第11話 バカな私は彼に救われてばかりだ……(私 高校3年生)想いのままに・女子編

「家に帰ろう」

 私は、端(はな)からそのつもりだった。

 こんな、イレギュラーな事故の当事者なんかになりたくなかった。

 彼は私の伸(の)ばした手を握って頷(うなず)き、私の言った意味を分かってくれた。

「逃(に)げよう。裏口から出るよ」

(さあ、私を大事(だいじ)にして慰(なぐさ)めなさい。私も、あなたを大切(たいせつ)にして慈(いつく)しんであげるわ)

 彼をストレッチャーに乗せたまま、時間外通用口を目指した。

 途中(とちゅう)、彼に、診察用紙に嘘(うそ)の名前と住所を書いた事、制服の記章を外(はず)した事、監視カメラや防犯カメラに撮(と)られないようにしてきた事、そして、私はこのような事に関(かか)わるのが大嫌(だいきら)いな事を話した。

「はい、これ」

 彼に無断で制服から外した校章や徽章(きしょう)を、彼の手に渡(わた)して見せ、それを、また掴(つか)んで彼の制服のポケットに仕舞(しま)ってあげた。

「いいよ。それで」

 通用口近くで、私に支(ささ)えられてストレッチャーから降(お)りる彼が、笑顔で言った。

「君の好きにすればいいよ。僕も、いっしょに家に帰るよ」

 彼はストレッチャーから降りると、時々よろけながらも、出来るだけ普通に歩いてくれた。

 話す声も、普通に出してくれている。

 でも、それは、無理に普通を装(よそお)ってくれていると思う。

「痛くても、もう少しだけ我慢(がまん)してね。これから一人(ひとり)ずつ、其処(そこ)の通用口を通り、病院の敷地をから出て、兼六坂(けんろくざか)へ出るのよ。間隔(かんかく)は5分ほど空(あ)けて別々になるから、防犯カメラに映(うつ)っても、直(す)ぐには、私達二人だと分らないと思うよ。あなたから先に行って。向こうのゲートを出るまでは、お願いだから、颯爽(さっそう)と歩いて欲(ほ)しいの。兼六坂に出たら左へ進んでちょうだい。ゆっくりでいいよ。でも、途中で痛みに耐(た)えられなくて蹲(うずくま)ったり、倒(たお)れたりして人目(ひとめ)を誘(さそ)ったら、絶対ダメよ」

(ごめん、痛いのに。私の我が儘(わがまま)に付き合ってくれて……、端(はな)から巻き込むつもりだったけどね。あなたのカバンは、私が持ってあげるからね)

「オーケー、ノー プロブレム。行けるさ」

 笑顔で返す彼の声が、……震えている。

「ゆっくりと、県立美術館へ向かっていて。通りに出たら、本当に休みながらでいいから、くれぐれも、怪我人だと言わんばかりに歩かないようにね、休む態度にも、歩く姿勢に気を付けてよ。私も、出たら通りの薬局で、痛み止めと冷やす湿布(しっぷ)を買って来るから、直ぐに、私は追い付くから、それまで、我慢しててよね。目的地は本多(ほんだ)の森を抜けた21世紀美術館よ。其処で休んで、お昼を食べましょう」

     *

 私達は一人ずつ、医療センターの緊急外来の在る表側は様々な人で溢れかえっていたのに、びっくりするほど人っ子一人いない職員用駐車場を横切り、通用ゲートの防犯カメラの死角を抜けて外へ出た。

 先に行かせた彼が、よろけるながらでも無事にゲート脇を通過したのを確認してから、私は普通の歩きで防犯カメラのモニター範囲と彼の道筋をトレースしないように気を付けながら、誰に出逢(であ)う事も無く兼六坂の通りへ出た。

 ゲートを抜けて、彼が歩道沿いの石垣に凭(もた)れて休んでいるのを認(みと)めると、私は駆け寄って彼に言った。

「私は、薬局で痛み止めと冷湿布を買って来るから、先に行ってて! 県立美術館辺りで合流しましょう。でも、急がなくていいからね。倒れないでよ!」

(苦しそう…、痛くて辛いんだ!)

「患部を冷やして痛め止めを飲めば、きっと楽になるからね。此処の横断歩道を兼六園側に渡って行くのよ。さあ、もう少しだけ頑張って」

 抜け出て来た病院では検査しかしていないから、せめて、応急処置で患部の解熱(げねつ)をして、早く痛みと炎症を抑える薬を与えなくてはと、彼の容態が心配で気持ちが焦る。

「向かうのは、21世紀美術館だけど、県立美術館の裏を抜けて行くわよ。普通に広坂(ひろさか)を降りて、広坂通りの市役所の方へ向かっちゃ駄目(だめ)だからね、目立つから! わかったぁ?」

 駆け抜けながら言った私の念押しに頷く彼と、彼が凭れている石垣を見て、表面が滑らか整えられた赤と青の戸室石(とむろいし)で隙間(すきま)無く組まれてる様に、彼の痛めた背を凭れさせても、更に傷を痛める事は無いと思った。

 私は走りながら振り返り、のろのろと歩む彼を見て、少し安心した気持ちで、丁度(ちょうど)、信号が青になった金沢医療センター前の横断歩道を駆け渡り、できるだけ急いで向かい側に在る2軒の薬局と近くのコンビニで、痛み止めの瞬間冷却スプレーと冷湿布と抗炎症鎮痛剤、それに栄養ドリンクと滋養強壮液も買った。

     *

 護国神社の弓道場と厚生年金会館の間を走り抜け、石川県歴史博物館の横を駆け足で過ぎて、彼が倒れ込んでいないか辺りに視線を移しながら足早に県立美術館裏へ着くと、そこから下って本多町へと続く『せせらぎ小径』の階段で、やっと彼を見付けた。

 もう限界なのか、歩くのも、動くのも止めて、彼は階段途中に座り込んでいたけれど、倒れてはいない。

 ハア、ハアと、肩が上下する、辛そうな息遣いが聞こえて来そうだ。

 急いで階段を3段飛びで駆け下りて、追い付いた其の場で彼の傷を治療を始める。

「ハァ、ハァ、かなり辛そうね。顔色が悪いわ……、フゥ、肌が真っ白よ」

 走り続けて来た私も息が上がっているけれど、辛そうな彼の具合が心配で、治療が最優先だ!

「直ぐに冷やして湿布を貼(は)るね。ボタンを外すわよ。それから、捲(めく)って背中を看るけど、痛くても、ちょっと我慢してね」

 制服を捲って患部の状態を見ると、ドス黒い小さな痣を囲(かこ)むように、青痣と赤痣が背中全体に広がっていた。

(……とても、痛そう)

 皮膚を貫(つらぬ)いていないのが不思議なくらい。

「ここ、痛いでしょう?」

 ドス黒い痣に触れてみる。

(熱い……)

 腫れて熱が有った。

 たぶんズキズキして、かなり痛いと思う。

「黒い痣になって痛そう。周りも、赤や青の痣だらけだよ。腫れて熱を持っているし、ここ、触れているのが分かる?」

 彼は、横に首を振る。

 腫れから来る発熱と炎症が心配だ。

「スプレーするよ。冷たいかも」

(彼は、痛みに堪えているんだ。……感覚が、無いんじゃないよね?)

 堪えているのは、きっと、私を動揺させないように装っているだけと思いたい。

 本当は、痛がらないくらい麻痺(まひ)してるのだとしたら、診断や検査で見付けれなかったダメージが有って、彼は、更に精密な検査が必要になる。

(彼に、もしもの事が有れば、それは、病院から連れ出した私の所為(せい)だ……)

 今ならまだ、病院へ気付かれずに戻れる。

「うん……」

 肩まで服を捲り上げて、背中の皮膚を撫でたり、押さえたりしながら、痣の熱の持ち加減と腫れ具合を確認した。

 そして、湿布を貼る範囲を決めると、先に痛み止めスプレーを吹き掛けた。

「痛(つ)う!」

 瞬間、彼は小さく仰(の)け反(ぞ)って固まった。

「大丈夫? 痛い?」

 苦痛で歪んだ彼の顔を見詰め、恐る恐る訊いた。

「いや……、冷たかったから、びっくりしただけだよ」

(ごめんね)

 彼の背中が、小刻みに震えている。

(早く、痛みを和らげてあげなくっちゃ)

「飲んで」

 直ぐに、抗炎症鎮痛剤をいっしょに買った栄養ドリンクで飲ませ、冷湿布を貼った。

(……こんな処(ところ)で、男の子のズボンとトランクスを半分脱がし、背中も剥き出にさせて、湿布を貼るなんて、ベタベタの彼女と彼だわ……)

 痛い思いをして、私を守ってくれた彼には悪いけれど、何か楽しい。

「ありがとう。痛みが退(ひ)いて、楽になったよ」

 明るく笑顔で言う彼は、本当に痛みが薄れて、楽になったみたい。

 彼の安心した笑顔は、優しくて、ちょっとドキッとした。

「ありがとうは、要(い)らないわ。私の感謝の気持ちだから。それと、今日は、お風呂(ふろ)も、シャワーも、ダメよ。入らないでね」

 鎮痛剤と湿布が入った袋を、彼の鞄に入れる。

「薬の代金を支払うよ。今日は、持ち合わせが無いから、次に会う時に渡したいんだ」

 鞄に入れるのを見ていた彼が言う。

「いらないから、受け取らないよ。絶対にぃ、受け取れないから!」

(渡す? どこで返すつもり? バスの中? 次っていつよ? 私を庇(かば)って怪我しているのに、そんなの受け取れるはずないでしょう)

 彼の手を肩に掛けて支えながら、ゆっくりと立たせた。

 こうして並ぶと彼は背が高い。

 私より、10センチメートル以上は高いだろう。

 中学校を卒業するまで、私より背が低かったから、ずっと彼には、私より小さいイメージを持っていた。

 私に掴まりながら立つ彼が、別人のようで不思議な感じがする。

 彼の背丈(せたけ)は何時(いつ)の間にか、私を追い抜いていた。

(いつから? こんなに背が伸びたのよ。生意気(なまいき)だわ。お願いだから、私に、上から目線の言い方をしないでよ)

「大丈夫。一人で歩ける」

 そう言いながら、彼は少しヨロめいた。

「下の中村美術館の前まで、こうしている。私は、こうしたいの!」

 背中の痣を見たら、こうせずにはいられない。

 それなのに私は、彼を病院へ戻さない。

(これは、私の義務なの!)

 でも、一応は彼の意思を確認して尊重しなければいけない。

「痛くて辛いのなら、病院へ戻ろうか?」

 私の建前の言葉に、顔を私へ向け、視線は私の目を見る。

「あの紙に入院と書かれていたじゃない、戻れば、安心して休めて、痛みを鎮めて貰えるよ……」

 『戻りたい』と彼が言うのなら、戻したくないけれど、彼の意思に従うつもり。

「戻らないね! あっ、いや、僕は戻らないよ」

 ボソッと返事されると思っていたのに、強く言い返されて、更に穏やかに言い直された。

 彼は、はっきりと強く、『病院へは戻らない』と、頑迷な意思を示した。

「僕は、此処にいる。……君といっしょにいる。……君といっしょにいたいんだ」

 彼は、私の目を見る視線を逸らさずに、はっきり言い切ってくれる。

「……うん、それで、いいよ」

 私の返事を聞くと、彼の右手は手摺に掴まり、左手は私の左肩に回された。

 軽く掛けるように回された手に、自分の重みが、私に負担を掻けないようにしている彼の気遣いを感じる。

 私の右手は、彼の背の傷を刺激しないように優しく添えて、左手は、私のショルダーバックと彼のペッタンコの鞄を持った。

 斜面を下りきった所に在る中村美術館から、緑の小径を通って鈴木大拙(すずきだいせつ)館の裏側へ行けるのを、中学3年生のクラス毎に中村美術館と共に見学に来ていた時に知っていた。

 長時間の休息や飲食をする場所は、両施設に無いけれど、今の時刻の緑の小径なら殆ど人が来ないと思う。

 緑の小径は寂しいけど静かな所だし、今日は体感的に過ごし易い気温だから、そこで2(に)、3(さん)時間ほど休んで居れば、彼の辛い痛みが少しは落ち着くかもと、アウトドアの緑の小径へ行くか、それとも予定通りに21世紀美術館のインドアへ行くか、彼の身体と気持ちを楽にする為には、どちらが良いか、私は迷った。

 階段が終わり、平坦になったところにベンチが有った。

 彼を休ませようと近付いたけれど、苔(こけ)むして座れた物じゃない。

(なによ、このベンチ。苔で座れないじゃない! こんな陽当たりの悪い場所で、木のベンチはないわ。直ぐに湿気(しけ)って、座ると服が汚れるでしょう。これオブジェじゃないわね。普通、磨(みが)いた石材を使うんじゃないの!)

 今日のイレギュラーな出来事への苛立(いらだ)ちを、私は木製ベンチにぶつけて遣る。

「あっ!」

 苛つく勢いでベンチを蹴(け)ったら、簡単に木材が折れて砕け散り、ベンチは向こうへ引っ繰(く)り返ってしまった。

 びっくりして彼を見ると、目を丸くして崩れたベンチと私を交互に見ていた。

(しまったぁ~。私は、こんな乱暴な女の子じゃないのよぉ~)

 故意にベンチを破壊した後ろめたさに、こんな人が少ない場所に居ると、逆に目立って通った人に疑われるかも知れないからと、やはり私は、21世紀美術館へ向かう事にした。

     *

 鎮痛剤と冷湿布で痛みを散らしたくらいでは辛さは薄まらず、膝が折れて腰が砕けそうになる彼を励(はげ)まし支(ささ)えて、どうにか21世紀美術館に辿(たど)り着いた時には、二人ともゼーゼーと息も絶(た)え絶(だ)えだった。

 私達は21世紀美術館内のカフェで、休息を兼(か)ねて今後の事を打ち合わせた。

 このカフェは以前、彼が21世紀美術館へ鑑賞に行くとメールに有ったから、インターネットで調べてみた21世紀美術館のホームページで知った。

 店内が白色を基調としてコーディネートされたお洒落(しゃれ)なカフェで、一度(いちど)は来てみたいと思っていたから、痛みに耐えながら、無理して歩いてくれた彼には悪いけれど、内緒(ないしょ)で私の我(わ)が儘(まま)に付き合って貰った。

 まあ、ゆったりとしたソファ席だから、彼の傷めた身体を休めれると思う。

 軽い食事ができて、スイーツやドリンクのメニューも多いので楽しめそう。

 それに、建物の外壁を兼ねる弧(こ)を描く大きなガラスが外の明るさを取り込んで、清潔感が溢(あふ)れる白い光をカフェの空間に満たして、気持ちが良い。

(ここの雰囲気(ふんいき)は、アート鑑賞の後に来た方がいいかも)

「ここへは、着た事が有るの?」

 私を見詰める彼の顔が、赤くなっていく。

「無い。ここのカフェは、今、君と来たのが、初めて……」

(あっ、あれあれぇ~、これって…… デートじゃないのよ。わかるでしょう。誤解(ごかい)しないで……。でも……)

 来ようと思えば、何時でも来られたのだけど、美術館内だという事に抵抗が有った。

 それは、全く意味の無い抵抗で、彼の美術の才能と美術館が根拠のない繋がりを私に意識させ、拘らせていた。

 そのバカバカしい理由だけで、私はここに来られずにいた。

(本当は、とても、来たかったに……)

 彼は時折(ときお)り、痛みが戻るのか、顔を顰めながら聞いてくれて、相槌(あいづち)を打ちながら納得してくれた。

 病院からいなくなった二人の事は、ニュースになって1週間ぐらい捜索されるから、当事者と疑いを持たれないようにする注意すべき行動を、私は彼に話す。

 2週間は、違う時刻のバスに乗る事。

 バスは30分ほど早いのに乗って、互いに路線を変える事。

 疑(うたが)われて質問されても、知らない、分からない、人違いで通す事。

 家の人や学校の友達にも、気付かれないようにする事、などを取り決めた。

 私は、彼と普通に話している。

 彼は、私の考えの一つ一つに同意して意見をくれた。

 一つ、一つの考えを聞いた後に、彼は私を見詰める。

 口が開くまで間が有るのは、言葉を選んでいるのだろう。

 彼と話しているのを、楽しく感じている私がいた。

 今まで、彼と親しく話そうとは思わなかった。

 時々メールの遣り取りはするけれど、無口でシャイな鈍臭(どんくさ)いイモで、融通(ゆうずう)が利(き)かない自己満足野朗だと、私は、彼の性格を勝手に作り込んでいた。

 でも、違っていた。

 少なくても、融通は利き、私の意に添うように努(つと)めてくれている。

 交通事故に遭(あ)い、怪我をして救急車で運ばれたけれど、治療を受けずに病院から逃げ出し、学校をサボった。

 私の我が儘で彼を連れ回していた。

 そして今、二人は、美術館内の白いカフェで遅いランチを摂(と)っている。

 オーダーしたのは、いずれも、見た目を裏切らない味だった。

 ブリオッシュと言うフランス発祥(はっしょう)の菓子パンは、熱いクリームスープと程好く絡(から)み、その豊(ゆた)かな美味(おい)しさが、私の今日の幸運を祝(いわ)うように、更に幸(しあわ)せな気持ちにしてくれた。

 しっかりした風味のベーコン入りトマトソースパスタは、ちゅるんと全部、私が食べてしまった。

 パスタを全部、私に食べられてしまったのは、弾力の有るパスタの巻き取りに試(こころ)みたフォークの片手遣(かたてづか)いを失敗してから、手を出さなくなった彼がいけない。

(両手を使って、スプーンの上で、ゆっりと、フォークに巻き付ければいいのよ)

 でも私は、その考えを彼に伝えない。

 きっと、左腕を上げると患部が痛むのだと思う。

 終始(しゅうし)、カフェで彼は右手しか使わなかった。

 彼と、美術館のカフェでランチ……。

(経緯(いきさつ)は変わっているけど、これって、ちょっと、デートっぽいよね。やっぱり、誤解されるわ)

 そう思うと、独(ひと)り言(ごと)のように言葉が出て来た。

 幸せな美味しさは、口を軽くさせて思いを声にしてしまった。

 別に、彼へ話し掛けたつもりじゃないのに……。

「普通に、しゃべれるんだね」

 私を見詰めていた瞳が泳ぎ、急に彼の元気がなくなって返事をしない。

(!)

 視線が伏せ目勝ちになって悲しそう。

(ちょ、ちょっとぉ~、なにメゲてんのよぉ。そんなつもりで、言ったんじゃないのにぃ)

 雰囲気が気不味(きまず)い。

 私も、余計な事を言ってしまった思いで、言い訳の言葉を探すけれど、見付からなかった。

 もう、お昼近くなのに、いっしょに食べようと思ってオーダーした料理やスイーツを、彼は少ししか食べていない。 

 彼がオーダーしたチョコレートパフェは、脚付きの背の高いパフェグラスの底にチョコレートソースを沈めたコーンフレークの層へバニラアイスを重ねて、更に、生(なま)クリームとスライスバナナとチョコシロップのトッピングに2本のチョコポッキーを刺して私の前へ置かれたのを、彼の方へ運ばれた私のオーダーと交換する。

 私はパフェグラスの脇へいっしょに置かれていた細長いパフェスプーンを、動かしても脇腹の傷が痛まない右手に握らせた。

 スプーンを摑(つか)んだ手は、そのままチョコパを掬(すく)って口へ運んだけれど、アイスの冷たさが熱を持つ背中の傷を刺激して辛くなったのか、二(ふた)、三口(みくち)を食べた後は、手を付けなくなった。

(もっと、食べてよ。早く、元気になって欲しいのに)

「どうしたの? 食欲無いの? 食べないなら全部、私が食べてもいい? あっ! あれぇー?」

(しまったあ!)

 言ってから思った。

 とても空腹で、食べたがっている自分がいる。

 思ったのと、しゃべったのが、全然違っていた。

 耳まで赤くした彼が、小さく頷きながら言う。

「いいよ……、食べて」

(むっ、イジケたかも)

 彼から引き継いだチョコパは、ブラッキーなチョコ味がなかなか美味しくて、林檎(りんご)の香(かお)りが豊潤(ほうじゅん)で控(ひか)えめな甘さのアップルタルトに絡めて食べてみた私を、益々、明るく幸せにさせた。

 スイーツの幸せで軽くなる気分は拗(す)ねる彼へ、何かサプライズをして遣りたいと企(くわだ)てさせる。

(ごめんねぇー。私ばかり幸せになって。あなたも、食べれば気分が変わって、私の無神経な言葉なんか、笑って聞き流せるのにぃ……)

 食後のコーヒーと追加オーダーしたホットケーキが運ばれて来てテーブルに並ぶ。

 焼き上げられたばかりの美味しそうな芳(こお)ばしい匂いを胸一杯に吸い込みながら、頂上に乗せられて程好く融(と)け始めているキャラメル大の四角いバターの塊(かたまり)を、ホットケーキ上に広げるように塗り付けてから、残りを2枚のホットケーキの間に挟んで熱で蕩(とろ)けるままにした。

 融けたバターが食欲をそそる焼き色の面を流れて出すと、どうにか指で摘(つ)まめる可愛い取っ手が付いた金属の小さなカップに、なみなみと入れられたメープルシロップを上から円を描くように掛けた。

 その独特の甘い香りで森林を連想させるメープルシロップは、しつこく粘(ねば)らない甘みと後に引く風味が好きで、母や姉と焼き上げる自家製のクッキーのレシピにも入っている。

 バターとメープルシロップの艶(つや)が美味しそうなホットケーキを、慎重に一口(ひとくち)大に切り分けてからフォークで刺して、しっかりした甘みが痛みを和(やわ)らげるかも知れないと、皿へ流れたメープルシロップをグッチャリ絡ませると、彼の口の前へ突き付けた。

「はい、食べて! このホットケーキ美味しいよ。香りと甘さの風味で、きっと、元気が出るから」

(あーんして、食べて……、んっ? あっ……)

 我が身を乗り出して、彼の口へ触れんばかりに突き付けたホットケーキと私を、交互に見詰める彼を見て気付いた。

(あっちゃぁー、こっ、これって、どう見ても、ラブラブモードじゃん!)

 見詰められた顔が、火照(ほて)り出して来た。

(ちょっとしたサプライズのつもりだったのに、完璧に勘違(かんちが)いされてる。もう、ホットケーキを刺したフォークを彼に握らせて、……逃げてしまいたい)

 ここで突き付けたフォークを、戻したり、落としたり、置いたりしたら、それこそ、自分の告白まがいの態度にデレるミーハーな女子になってしまう。だから、染み込んだシロップが滲み出すくらい、彼の唇に押し付けてテレて遣る。

(ほら、早く、喰えっちゅうの!)

 一瞬、たじろいでから口を開けた彼は、押し込んだホットケーキをフォーク毎(ごと)、勢いよく銜(くわ)え込んだ。

「……ほんとだ。美味しいよ。このパンケーキ」

 口に押し込まれたホットケーキを二噛(ふたか)みほどで食べた彼が、紅(あか)い笑顔で言う。

(なに、その、すっごく嬉しそうなスマイルは! そんなに嬉しいのなら、もっと、味わって食べなさいよ! じゃなくて、やっぱし、ラブラブと勘違いしてるし……)

 彼の明るく弾(はず)ませた声に、気遣いのワザとらしさを感じる私は素直じゃない。

「違う! パンケーキじゃない。ホットケーキ!」

 ここは彼の『パンケーキ』をウンチクのツッコミで攻(せ)めて、デレも、ラブラブも、散らして薄めたいけれど、自分から始めたのに最初の一切(ひとき)れで止めるのは、ラブラブっぽいを意識してるのを知られそうだ。

「えっ? だってそれは、妹(いもうと)がいつも、『パンケーキ焼(や)けば、食べる?』って、訊いてくるのと同じので……。うーん? ……違うのか?」

(おっ、乗って来たね)

 再び、食べさせたくなる心配ムードにならないように、ちゃんと会話を続ける。

「ホットケーキだってば! 私の家では、『ホットケーキ』って言っているの!」

 本当は、パンケーキとか、ホットケーキとか、ネームなんてどうでもいいんだけど、話していると彼の痛みが紛(まぎ)れているみたいだし、否定から始まる強制洗脳的指導で刷(す)り込んで遣る。

「そっ、そう? 君ん家では、ホットケーキなんだ……?」

(あなたは、私の守り神だけど、イニシアチブは私のモノよ。逆(さか)らわないで、私に従順でいて)

「そうよ! だいたいパンケーキは、ホットケーキのカテゴリに入るんだからね!」

(適当だけど、種と亜種と属性の関係みたいな、そんな感じでしょう)

「ううっ……、分類的にもそうだったんだ……。君が、そう言うのならホットケーキなんだろうな……」

 これで、ウンチクのレクチャーは御仕舞(おしま)い。

 私は全然似合わないラブコメを終了して、ホットケーキを食べるのに専念したい。

「そうなの! 覚えて置いてね」

 それから、目を伏せた俯(うつむ)き加減(かげん)の姿勢で、ホットケーキを切り分けてはフォークに刺して食べた。

 私は噛んで飲み込みながら、視線を一口大に切り分けるホットケーキへ向け、一切れをフォークに刺すと、そのまま彼の顔を見ずに差し出す。そして、彼が、少し身を乗り出して銜(くわ)えたのを感じると、フォークを引いて次ぎのを切り分ける。

 繰り返すように何度も、切り分けた一片(いっぺん)をフォークに刺して食べさせるのと、こんがり焼いたホットケーキと蕩けるバターの匂いに、甘いメープルシロップの香りがコラボして漂い、私の視界の隅を霞(かす)ませて目眩(めまい)がしそう。

 使うフォークは、しっかり間接キスになってしまうけれど、最初にチョコパのスプーンで間接キスをしたのは私だ。

 絡める甘さの相乗で共用するスプーンとフォークの恥(はじ)らいを忘れていたのは、『今日の、感謝の、気持ち』の発現という事で納得しよう。

(まあ、今は仕様が無いか……。不覚は、許(ゆる)しちゃる……)

 オーダーした全ての料理を食べ終わった私達は、暫(しばら)く黙ったままコーヒーを飲んだ。

 チビチビと冷めたコーヒーを飲みながら、まだ、混乱が治まらない頭で感情の勢いばかりの今日の行動と態度を、ぼんやりと思い返している私は、上目でのチラ見が精一杯で、まともに彼の顔を正視できていない。

(感謝知らずな、私かも……)

 カップはとっくに空(から)になっている。

「出ましょう。帰るわよ」

 私は、ちょうど飲み終わった振りをして言った。そう言って、私はコーヒーカップをテーブルに置いた。

「僕が、払う」

 彼がまた、食後の支払いで、『僕が……』と、言い出したのを聞き流して、伝票を掴み取ると、私は強い語気で言い返す。

「今は、私が払うの! お願いだから払わせて!」

(それに、キャッシュの持ち合わせが無いのでしょう)

     *

「あっ、レスキュー隊や救急車の人や医者と看護師さん、それに救助の人達に、『ありがとう』を言うのを忘れた」

 脇腹を摩(さす)りながら、彼は微笑んで言った。

 私は無意識に、事故に巻き込まれた私達に責任は無くて、助けられて治療保障されるのが当たり前だと思っていた。

 消防署や病院は、それが日常の仕事で、その為の資格を持ったプロによって、事務的に行われるだけだと思っていた。

 テレビのニュースや報道番組で映(うつ)し出される画面を見て、大変な仕事だと思いはしても、『ありがたい』とは感じていなかった。でも、職業上の責任やプロ意識だけじゃできない。

 必ず救い出そうとする思いや、どうか助かって欲しいと、願う気持ちが有るはずだ。

 その思いが有るからこそ、迅速(じんそく)で丁寧(ていねい)な作業や処置になり、誠実で優しい思い遣りの言葉と態度に表れるのでしょう。

 救助を手伝った、通り掛かりの人や近くの家の人達もそうだ。

 無意識的な無償で、純粋に誠実な思い遣りだけでの行動だったのだろう。

 彼の一言(ひとこと)は、その事を私に気付かせて、教えてくれた。

(病院から逃げて、不味(まず)かったかな?)

 痛みを堪える彼の表情に少し後悔したけれど、別れ際に彼の赤面した顔が明るく笑って、私を安心させてくれた。

 彼の胸ポケットから、小さくてスリムなミュージックプレーヤーを取り出して彼に握らせた。

 プレーヤーに繋がるイヤホンも、彼の両耳に付けてあげた。そして、フロアーで黙って私の為(な)すがままにされる彼に、言ってあげる。

「演出よ」

 私の考えを伝えた。それから、私もバックからヘッドホンを取り出して耳に当てた。

「ここからは、別行動よ。湿布で冷やしても、歩くと痛いでしょうけど、怪(あや)しまれないように、音楽を聴きながら、できるだけ、普通に歩いてね」

 案内板を見て、彼に広坂通りへの北出口を促して歩かせる。

 後姿を見る限り、彼は普通に歩けているように見えて少し安心した。それから、私は携帯電話のメディアプレーヤー機能のパネルをスクロール選曲と、プレイ記号のアイコンに触れながら、市役所方向の西出口へ向かう。

 私は郷土資料館前から、彼は市役所前から別々のタクシーで家に帰る。

 彼がタクシーに乗り込むのを、横断歩道の信号が青に変わるのを待ちながら見ていた。

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 持ち合わせが無い彼のタクシー代は、21世紀美術館内の広いホールで渡してある。

「これは、帰りのタクシー代ね。返さなくてもいいよ」

 そう言って私は紙幣を3枚、受け取るまいと体を反らす、彼の学生服のポケットに無理矢理押し込んだ。

「タクシーじゃなくていいよ……。バスに乗るから。……だから、このお金は、受け取れない」

 ポケットから取り出した金額を見て、困った顔の彼が言う。

「タクシーに決まってるでしょう。そんだけ有れば、充分でしょ。お釣りはいらないわ」

 笑顔の私は、懇切(こんせつ)丁寧にタクシー代の受け取りを拒(こば)む彼を説得してあげる。

「タクシーも、バスと同じだろ? タクシーだと運転手とマンツーマンだから、話し掛けて来ると思うし……」

(ムカッ! 何をごちゃごちゃとぉ~。もぉ、何でもいいから、私の言う事を聞けっちゅうねん!)

「全然違うわよ!」

 しつこく拒否ろうとする彼に、私は強く返金を拒絶しながら、タクシーに乗る場所、タクシーの中での態度、タクシーを降りる場所を、細かく指示して受け取らせた。

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 彼の乗ったタクシーは、横断歩道を渡る私の横をUターンして行く。

 タクシーの中から彼が、笑わない顔で私を見続けていた。

 あんなに体を捻って、後ろを向き私を見ている。

(そんなに後ろを見ていたら、痛いでしょう…… 痣が酷くなるよ)

 タクシーが視界から走り去るまで、広坂通りの用水の傍(かたわ)らに立ち尽(つ)くし、私の瞳は彼を追い続けた。

(そんな顔で、私を見詰めないでよ……)

 普通にしゃべれたのは、私だった。

(あなたに言ったように聞こえたのは、勇気も根性も無い私への励ましだったの)

 彼が何の躊躇いも無く普通に話し掛けて来たら、たぶん私は拒絶してしまう。

 酷い言葉を連ねて、彼を2度と私に近寄れなくしている。

(今のままの、はにかむ、あなたでいいの)

 傍を流れる辰巳(たつみ)用水のせせらぎが、私を正直にさせた。

(ねぇ、私はこんな女の子なのよ。こんな私の何処がいいの?)

     *

【大丈夫? 痛みはどう? 腫れは引いた? 熱は有るの?学校へは、もう行ってんの?】

 彼が心配で、メールを送るけれど、返事は来ない。

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 彼とぶつかった額には、掠り傷一つ無かった。

 脱衣場でも、風呂場でも、背中を含めて身体のあちこちを鏡に映して見ても、どこにも、傷や赤みや痣は無くて、シャワーを浴びたり、湯船に浸(つか)かってみても、ヒリつきや痛みの感じは無い。

 今日の事故の痕跡を、何処かに探すとすれば、私の意に反して、蹴りでベンチを粉砕した靴先に潰した苔痕が残っているくらいだろう。

(ありがとう)

 それくらい、私は彼に守られていたと改(あらた)めて感謝した。

 もう、流石に逃げて避ける訳には行かない。

 昼間は対面的に『彼』と、他人行儀(たにんぎょうぎ)に呼んでいたけれど、直接の呼び掛けは、『あんた』から『あなた』に変わっている。

 私を自(みずか)らの身体で護ってくれた男性……、男の人……、異性を『あいつ』と、中性的な異物意識する事は、もうできない。

 いつかは起こるかも知れないだろう程度の今日の事故の為に、毎朝のバスの中で、私の横に彼はいてくれた。

 これからは、逃げる事も、避ける事も、気付かない事にも、無かった事にも、無視する事もをせずに、彼を意識して、彼を見て、彼を感じて、しっかりと彼を判断しなくてはならないと思う。

(彼の良い点や好きなところは、一つでも有ったっけ?)

 私は鏡を見て、逃げようとしていない内なる私に訊く。

(少なくとも~、一つ以上は、有ったよ)

 凄く、嫌いなところは?

 絶対に、許せないところは?

 殴りたいくらい、気に障(さわ)るところは?

 今度は、避ける要因を探す。

「四角い爪と言った……。名無しの告白メール……。錯覚かも知れない唇の残るキスの感触……。ちょくちょく見る彼の夢……。でも、もういいや。嫌な事なのかも分からなくなって来ているし、まだ、気付かない厭なところが、まだ、有るかも知れないけど、今は、他に無いよ」

 鏡の中の口が、そう動いて、私の声が風呂場に篭(こも)るように木霊(こだま)した。

 案(あん)の定(じょう)、夕方のニュースからバス事故で怪我をしながら、治療を受けずに失踪(しっそう)している、高校生らしい男女二人の行方(ゆくえ)が話題になっていた。

 翌日は、同じバスに乗り合わせた近所の人が、私もいたとか、見たとか、心配して来るし、それに、ちゃんと病欠の連絡を学校へ入れたのに、事故を知った先生が欠席を怪しんで家に確認したから、仮病エスケープがバレて、家族に身体の無事を心配され、何処へ行っていたのかと、問い質(ただ)されっぱなしだった。けれど、早く来た別のバスに乗り、市内をぶらついていたと終始惚(とぼ)け通した。

 何より、私には傷一つ無いのだから、誰も、それ以上の疑いようも、詮索もしようが無かった。

 念の為にチェックしたインターネットには、バス事故の様子を携帯電話のカメラで撮ったと思われる動画が、いくつかのサイトにアップされていたけれど、いずれも、遠巻きで撮影していたみたいで、映っていた彼と私は、ズーム画面でも、個人を特定できるほどの画質では無くて安心できた。

     *

 予想通り事故から1週間ほど経つと、バス事故など起きていなかったかのように、テレビや新聞やみんなの話題から、あっさりと出なくなった。

 まるで、無理に忘れ去せるようにしているみたいだ。

【心配させてごめん。もう、痛みは無くなったよ。痣も薄くなっている。君が治療してくれた御蔭だ。ありがとうございます。あれから、少し熱が出て、あの日プラス三日間(みっかかん)も休んでしまった。明日からは学校へ行けそうだよ。それから当面、通学のバスは、笠舞(かさまい)を通る路線にするよ。そして、2週間くらい過ぎたら、そっちの路線へ戻るよ。君こそ、本当に大丈夫なのか?】

 バス事故から三日目、何度もメールしても、返事がなかった彼から漸(ようや)くメールが来た。

(私こそ、ありがとう。あなたが、私を護ってくれたの。あなたの御蔭で、傷一つ負わなかったわ。それに、楽しかったよ)

 やっと気持が落ち着いて、私は、心から彼に感謝した。

 事故から二日目(ふつかめ)の昨日、下校帰りに二つ手前の停留所でバスを降り、一気に駆け降りれば、上昇気流に乗って飛べそうな気がする急な石段を、1段、1段、恐る恐る弔辞(ちょうじ)の不吉な気配がしないかと、気持ちを構(かま)えながら下り切り、中学校の卒業アルバムの名簿で調べた彼の住所の前に立って、普通じゃない変化が無いかと、暫く彼の家の様子を見ていた。

 暫く経(た)っても、私が立つ、生活道路と下りて来た階段に行き交(か)う人も無く、近付く初夏の暖かな陽射(ひざ)し受ける入母屋作(いりもやづく)りの彼の家は、静かに佇(たたず)み、磨(す)りガラスの窓や格子戸の玄関から中の様子を伺(うかが)い知れなかった。

 少し時間を潰してから、再び、様子を見に来ようと思い、生活道路をそのまま進むと、幹線道路沿いに在る古いショッピングセンターの脇に出た。

 幹線道路が通る方角と彼の家との距離を考えると、彼が私の言い付けを守っていたならば、ここでタクシーを降りたのだろうと想像ができて、私が無理やり連れ回したのと、今来た道を痛みを堪えて家まで帰った挙句(あげく)、音信不通になってしまったのは、私の所為だと思う。

 勝手な心配から神経を使う寄り道をしてしまい、小腹を空かせてしまった私は、ショッピングセンター内の麺房(めんぼう)のテナントでオニギリを二つ食べ、それから本屋で立ち読みをして、ベーカリーでも菓子パンを買う。更にカップのアイスクリームをマーケットで買って、屋上の駐車場で彼の家の方を眺(なが)めながら食べた。

 帰りも、彼の家の前を様子を伺いながら通り過ぎてみるけれど、彼の家は相変(あいか)わらず人通りの少ない住宅街と共に、何の喧騒(けんそう)も無く、静かに落ち着いている。

 それでも、もしも、もしかしてと、安心しきれていない私は、三日目の明日もメールが来なければ、明後日には彼の家へ行って、彼と会おうと決めていた。だから、彼から連絡が届いて本当に良かったと思う。

【私は、大丈夫よ。あの日以外には、学校を休んでいないから。……私を守ってくれて、ありがとう】

 一字(いちじ)一字、確(たし)かめながら、ゆっくりと携帯電話のキーを押す。

 バスの中で私の前に立っていた彼、救急車へ運ばれながら私を見ていた彼、救急車の中で胸にしがみつく私を見る彼の瞳、私の我が儘を押し付けられて頷く彼の笑顔、ストレッチャーに横たわり私に運ばれるままの彼、圧力痕(あつりょくこん)の痣で斑模様(まだらもよう)の彼の背中。

 そして、ベンチを破壊した私に驚く彼、私のさり気無い言葉にいじける彼、タクシーの中で痛い体を捩って私を見続ける彼、そんな彼の姿が次々と浮かんできて、携帯電話の画面に表れる文字に重なった。

 真摯(しんし)な感謝の気持ちでアイコンキーを打ち込んでいるのに、思い出す彼の顔はどれも面白くて、いつしか私は笑っていた。

【それと、全ての支払いを私にさせた事を、あなたは、随分(ずいぶん)と負(お)い目に感じて、悩んでいたみたいけれど、それは、全然違うから。あの日、あなたのメジャーでヒーローになれるチャンスと最適な治療を、私の身勝手が奪ったのよ。だから、全く、割に合わない代償で申し訳なくて、あなたには、悪い事をしたと思っているの。……私を恨(うら)んでも、感謝しないで】

 後半は、互いの人生を違えた向きへ分岐(ぶんき)させた思いと反省で、笑いが固まったまま送信してしまう。、

(これで、良かったのだろうか? でも、これまで通り、近くに彼がいて欲しい……)

 直ぐに彼は、メールを返して来た。

【それでも、君を護れて僕は嬉しいです。だからこそ、僕に護らせてくれた、君へ感謝します】

(感謝しないでって、打ったのに……。バカ……)

 ラジカルなメールの文字を滲ませる落ちた涙が、発光する画面の光に照(て)らされて、仄(ほの)かに輝(かがや)いて見えた。

(ほんとうに、ありがとう。……バカは、もっと、素直になれない私の方だ……)

 あらゆる意味で、私は彼に救われて来た。

 今も救われているし、これからも、きっと彼は、その身を犠牲(ぎせい)にしてまでも、必ず私を救い続けてくれると思う。


 つづく

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