいやく)は、私に及(およ)ばない。外敵の攻撃を防(ふせ)いで、呪(のろ)いを跳(は)ね返す強靭(きょうじん)な魔除(まよ)け。

 何も語らずに私の真横で、静かな壁(かべ)になるだけの、私の大切なサイレント・シールド。

(でも、私はアテナじゃないし……、けれど……)

 戦闘力の無い私は……我(わ)が儘(まま)だから、無言でこいつに命じる。

(あんた、しっかり私を護りなさいよ!)

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 8月で18歳になってしまう私の身体(からだ)は、心や思考も含(ふく)めて、思春期の少女から青春期の女性へと変化して来ている。

 あいつを拒絶する自己中心的から、『あいつを見て、あいつを受け入れてみようか』へ、考えや行動が違って来ているのを、私は自覚(じかく)し始めていた。

 毎朝、あいつにジロジロと見られても良いように、シャンプーした髪をブローしてセットする。

 これまでのストレート一辺倒(いっぺんとう)から、目覚(めざ)めの気分と時間の余裕次第で、外や内へカールさせたり、ポニーテールにアップしたり、バサバサっと散(ち)らしたり。

 それで、今日は手間を掛ける時間が無ったから、全体を膨(ふく)らませてボブっぽく簡単に纏(まと)めてしまった。

 あまりしていなかった髪の生(は)え際(ぎわ)や産毛(うぶげ)の処理、眉毛(まゆげ)の形の整(ととの)えに鼻毛と耳毛、などなどのお顔の見繕(みつくろ)いは毎日欠(か)かさない。

 ただ、ニキビが現(あらわ)れ始めた頃、痒(かゆ)くて我慢(がまん)できずに掻(か)いた両頬が痘痕(あばた)になってしまい、焦(あせ)った私は皮膚科に通院して懸命(けんめい)に治療したのだけれど、以前の滑(なめ)らかな餅肌には戻(もど)っていない。

 メイクセットやアトマイザーも持ち歩くようになって、殆(ほとん)ど、分からない程度にファンディーションとリップはしているし、香水は梔子(くちなし)か、金木犀(きんもくせい)の香りを胸元(むなもと)に、ちょんと軽く一吹(ひとふ)きだけ。

 制服の襟や肩に埃(ほこり)やフケが付いていないように、綺麗(きれい)にブラシを掛け、後ろ姿もチェックしてから家を出る。

 あいつは、絶対に私のセミロングの後ろ髪を見ていると思う。

 冬の暗(くら)い朝や霙(みぞれ)のような雨の日は、車窓のガラスにあいつが映(うつ)る。

 あいつは吊り革を握(にぎ)り締(し)め、淡(あわ)く影になる顔の瞳(ひとみ)はガラスに映った私を見ている。

 そんな朝は、私は外を見る振りをして、ガラスの中のあいつを観察した。

 着崩(きくず)れた上着に寝癖(ねぐせ)が付いた髪形。

 怠くて眠いのか、それとも、不貞腐(ふてくさ)れているのか、そんな風に見れる中途半端(ちゅうとはんぱ)な表情。

 それに、虚(うつ)ろで定まらない目付き。

 時折(ときおり)、車内灯の反射に照らされる顔は、何を考えているのか分からなくて、少し、不気味(ぶきみ)な感じだけれど、嫌(きら)いじゃない。

 あいつと私は、ガラスに左右反対に映る顔で見詰め合う。

 ……リアルに、上から目線が気に入らないけれど、圧迫感が薄(うす)れた今は我慢(がまん)して遣っている。

 バスが大きく揺(ゆ)れる度(たび)に、頭に触れそうな、あいつの小脇に抱えているカバンは、裏側の隅角(すみかど)に太い掌(てのひら)サイズの白文字で、『ANTI・WAR』と、刻(きざ)み込まれていて、モラリストでも気取っているのだろうけれど、中途半端感が否(いな)めなくて、思想の甲斐性(かいしょう)も無い、擬(もど)きとしか思えない。

(似合(にあ)わねぇー。……反戦って、あんた反戦の意味、知ってんの?)

 目覚めの良い朝は、あいつのペッタンコの鞄を膝(ひざ)の上に置かせてあげて、持っている太い黒マジックペンで、『ANTI・WAR』を、塗(ぬ)り潰(つぶ)して遣ろうかと思うけれど、私もあいつへ声を掛けられない。

(膝の上に置いたバッグといっしょに、あんたの鞄も置いてあげようと、心では思うのに……)

 あいつの顔を見上げて、明るく話す自信が無いというか、掛ける言葉に迷(まよ)ってしまい、いつも、言う気が失(う)せてしまう。

 私は乗り換(か)えの為(ため)に、あいつよりも先に途中下車して、兼六園下(けんろくえんした)のバス停で降りる。

 たぶん、あいつは香林坊(こうりんぼう)か、武蔵が辻(むさしがつじ)でバスを乗り継(つ)ぐはずだ。

(あんた、私と同じバスで、学校に遅刻しないの? 何時始まりか、知らないけど、金石(かないわ)近くの畝田町(うねだまち)に在るから、あんたの学校の方が遠くて、時間が掛かるはずでしょう。実際、1年生の時に金石まで行ったけど、けっこう遠くて、疲れると思ったんだから)

 いつも、兼六園下でバスを降りて、2、3歩(に、さんぽ)進んでから上目(うわめ)で、あいつを見る。

 バスの広い窓ガラスの向こうに立つあいつは、顔を私に向けて、バスに乗車する時の仰(あお)ぎ見るのとは違い、私の心を見透(みす)かすように、上から目線で見ていた。

 あいつは立ったままで、目の前の、私が降りて空(あ)いてた席には座らない。

 やがて、バスは、降車口と乗車口を閉(し)めると、軽くクラクションを鳴らしてから発車して行く。

 バスが視界から消え去るまで、あいつを見ているけれど、あいつは座らない。

(せっかく空いたんだから、座ってよ。鞄は持って遣らなかったけど、私の体温でシートは温(あたた)かいよ)

 寒い季節には、優しさと暖(あたた)かさを求める気持ちにマジでそう思った。

 凍(こご)える朝は、人肌の温(ぬく)もりが恋しい。

(……人肌って、誰(だれ)のよ?)

 私が目を逸らした朝は、バスを降りても立ち止まらずに、向かい側のバス停へ急(いそ)ぐ。

 あいつが、目を逸らした朝は、バスを降りた私を見ていない。

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 バスは石引(いしびき)の通りに入り、小立野(こだつの)のバス停が近付いて来たので、減速しだした。

 突然、歩道を急ぎ歩く通勤・通学の人達の間隙(かんげき)を狙(ねら)ったように、左の小路から白いトラックが、バスの直前へ飛び出して来た。

 全(まった)く減速せずに目の前へ現(あらわ)れたトラックは、大きな白い脅威(きょうい)となって、超速で迫(せま)って来る。

 その、眼前に広がって行く、信じられない不吉な光景が、私を巻き込むのは確実で、もう避(さ)けられそうにない。

(あっ! だめ! ぶつかる!)

 予期しない災(わざわ)いから逃げようと、慌(あわ)てて気持ちは身構(みがま)えるけど、怯(おび)えて竦(すく)む体は、全然、動いてくれない。

 その時、黒い物が目の前を遮(さえぎ)って、フロントガラスいっぱいに迫った白いトラックが見えなくなった。

「きゃっ!」

 直後、急ブレーキが掛けられた激(はげ)しい制動で、私は浮(う)き上がり、黒い物体に勢(いきお)いよく突き当たった。

 それは、トラックとの衝突で、バスの前面が破壊されるのと同時だった。

 大きな破壊音が響(ひび)き渡り、ガラスの細(こま)かい破片(はへん)が辺(あた)りに飛び散り、其処(そこ)ら中から埃(ほこり)が舞い上がった。

 衝突の衝撃で、更(さら)に私は、黒い物体に押し付けられた。

(うっ! 痛(つう)……)

 バスが、衝突の反動に戻(もど)されて急停止すると、前に押し付けていた慣性が失われ、私は弾(はじ)き返されるように座席に戻された。

 急制動されたダンパーの振るえで揺れていたバスの動きと、振動が収まったのを見計(みはか)らって、そぉっと、衝撃で瞑(つむ)った瞼(まぶた)を開(あ)けると、其処に、あいつがいた!

 ……私の目の前に、あいつがいた?

(なに? ……なに?)

 座席をガードする前面の手摺(てす)りの向こうに、両手で手摺を握り締めて、あいつが立っている。

(なんで、こいつが……、前にいるの……?)

 あいつは、目を瞑ったままでいた。

 苦痛に耐(た)えているかのように、顔を歪(ゆが)めて目を閉(と)じていた。

(どうしたの? どこか痛い…… ああっ! そんな……)

 あいつの背後からは、大きな蜘蛛(くも)の巣(す)のようになったフロントガラスが、捩(ねじ)り曲がって被(かぶ)さるように迫っていた。

 そして、その向こう側にトラックの白い色が、張(は)り付いたみたいに見えて、私は私に何が起きたのか理解した。

(……私は、こいつにぶつかったんだ!)

 制服の胸の辺りに、薄っすらと肌色が付いている。

(……私のファンデーションだ!)

 ちょっと、震えるように体が揺れた後、あいつは、ゆっくりと目を開けて私を見た。

「だっ、大丈夫(だいじょうぶ)か……? ううっ」

 微笑(ほほえ)みながら、私を気遣う顔は苦痛に歪んでいく。

 拉(ひしゃ)げたフロントガラスと手摺りに、あいつは挟(はさ)まれているみたい。

(助けてくれたの? ……こいつが? ……そうなの、私を、護ってくれたんだ!)

 いつの間にか、カタカタと、私の体が震えている。

 息も、不規則に粗(あら)くなって来た……。

 床に何人もが、折(お)り重なって倒れて呻(うめ)いている。

 痛そうに顔を顰(しか)めて、腕を押えている人、たらたらと、頭から血が流れて泣いている人、私と運転席の間には、三(さん)、四人(よにん)が重なって、俯伏(うつぶ)せや蹲(うずくま)ったように倒れていて、運転手も、血が付いた手で顔を押えている。

 乗客の大半が怪我(けが)をしていた。だけど、私は彼が護ってくれたから、1番危険な場所にいるのに身体のどこにも痛みが無くて、怪我一つしていない。

 初めて遭遇(そうぐう)する切迫(せっぱく)した事態に、ドキドキと高鳴る胸が、息を苦しくさせて、ハア、ハアと、口を開けて肩を上下させる粗い呼吸の私を、あいつの問い掛けが、落ち着かせて震えも治(おさ)まって来る。

(……こいつに、守られていなければ……、私も……)

「私は…… 大丈夫。そっち……、あんた……、……あ、あなたこそ、大丈夫じゃないでしょう」

 私は立ち上がって、彼の状態を見た。

 罅割(ひびわ)れたフロントガラスが、倒れかける壁のように彼の背中に圧(の)し掛かっている。

 特に脇腹辺りが狭くなって、潰されているように見えた。

「血は、出ていないみたいだけど、どうなの? それ、痛くないの?」

 間抜(まぬ)けな質問だった。どう見ても、痛そう。

 背中を激しく打ち付けて、一瞬で、脇腹の厚みが半分以下になるくらいに挟まれているのに……。

 もしかして、内臓が破裂しているかも知れない。

 でも、彼は平静を装(よそお)っている。

「コン、ゴホッ、ゴホッ」

 吸(す)い込みと吐き出しのリズムが乱(みだ)れて、私は、緊迫(きんぱく)した状況と彼の悲壮(ひそう)な状態に胸が塞がれたように詰まり、乱れる息に咳(せ)き込んでしまう。

「ちょっと痛いかも……。いや、けっこう痛い……。でもこの痛みは、挟まれている外傷の感じだよ。動かなければ、痛みが和らいでいる。もし、内臓が潰れているのだったら、叫(さけ)んでいるか、意識が無くなっているかだね……。激痛だろうな……、たぶん。刺(さ)さっているのなら、熱い感じがするんだよ。その感じも無いよ」

 彼の言葉に、粗い呼吸で咳き込んでいた胸が一杯になった。

 予期しない死線に触れる緊迫に、彼の自己犠牲で得られた安堵(あんど)、守護(しゅご)への慈(いつく)しみ。

 そして、本当にアイギスの楯(たて)になってくれた彼を喪失(そうしつ)してしまいそうな不安。

 状況と状態の理解が、視覚と言葉に追い付かなくて、私はもう泣きそう!

「だっらぁー! そんな状態で、なに、呑気(のんき)に痛みの分析してんのよ。横にずれて、抜(ぬ)け出せないの?」

 辛さを押し殺し、息を整えてから私は、彼に怒鳴(どな)るように言った。

「抜け出そうとしているんだけど、なんか、筋(すじ)や内臓が潰れそうな感じで、無理っぽい」

 とっさに、彼が盾になってくれていなければ、私は大怪我か、より、深刻(しんこく)な状態になっていたはずだ。

 彼も、私も、圧壊(あっかい)するフロントガラスに激しくぶつかって、頭から血を流して、ぐったりと床に倒れていたり、フロントガラスを割って、車外に放り出されていたりしたら、頭蓋骨(ずがいこつ)骨折(こっせつ)の意識不明の重態で、ぐんなりする私を、顔中の裂傷(れっしょう)に血だらけの彼が抱(だ)きかかえて、助けを求めていたかも知れない。

 ……少し想像しただけで、ゾッとしてしまう。

「あとね、頭の後ろを、ぶつけたみたいで、痛いんだ。どうなっているか、ちょっと、見てくれるかな。割れたり、陥没(かんぼつ)はしていないと思うけど」

 さらりと、不安を加速させる事を言われた。

 脇腹の傷が、見た目ほどじゃないと思った後だけに、凄く心配になってしまう。

 同時に、『これは、厄介な事になりそうだ』と思った。

 朝の出勤時間に、路線バスと暴走トラックが衝突、重軽傷者多数……。

 これでもう、地方ニュースのトップは確定だ。

 いつもの彼なら黙って言わないか、慎重に言葉を選ぶと思うけれど、怪我でテンションが上がっているから、インタビューされてしまうと事故当時の状況を、馬鹿正直(ばかしょうじき)にベラベラと話してヒーローさをアピールしてしまうかも知れない。

『気がついたら、彼女の前にいました。僕の体なんて、大事な彼女が無事なら、どうなってもいいんです』なんて語って、『命を懸(か)けて、彼は大切な人を護った』とか、『彼の無意識な行動が、彼女を救う』みたいなタイトルの美談が、インターネットでワールドワイドのラブリーなオープンソースにでもされたりしたら、堪(たま)ったもんじゃない。

(違う! そんな、自分の御都合主義なんかに拘(こだわ)っている場合じゃない! 彼は、私を護ってくれた恩人なのよ! 昨年の秋にも、間違った自由へ飛ぼうとした私を救ってくれたじゃないの!)

 そう、今は、私の我が儘を押し付けるべきじゃない。

 目立ってしまう事よりも、恥ずかしく感じる事よりも、素性が晒(さら)される事よりも、彼の頭の怪我が心配で、脳へのダメージが無いようにと祈っていた。

「ちょっと、俯いてみて」

 『してみて』と、行動をうながしたのに、『ちょっと』の言葉のままの通り、少ししか傾(かたむ)かない頭が私を苛(いら)だたせてくれたけれど、脇腹が苦痛で身体を傾けられないんだと思い直(なお)してあげる。

 彼の乱れた髪に触れながら、真後ろから被さる罅割(ひびわ)れたフロントガラスに、10センチメートルほどの直径で丸く凹(へこ)む、彼の頭部の衝突した痕(あと)が有った。

 放射状に入る幾筋もの罅で細(こま)かく割れて、彼の髪の毛が何本も附着している。

「あたっ! ううっ、……痛いから。そんなに強く触(さわ)るのは、無しにして欲(ほ)しいな? んで、傷……、酷(ひど)い?」

(ちっとは、我慢しろっちゅうの! うん? こいつは、こんなにしゃべる奴だっけ?)

 これまで、まともに話した事なんて無くて、口数が少ない奴だと思い込んでいただけに、予想外のフレンドリーな喋(しゃべ)りが、後頭部を打ち付けた所為(せい)かもと不安になった。

 だけど、メール文字の会話しか私が知らないだけで、普段は軽口をよく言う奴なんだと思う。

 触るのが気持ち良くて止(や)められないくらいの、モフモフでフワフワした彼の髪を掻き分けている自分の指先を見ながら、『そんなに痛いの?』って、弱々しく頭を振って私の手を避けようとする痛がり方が不安にさせた

 それでも外皮の弄(いじ)くりを痛がるだけで、脳は無事だと思いたい。

 ……鬱陶(うっとう)しいと思っていた。

 バス停にいるのを見て、乗り込む気配と近付く靴音が聞こえ、すぅーっと真横に立たれると、『また来やがった』なんて、心で悪態を吐(つ)きながら下唇を噛(か)む。

 それなのに唇の端は持ち上がって、笑窪(えくぼ)を作ってしまうのを自覚していた。

 朝のバス停に彼がいないと、『今日はどうしたのだろう。病気か、怪我でも…… した?』などと、つい心配してしまう。

 彼の頭には、触った指先に血の附くような傷は無かったけれど、代わりに大きなタンコブができていた。

 全身の震えが治まった私とは反対に、彼の顔色から血の気が失せて、白く真っ青(まっさお)になっている。

 もし、脳内出血でもしていたらと、そんな、不安を払拭(ふっしょく)させて安心を得たい気持ちの焦(あせ)りが、彼へ訊(き)いてみさせた。

「頭痛がしたり、頭の中から、小さな、変な音が聞こえたり、首が痛かったりしてる?」

 そして、後悔していた……。

(今朝、このバスに走ってまでして、間に合わせようとしていなかったら……、道路を横断しながら、バス停で乗降を終えようとしていたバスに、駆け寄りながら、乗る意思を示さなかったら……、寝坊していたり、途中で転(ころ)んでいたりしていたら、このバスに、全然、間に合わなくて、乗れていなかったなら……、私が、バスに乗っていなかったら……、彼は、空席の最前列の座席を見て、毎朝の場所へは行かずに、もっと、車体中央の乗車口辺りに立って、何度も、私が乗っていないか、見回していたに決まってる。だから、この事故が起きても、彼の事だから、たぶん、軽い怪我で済(す)んでいたと思う。少なくとも、今の、こんな辛い事態にはなっていない!)

「してない。ぶつけたとこが、痛いだけ」

(ああっ、神様!)

 私は焦っていた。

 一刻(いっこく)も早く彼を診察して貰わないと、……2度と会えなくなってしまうかも知れない。

 普段は神様なんて信じてはいない。

 精々(せいぜい)、初詣(はつもうで)の神社で、身上の願いの成就と家族の末永い幸せを願うくらいだ。

 罰当たりで御都合的な困(こま)った時の神頼みだという事は知っているけれど、今は神様に祈らずにはいられない……。

(どうか、この人を助けてあげて下さい。大(たい)した怪我じゃなくて、元通りの、元気な身体になりますように…… 御願いします)

「気持ち悪い?」

 有り得ないくらい、彼に近付いて、心配して、話しかけていて、彼の為に神様に御願いまでしている自分が信じられない。

 なのに、心の中で『神様』を唱(とな)え続けながら、私は彼に訊いてしまう。

「この状態に、クラクラしてる」

 そう言って、私から目を逸らした青白い顔は、痛みを我慢する中に嬉(うれ)しそうなヘラヘラ顔が滲(にじ)んでいて、……ムカついた。

(この状態って、フロントガラスを凹ませるほどに、ぶつけた頭の痛みでもなく、何かが喰い込んでいる脇腹の痛みでも、潰れたバスの前面に挟まれて、身動きができないのでもなく、私が傍にいる所為で、クラクラしてるって言うの? こいつぅ、ざけんなよ!)

 私が、凄(すご)く心配して超真剣に訊いているのに、このシリアスな状況を和(なご)ませようとしてるのか、そして、見た目よりも至(いた)って平気で、元気だとアピールしたいのだろうか?

 彼のおふざけ言葉の回答に、心配しているのが馬鹿莫迦(ばかばか)しくなって、怒(いか)りを発現させて遣りたい。

「真面目(まじめ)に、答えて!」

 怒りを放つ語気で、ぴしゃりと叱(しか)りつけてみる。

「ごめん、吐き気はしてないし、視界が暗くなったりもしてないよ」

 言葉尻(ことばじり)を捻(ひね)くれさすような抵抗もせずに謝(あやま)って来る素直(すなお)さが、私に好感を抱(いだ)かせてくれた。

 たぶん、頭の中が出血しているとすれば、……止(と)まらないと、直ぐに、昏睡に陥(おちい)ってしまうだろう。

 そして、2度と目を覚(さ)まさなくなったら……。

(ブルッ、ぞっとしちゃうわ)

 彼のもしもを考えると、身震いがしてクラクラしてまう。

「眠い?」

(どうか……、疲れたから、眠いとか、昨夜(ゆうべ)は遅かったから、眠いのかなとか、意識を失う予兆(よちょう)のような事は、言わないで……)

「いや、眠くなるどころじゃないし。ねぇ、頭はどうなってる?」

 彼の言う通り、少しも眠そうに見えなくて『良かった』と安心できるのかも知れないけれど、気が動転してテンションの上がっている今は、体内圧力や細胞密度の変化で患部の崩壊(ほうかい)を防いで、損傷の広がりを抑(おさ)えている状態だけかも知れないから要注意だ。

「大きな……、タンコブができてる。切れていないし、血も出て無い。凹んでもいないよ」

 簡潔に問い、簡潔に答える。

 悪い方への心配ばかりで、優しさを挿(はさ)めない。

「話してて、意識は飛んでいない? 本当に、眠くなっていないの?」

 私はしつこいくらいに、僅(わず)かでも、不安が確信に変わる兆候(ちょうこう)を探(さぐ)り続ける。

「大丈夫! 気を失うなんて、勿体無(もったいな)いだろ!」

 彼のジョークを皮肉る余裕も無く、もう1度、彼のタンコブに触れて遣る。

 『痛い』と、聞こえてくるけど、今度はしっかり触ってみた。

 タンコブの盛り上がりは、硬くてプニョプニョしていないし、触っていても、大きく広がって行きそうな感じはしない。

 モフモフの髪を掻き分けて、周りも探るけれど、タンコブ以外に傷は無くて、触れても痛がらないし、指先にも血は着かなかった。

 ついでに項(うなじ)から首筋へも、触ってみたけれど、耳や鼻からの出血はしていないし、痛がる素振りも無し。それに、覗き込んだ彼の瞳は、しっかりと私を見詰めていて、揺れたり、白目を剥(む)いたりするような動きは無かった。

 見詰め返されるのは恥ずかしいのに、……触れるゼロ距離のパーソナルスペースで、異常な興奮を見せない彼は、脳内の異常も無いと思う……。

 その落ち着く冷静さと、ジョークを放つ態度が腹立たしい!

 捻りが無いけれど、意味が通じるジョークだし、話すトーンと発音も普通で、呂律(ろれつ)も回っていて、ちゃんとしっかりしているから、ラリったりはしていなかった。

「ふっ」

 馬鹿馬鹿しくて詰(つ)まらないジョークに呆(あき)れて、鼻で笑ってしまう。

 たぶん、今のこいつの……、いや、彼のイタい頭の中は、お花畑になっている。

 きっと自分が、ホワイトドラゴンに強襲されて為(な)す術(すべ)の無い無防備な窮地(きゅうち)から、憧(あこが)れのプリンセスを守り通したヒーローの白か、黒の騎士のようだと思っているはずだ。

 確かに、捧(ささ)げてくれた誓(ちか)いの忠誠を感謝するかのように、私は、目の前にいる男の子の髪を撫(な)でながら肩に手を置いていた。

 ……描(えが)いた絵の構図と色彩、それに、綴(つづ)った作文の内容が殆ど一致するのなら、それは、価値観を共有できる気の合う相手で、しっくりした御付き合いができちゃうなんて、そんな愚(おろ)かで、歪(ひず)んだ思い込みを私はしない。

 もし、殆どでなくて大体でも、考えや行動や好(この)みが一致する価値観が同じって相手なんか、自分みたくて全然、面白(おもしろ)みも無いし、それに気色が悪い。

 そもそも、自分とは違うから、魅力を感じるのだと思う。

 それは、時々しか意気投合しないのに惹(ひ)かれるくらいが、もっと、相手を知って好きになりたいし、好きになって欲しいと、努力しちゃいそうだ。

 だけど今、彼は死神(デス)を撃退してくれた私のヒーローでプリンスだ!

 そして、か弱い私は彼に救われたプリンセス!

 だから彼のヘブンな想いへ、私はシンクロしてあげてもいい。

(お願いだから、あんた、しっかりしてよ。頭ん中、大丈夫だよねぇ)

 たぶん、脳への損傷は無いだろうけれど、万が一も有るし、見た目だけじゃ判らない。

 私のような素人(しろうと)判断は、危険だと思う。

(一刻(いっこく)も早く、彼を助け出して、検査して貰わないと……、ああ、誰か……)


つづく

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