第19話 志望校に合格したら記念に出刃包丁をあげるね(私 高校3年生)想いのままに・女子編
自由参加のはずの授業開始前の自習には、既(すで)に、春からクラスの大半(たいはん)が来ていて、夏休みが終われば半強制の全員出席のムードになる。
参加しない生徒は異端(いたん)な者というか、みんなの和(わ)を乱(みだ)す非協力者というか、ハミられて村八分(むらはちぶ)にされる罪人(ざいにん)のように扱(あつ)われて、学校行事や提出書類などの必要(ひつよう)な連絡事項の情報は、其(そ)の場に居(い)ないと何も知らされなくなってしまう。
勿論、クラス内で村八分にする先導者(せんどうしゃ)は担任(たんにん)先生で、背後には学年主任(しゅにん)先生、教頭(きょうとう)先生、校長先生、教育委員会が教育方針の全体主義を翳(かざ)しながら後押(あとお)ししている!
「大学受験は、……大変だな」
彼が言う『大変だ』は、上級学業へ進学する為(ため)の必須(ひっす)課程(かてい)のような、普通高校に蔓延(はびこ)る受験至上(しじょう)主義の渦中(かちゅう)にいる私への同情(どうじょう)なのだろうか?
クラスの担任や学年主任に教育指導の先生方々(かたがた)は、『なぜ、参加しないんだ?』、『みんなで頑張(がんば)るんだ』なんて常套句(じょうとうく)を繰(く)り返(かえ)して、みんなの為にならない悪(わる)い奴(やつ)として疎外(そがい)を産(う)み、進学に関(かん)しても、『勝手(かって)に受験しろ』と、非協力的になってしまうのだろうけれど、それは、進学目的の普通高校の異常(いじょう)を異常と思わせないシステムの所為(せい)だから、仕方(しかた)が無いと考えている。
懸命(けんめい)な努力(どりょく)のベクトルを揃(そろ)える生徒達の受験は、学校の為に行われている。
「あっ、 ごめん! 他人事(たにんごと)のように言ってしまった。ごめん」
(そう、他人事で正解(せいかい)よ。応援(おうえん)や労(ねぎら)いは欲(ほ)しいと思うけれど、試験の合否(ごうひ)なんて、所詮(しょせん)は個人(こじん)の意識と努力の結果。結局(けっきょく)、自分次第(しだい)ってことね。だから個人の……、『一人(ひとり)、独(ひと)りの戦(たたか)いだ』は有りだけど、『みんな、いっしょに頑張(がんば)ろう』は、やめて!)
「いいよ。気にしないよ。受験するのは私で、……あなたじゃないから。私の気持ち的にはね、そんな受験が全(すべ)ての毎日に抗(あらが)ってみたいの。それでどうなるって訳(わけ)じゃないのにね。抗うくらいなら、進学校へ来(く)るなと言われそうだけど、受験は嫌(いや)じゃないのよ。逃(に)げたり、さぼったりしたツケは、自分に来るだけなのにね……」
(何がしたいんだろうな……、私)
受験しようとしている大学の専攻(せんこう)は医療技術系(いりょうぎじゅつけい)で、ネット資料のカリキュラムを見る限(かぎ)り、現場レベルの実習や座学(ざがく)が多いみたいだから、入学しても余(あま)り御気楽(おきらく)になれないと思う。
私は進路を決めた事も、彼に話す。
「私は、相模原(さがみはら)の大学へ行くわ」
シルバーウィークには、キャンパスや周辺の環境や間借(まが)りする住まいの下見(したみ)に行くつもり。
「サガミ……? ハラ……?」
やっぱり彼は、その地名を知らない。
「神奈川県(かながわけん)の相模原市よ。出刃包丁(でばぼうちょう)で有名な所みたい。来月下見(したみ)に行くから、お土産(みやげ)に買って来てあげようか?」
私は出刃包丁を売っている場所も、本当に売っているのか、どうかも知らないのに、適当(てきとう)な事を言っている。
「いらない。買って来(こ)なくてもいいよ」
調(しら)べてもいない根拠(こんきょ)の無い出刃包丁話(ばな)しを冗談として聞き流して、折角(せっかく)、私が『買って来る』と言ってるから、冗談で『欲しい!』とでも返してくれば良いのにな。
(まったくぅ、彼は真面目(まじめ)に答えてくれるわ)
何かで聴(き)いた歌のフレーズで、『あした相模原まで、出刃包丁買いに行こ』って言ったので、知っただけ。
(その歌詞(かし)の中の彼女はね。洗濯(せんたく)が大好きだから、彼氏の頭ん中まで洗(あら)っちゃうんだ。口から火を吹(ふ)くほど彼氏の事も大好きで、いつも彼氏に迫(せま)ってあげるのに、彼女が爆睡(ばくすい)してるところを、彼氏が出刃包丁で刺(さ)そうとするの。それって酷(ひど)いよね。あなたは、そんなことをしないでよ……。っていうか、この先、あなたの傍(かたわ)らで眠(ねむ)りこけるなんて、いつになるのかなあ~)
「其処の医療工学科にいって、臨床工学(りんしょうこうがく)技士になるの。ちょっとレベル高いから、もっと勉強しなくちゃね」
話しながら掌(てのひら)で砂浜を均(なら)して指先で、『相模原』、『医療工学科』、『臨床工学技士』、『出刃包丁』と書いた。
彼は地名は理解(りかい)したようだけど、砂に書いた残り二(ふた)つの文字を指差(ゆびさ)しながら顔を傾(かし)ける。
「うう……、その学科と技師は……何するの?」
(でしょう? 医療関係を専攻(せんこう)したくて、だけど、医学部なんて自信も無いし、学力的にも無理(むり)だし、先月に大学の資料を捜(さが)していて目にしたの。私も初(はじ)めて知ったんだ。そして、これだと思ったの)
聞(き)きながら彼は、差し示した指で、『出刃包丁』の文字を掃(はら)い消(け)した。
(刺すか、刺されるか、なんてね。ジョークだったに、不吉(ふきつ)と思われちゃったな)
彼の問いに、私は資料内容を思い出しながら、私の回すべき自分の人生の車輪(しゃりん)と、轍(わだち)を付けるべき将来の道を、見定(みさだ)め直(なお)すように説明した。
「人工臓器(ぞうき)や、生体(せいたい)材料や、生命維持(いじ)装置など。まあ、医療機器全般(ぜんぱん)の取り扱(あつか)いかな。国家試験を受けて、資格(しかく)を取らなくちゃならないの」
医療ミス、いや医療事故には医療機器の誤操作(ごそうさ)や無知(むち)な指導による使用も多い。
それは、単(たん)に操作する側だけの問題ではないと、調べた関係資料や文献(ぶんけん)やインターネットの掲示板には記述(きじゅつ)されていた。
複雑な操作や調整、しかも、幾通(いくとお)りでも設定できる不確実な仕組(しく)みやシステム。それに電磁波(でんじは)などの外部干渉(かんしょう)も誤操作や誤作動を招(まね)いている。
医療現場のコストダウン優先の安易(あんい)で安直(あんちょく)な考えが、短絡的(たんらくてき)な医療の質の低下と人命軽視を誘発(ゆうはつ)しているのかも知れない。
それならば、私は医療機器の仕組みや操作に熟知(じゅくち)して、現場の立場で医療機器の開発(かいはつ)に関係して行くように、そんな、医療機器を開発する分野の神様的な存在になって遣(や)ろうと思う。
「それって、人の生死に関する事だろう? 責任重大(せきにんじゅうだい)じゃん! できるん?」
(彼の言う通り、人の生き死に、直接、携(たずさ)わるから責任は大きい)
「さぁ……、ちゃんと理解して上手(うま)くできるか、分(わ)かんないわ。きっと、責任は重いよね。それに、何の仕事を目指(めざ)しても責任が有るし。でね、地方公務員や国家公務員の試験も、受けるつもり。何かをする訳でもないんだけれど、取れそうな時に資格を取っておくの。まぁ、兎に角(とにかく)、其処(そこ)へ行くわ」
今は、医療の勉強をしたいと思っている。
卒業後に医療の仕事ができるか、どうか、大学の4年間で見極(みきわ)めれると思う。
「凄(すご)いね、君は。ちゃんと志(こころざし)が有って、自分にできる事を考えているんだ」
中学生の頃から志を持ってアルバイトや部活動をしていた彼から、志が有ると言われた!
(志って言葉が、発音し難(にく)くて、重い……)
黙(だま)って私は、首を横に振(ふ)る。
発音のニュアンスが深く考えて決めたみたいな、私的じゃなくて公(おおやけ)への奉仕(ほうし)を含(ふく)むような、筋(すじ)が通ったブレない真心(まごころ)って感じがする。
「君の志に、真心を感じるよ」
志の言葉から私が受けた思いを、間に合わせ的で自分の希望(きぼう)を当て嵌(は)めただけの志望理由に、真心を感じると彼は言ってくれた。
(真心かぁ……、そんな志みたいな体裁(ていさい)の良い考えなんてしていないから。それは違(ちが)うよ)
私はまた、左右(さゆう)に顔を振る。
(そんなんじゃないの。凄いのはあなたの方、中学校3年の時には、今を見越(みこ)していたのでしょう。そんなあなたに、私は啓発(けいはつ)されたのよ)
「そうなると、一人で生活するのだろう? 近くに親戚(しんせき)でも住んでいるの?」
授業料や教材費などの大学へ納(おさ)めなけらばならない費用、向こうで暮らす部屋の賃貸料(ちんたいりょう)、毎月の生活費、それに、多少(たしょう)の小遣(こづか)いなどの実際必要な金額は、私が家から離れて一人暮らしをするからアルバイトで補(おぎな)っても、家から通っていたお姉(ねえ)ちゃんより大きくなる。
お姉ちゃんが短大を今年卒業して、両親の負担(ふたん)が少しは楽になったのに、……来年からは、其(そ)れ以上の負担を関東の私立大学へ進学する私が掛けてしまう。
両親から進路を訊(き)かれても高額の負担が迷惑になりそうで、言い難(にく)さに口篭(くちごも)っていると、『遣りたい事が有るなら、お前の好きなように進め、応援(おうえん)するから心配するな』と、父も,母も、そして姉も言ってくれた。
毎年の必要額は計算されて、金銭の捻出(ねんしゅつ)算段(さんだん)が纏(まと)まり、苦しい生活になるような負担ではないと、父と母が、私に書き纏(まと)めた収支額を見せながら説明してくれたから、今は安心している。
(お父(とう)さん、お母(かあ)さん、お姉ちゃん、ありがとうございます。とても、感謝しています)
唯(ただ)、生活環境が変わり、大学という未知(みち)の教育システムに馴染(なじ)んで行けるのか、それに、私が描(えが)く将来像と受講内容が繋(つな)がってくれるのか、そしてキャンパスライフのギャップが大きくて迷(まよ)い悩(なや)んでも、学び続けて行けるのか不安だった。
なにより、一人での生活は心細(こころぼそ)いと思う。
関東圏に親戚は居ないし、元々(もともと)、親しい友人を作らない私は首都圏に知り合いも居なかった。
「相模原の近くに親戚はいないわ。寮には入りたくないから、たぶん、アパート暮(ぐ)らしね。学費や部屋代は親が払(はら)ってくれて、生活費も貰うけれど、一人で自炊(じすい)生活するの。アルバイトもするわ。今まで、一人で生活したことがないから、ちょっとドキドキかな。遊(あそ)びに来てくれる?」
やっぱり、今日の私は変だ。
話しの流れからとは言え、口からスラスラと言葉が続いて出て、不確実な近未来の希望を話した。
しかも、私が一人で暮らす相模原の部屋へ遊びに来てと、彼を誘惑(ゆうわく)している。
話し終わってから恥(は)ずかしくなり、自分の顔が火照(ほて)って行くのが分かった。
きっと、耳の後ろまで真っ赤(まっか)になっていると思う。
無意識に指が、砂に書いた文字を深くなぞる。
暑中見舞(しょちゅうみま)いの葉書(はが)きを書くまでは、私から積極的に歩(あゆ)み寄る事は無かった。
(彼を誘うなんて、メールには絶対に打たないし、打てない)
こんなイレギュラーに近付き過ぎる私に、彼は戸惑(とまど)っている気がする。
「僕は就職(しゅうしょく)だ。進学でもいいんだけど、社会に出れば、自分のしたい事が、より早くハッキリする気がするんだ」
喜(よろこ)んで受けてくれると思った私の超前向きで、超積極的な提案に乗(の)らずに、彼は自分の進路への思いを話す。
「以前、知らせなかったかなぁ。親父(おやじ)が個人事業で会社経営をしててさ、僕は其処でアルバイトをしてるんだ。親父一人だけの金属加工の業務だけれど、それを生涯の仕事に出来るか、其の仕事を熟(こな)して行く才能が僕に有るのか、自信を持つ事が出来て深めて行けるのか、それを見極めたくて就職するんだ」
社会人としての自分を、彼は早く確立したいと言っているのだろうか?
自分が言った誘いの言葉への反応(はんのう)を、ドキドキして待っていた私は、大人(おとな)びた事を言う彼に虚(むな)しく躱(かわ)されて内心(ないしん)がっかりしてしまった。
(……別に、受け狙(ねら)いの冗談なんかじゃなかったのに……。半分、マジなのに、……聞き流されてしまった。)
「そう……、就職なんだ」
就職すると月曜日から金曜日まで、毎日、最低8時間の労働(ろうどう)時間プラス昼休息(ひるきゅうそく)1時間の9時間は、就業(しゅうぎょう)として勤(つと)め先に拘束(こうそく)される。
仕事が過密(かみつ)したり、圧迫(あっぱく)して来たりしたら、土曜日や日曜日までが休日出勤となるのだろう。
残業(ざんぎょう)も午後8時や午後9時まで行(おこな)うのが日常で、当たり前の事になっているかも知れない。
大学で学ぶのとは違って、就職は労働の対価を得る為に就業時間に拘束されて、半(なか)ば強制的な時間の不自由さが有る。
授業料を払(はら)って大学へ通(かよ)う学業と、就職して組織に組(く)み込まれ、与(あた)えられた遣るべき事を、時間内で正確に成(な)し遂(と)げた仕事の結果として金銭(きんせん)を稼(かせ)ぐ就労(しゅうろう)とは、大きな違いが有るでしょう!
普通高校卒で就職しても、一般事務やパシリ的な営業や組立ラインの作業ぐらいの仕事を与えられるだけだと思う。
余程(よほど)の実務力や応用力がなければ抜擢(ばってき)されず、会社の即戦力として役に立たないから、いつまでも安い賃金で遣り甲斐(がい)の無い簡単(かんたん)な事ばかりをさせられる。
ブラインドタッチでキーを打ち込み、英検資格や商業(しょうぎょう)簿記(ぼき)、パソコンでエクセル、ワード、パワーポイント、ピーディーエフなどのオフィスツールの使い熟(こな)しなんて、出来て当たり前だ。
そんな生き残りと這い上がりを賭(か)けて戦う過酷(かこく)で厳(きび)しい実社会へ、彼は来春から工業高校卒業のスキルで入って行くと言っている。
(大学を卒業する4年後に、私は既(すで)に先を駆(か)けて行く彼に、少しでも近付けているだろうか? 4年の間に知識を学び、実習経験を得(え)て、それらを活(い)かす責任の有る仕事に就(つ)く覚悟(かくご)が、私に具(そな)わるのだろうか?)
「モノ造(づく)りがしたい。だけど、今のアルバイトが終生(しゅうせい)貫(つらぬ)けれる生業(なりわい)か分からなくなっていて、それを見極(みきわ)めたいんだ」
(見極めたい……?)
覚悟だけじゃない彼の思いや願いの強さが羨(うらや)ましい。
彼が『遣り甲斐が有る』と言っていたのは中学生の頃で、一通(ひととお)りの仕事を無難なく熟せている今は、それが終生(しゅうせい)の生業にできるように、更なる高みと深みへ至る術(すべ)を探し、迷い、悩んでいるのだと分かった。
漠然(ばくぜん)として不安だらけの大人の世界へ悩みながらも飛び込んで行く、彼の強さと勇気が、今の私には無い。
(彼の行く末に興味(きょうみ)が湧いた……、踏破(とうは)と達成(たっせい)、挫折(ざせつ)と転落(てんらく)、彼はどうなって行くのだろう?)
いくら志が会っても、私には専攻課程の学業で資格を得て、大学を卒業できる見込みがないと、彼のような強い自信を持てないと思う。
(あなたは、更なる高みに何を追い求めているの?)
「これから、どんな物を作りたいの?」
(生涯(しょうがい)を貫けれる仕事を見極めるって、何? どうやるの……?)
「まだ、良く考えていないんだ。漠然と、こうなればいいなってイメージだけで。でも、自分が強く興味が有る処(ところ)から始めたい。ノウハウを知って自分でもできるようになると、興味が失(う)せて嫌(きら)いになるかも知れないけど。それでも、ヒントが掴(つか)めれたらと思うよ」
対岸の能登島(のとじま)を見詰めて真摯(しんし)に話す彼の顔は、近未来のイメージを固(かた)めていると思う。
「県外に、……出るの?」
(来て! そして、私の傍(そば)に来てくれるのでしょう?)
「それも、まだわからない」
(まだ、不確定な事だから彼は、はぐらかしているのだろうか? それとも、ワザと惚(とぼ)けているのだろうか?)
私の未来予想は、大学のパンフレットの写真で見た満開の相模原の桜並木(さくらなみき)を、二人で楽しげに歩く姿だった。
「県外に出るなら絶対、近くに来てね。関東(かんとう)……、首都圏(しゅとけん)にね」
(絶対って……、素直に成り過ぎじゃん、私)
見知らぬ街で独(ひと)り暮らしをする不安と寂しさが、『絶対』を加(くわ)えて願いを最強にさせた。
「ああ。そうなればね」
さり気(げ)無さそうに言う彼の内心は、『絶対に相模原の近くへ行くぞ!』と決めているのを、私は分かっている。
まだ、就職先や場所の確証(かくしょう)が得られていないから、無関心を装(よそお)っているだけだ。
そんな思いを私に悟(さと)られまいとしてなのか、また、彼は空を見上げた。
西に傾いて真昼ほどの熱を放たなくなった夏の太陽は、急速に冷(ひ)えていく大地と温(あたた)かさを蓄(たくわ)えた海原(うなばら)の熱の均衡(きんこう)で風が止(と)まり、ムッと息を詰まらせるくらいに淀(よど)んだ暑さだけを残す今も、なかなか沈んで行かないように思えた。それでも、ゆっくりと確実に夕闇(ゆうやみ)は迫って来ている。
砂に触れている指先が動いて、『寂(さび)』と『淋(さび)』の二文字(ふたもじ)をサラサラっと走り書きした。
スポーツ防水のデジタルウオッチをチラ見して今の時刻(じこく)を知る。
彼が御里に現(あらわ)れて、逃げた彼を追い掛けて、此処で追い着いて、海に沈めて、肩に凭(もた)れて、膝枕(ひざまくら)で寝かせて、話をして、そんなに長い時間を過ごしていないと思っていたのに、既に4時間余りも経(た)っていた。
瞳が動いて、私を見た気がした!
『はっ!』と気付いて、走り書きした二文字を抉(えぐ)るように消(け)して、彼の顔を見て視線の方向を確認する。
両手を着いて反(そ)り返(かえ)るようにして彼は、まだ明るい真上の赤く染まる雲を見ていた。
徐々(じょじょ)に光が陰(かげ)り行く世界は、闇を招(まね)き出して今日とは違う、今日に近い明日(あした)へ向かっている。
「暗くなって来たな。……もう帰るよ」
デジタルウオッチを見る私に気付いた彼が、立ち上がって言った。
急(いそ)いで私も立ち上がり、帰り支度(じたく)に向かう彼に追い付いて砂浜を歩く。
気心(きごころ)知れた相手がいて、自分の思いを伝え合えれるのが、こんなにも気持ちが良いなんて初めて知った。
(まだ、帰らないで……。ねえ、ゆっくりでも雲が流されているから、今夜は晴れ渡るわ。きっと、スターダストの残りが見えるわよ)
ここへ来る途中の前波(まえなみ)の集落の海岸に在る弁天崎(べんてんざき)で大きな石の上に寝転(ねころ)び、幾(いく)つもの流(なが)れ星(ぼし)が横切る満点の星空を二人で見上げてみたいと思う。
(せっかく来たのだから、……夜明けの涼(すず)しさになるまで、夕涼(ゆうすず)みをしながら、いっしょに星を見ない……?)
腕枕(うでまくら)をされて彼の胸に凭(もた)れ、星降(ほしふ)る夜空の下に波の音と彼の穏(おだ)やかな息遣(いきづか)いを聞きながら眠(ねむ)りたい。
だけど今、寄(よ)り添(そ)い歩く近さに触(ふ)れる私の肩へ、彼は腕を回して来てくれない。
それなら、手を繋(つな)いで歩こうかと迷(まよ)っている内に、停(と)めてある2台 のバイクまで来てしまった。
「あっ、ジレラだ! すっげーじゃんか! こんなのに乗っているんだ!」
ジレラ君の前で立ち止まった彼が、驚(おどろ)き顔で私に訊(き)いた。
けっこう自慢(じまん)な、赤と白のツートンカラーのイタリア製スクーターは、パワフルな加速と余裕で伸びていくスピードが気に入っている。
(でも、私のじゃないんだな)
「そう、良く知ってるね。伯父(おじ)さんのだけれど、こっちに来たら私が使うの。そっちのはオシャレにキュートだね」
私の攻撃的(こうげきてき)な紅白(こうはく)のジレラ君と違って彼の白い原付は、どことなくペットの小動物みたくて可愛(かわい)らしい。
「あっ、ああ。ダックテールじゃないのに、ダックスっていうんだ。なんでも、猟犬(りょうけん)のダックスフントをイメージしたネーミングみたいだよ」
(ダックテール? どちらかというと、小さな犬よりも、アヒルっぽいかもね)
「そっか、径(けい)の小さな太(ふと)いタイヤだから、販売デビューした頃は、そんな感じに思えたのかもね」
ダックス……、ジレラの事をよく知りたくてインターネットでスクーターとか、原付とか、いろいろ検索(けんさく)していたら、そのネームを中古車カテゴリーで見たような気がする。
「そうなのかなぁ? 胴長短足(どうながたんそく)のフォルムとも、違うっぽいし……。うーん、私には、わかんない」
外装品のレトロさは否(いな)めないけれど、全体のキュートなデザインは今でも充分(じゅうぶん)に通用すると思う。
「親父が知り合いから貰って、レストアしたレトロな奴(やつ)だけど、可愛いだろ。いろいろチューンをしてあるから速いんだ。僕と親父のお気に入りさ。でも、ジレラには敵(かな)わないなぁ」
彼は自分の白い原付と見比(みくら)べてから、私のジレラ君を、あちこち触(さわ)りながら羨望(せんぼう)の眼差(まなざ)しで見回している。
「これ…、ジレラって、原付(げんつき)の免許(めんきょ)じゃ乗れないよな?」
(やはり、彼はわかっている。そっちの白くてキュートなのより、一回(ひとまわ)り以上も大きいしね)
「うん、無理(むり)! 乗れないよ。普通自動2輪のライセンスは去年の夏休みに、こっちで取ったわ。学校はバイクにうるさいでしょ。だから、金沢じゃバレちゃうから、住民票をこっちに移(うつ)してあるの。もう少ししたら金沢に戻(もど)さなくちゃね」
金沢の家には自動2輪も原付きも無いから、私の運転できるのは明千寺(みょうせんじ)の伯父が所有するこのジレラ君だけ。
だから交通ルールに違反(いはん)して捕(つか)まったり、ニュース沙汰(ざた)になるほどの大きな事故に関係しない限り、運転免許証の取得(しゅとく)を学校に知られる心配は無い。
それにまだ、住民票は自動車運転免許証(めんきょしょう)を取得するまで金沢市へ戻さない。
「うふ、穴水(あなみず)の町まで送ろうか?」
本当に、もう帰ってしまうのなら、彼といっしょに走って送ってあげたいと思った。
穴水から先は、人家や交通量が多くて何かと安心できる。
彼さえ良ければ、穴水でいっしょに晩御飯(ばんごはん)を食べても良い。
それとも、既に金沢へ帰ろうとしている彼を思い止(とど)まらせて御里(おさと)に泊(と)めようか。
直ぐに暗くなるこの時間なら、御里のみんなは、危(あぶ)ない夜道を帰らせる事も無く、快(こころよ)くっていうか、わざわざ金沢から私に会いに来た興味深々の男子だから、喜(よろこ)んで彼を泊まらせてくれるに決(き)まっている。
(明千寺の御里で、みんなといっしょに、お酒やビールを飲まされるかも知んないけど、御飯食べて、お風呂(ふろ)に入って、涼(すず)みながらスイカ食べて、噴水(ふんすい)花火(はなび)や線香(せんこう)花火して、星だらけの夜空を見上げて、大部屋の蚊帳(かや)の中で、みんなして眠(ねむ)りましょう。弁天崎へ行って眠るのも有りだしね。……私の知らない彼が見れるかも知んないし……)
「穴水まで送らなくていい。僕なら大丈夫(だいじょうぶ)だ。GPSが有るし、道に迷(まよ)わない。一人で問題無いさ。穴水まで行ったら、君の帰り道が真っ暗(まっくら)になるだろう。そっちの方が心配だよ」
(此処は、私が産まれ育った場所で、御里の神様に守(まも)られている気がするから、別に心配しなくてもいいよ)
「うふふふ。ありがとう。私は大丈夫(だいじょうぶ)よ。ううん、違うの、あなたが心配なの。アレに……、気に入られたみたいだから、攫(さら)われるかもね。神隠(かみかく)しになっちゃうかも。穴水の町に入るまで、途中で停まっちゃダメだよ。アハハハ。無事に着いたらメールちょうだい。無事じゃなくてもね」
私へ心配するよりも、彼が気を付けて帰る事に専念(せんねん)できるように呪(のろ)いを掛けてあげる。
「……『アレ』、……『気にいられる』……!」
顔を曇(くも)らせて、彼が怯(ひる)んだ。
神隠しなんて、ちっとも心配していないのに、ワザとキツい冗談(じょうだん)で脅(おど)かして遣った。
「海岸沿いは、距離が有るから、けっこう時間掛かるよ。来た道を戻ってトヤン高原を抜(ぬ)けた方が、全然速いから」
明千寺の集落に在る御里に来て素直になれていても、つくづく私は意地悪(いじわる)だ。
「どっ、どうか、おっ、御願いです。頼むから、この浜で帰って下さい。本当に君が心配です……」
(アハハッ、ビビってる!)
両手を顔の前で合わせて拝(おが)むように私に頼む、怯(おび)える彼が可愛い。
「うん……、それじゃあ、ここで見送ってあげるね。気を付けて帰りなさいよ。夜道を飛(と)ばしちゃダメなんだからね。夏の夜の田舎道(いなかみち)は、本当に、いろんなのが跳(と)んで来て危(あぶ)ないから、ちゃんと家に着いたらメールちょうだいよ。じゃあ、バイバイ」
顔を曇らせていた彼が、真顔(まがお)になった。
その真顔の内側の彼は、不安で一杯(いっぱい)だ。
「飛んで…… 来る……? それは、いろんな虫がダックスのライト目掛けて、前方からぶつかって来るってこと……?」
彼のビビリに『可笑(おか)し過ぎでしょっ』て思う私は、小さく手を振りながら笑顔で答える。
「アハッ、そうかも、前からだけじゃなくて、真横とか、真後ろとか、真上とか、迫(せま)って来ているかもね。だから、気を付けてね」
真顔から血の気が失(う)せて『もういい』とばかりに、クルリと踵(きびす)を返す彼は、白いキュートな原チャに跨(またが)り、左のハンドルに付いたレバーを握(にぎ)る。
そしてキックレバーを勢(いきお)いよく蹴(け)った。
(クラッチ……? それ、マニュアルミッションなんだ?)
車のクラッチペダルを踏(ふ)むのとは違って、原チャでもクラッチレバーを握る操作が、なんかメカニックぽい。
ジレラくんは自動変速のATミッションだから、速度に合わせてギア比を切り替える動作は必要無いので、当然、クラッチレバーは無い。
なので、ハンドルの両側に有るレバーは、両方ともブレーキ用だ。
エンジンの始動も、セルモーターを回してのスターターだから、キックレバーは有るけれど、非常時用で、まだ踏んだ事が無い。
スカッ、スカッと2度のキックでも、エンジンは帰るのを憤(むずか)った
「あっれぇー? おっかしいなぁー?」
彼が不思議(ふしぎ)そう言いながら、屈(かが)み込むように手を伸ばして何かのレバーを動かした後の3度目のキックで、やっとエンジンが掛かった。
ダダッ、パシュン、ダダン、パシュンと不安定な撥(は)ね音で回るエンジンを、あやすようにアクセルワークとレバーの操作で調整する姿が、彼の目指す物作(ものづく)りの人らしくて逞(たくま)しく見えた。
(ふふ、モノ作りの人って、どんな人達か知んないけど、イメージ的に拘(こだわ)りの強い職人(しょくにん)さんか、頑固(がんこ)で一概(いちがい)なギルドのマイスターって感じね。今まで何度も拒否(きょひ)られているのに、私から離れて行かないあなたも頑固で拘りが強いのでしょうね)
『カコン!』ロータリー仕様(しよう)と思しきミッションのチェンジペダルを踏み、彼はギアをニュートラルからローに入れた。
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます