Who killed her for what purpose? ➀
子どものころに暗号を作ったことがある。
それはまだ僕が十二歳であり、彼が七歳のときだった。ホントに小さなころだったから、僕が知っていた知識は「素数を使うらしい」ということだけで、それをどう使うのかなんて知らなかった。だから、とても単純に五十音表を数字にしただけだ。
ア行を1、カ行を2と順番に振り、a段を1、i段を2と1~5に分ける。「あ」なら11。「き」なら22というように。
「じゃあ、『が』とか『ぱ』はどうするの?」と彼に言われたので三ケタにした。
濁音は最初が1、半濁音は2、何もなければ0というように。
そして、ちょっとだけ工夫を施した。
だから、これを残しておこう。アイツに。
〈128‐195‐475‐434‐935〉とメモの隅に、ひっそりと書き残した。
手元の時計を見ると、まだ時間があった
持ってきたバックから、黒い鉄の塊を取り出して手入れをする。
だが、急にドアが開いて、ハルミが遣って来たためにそれをベッドの下に放り投げた。そして、出来る限り知らないフリをしておく。
「そろそろ食事の時間らしいですよ」と彼女は言う。
そして、そのまま備え付けのクローゼットから着替えを持ち、静かに風呂場へと消えて行った。
窓の外を見れば空はまだ煌々と燃えていて、南の海は黒く蠢いている。
海の底にいる何か悪いものが、ずっと僕らを睨みつけているようだ。その魔物が、彼を引き込んでしまったのかもしれない。
屋敷では全員がダイニングに揃っている。
その人を、覗いて。
本来ならこの場所にいるはずだった『その人』は、すでにこの世のものではないし、そこにいるべき肉体は冷蔵庫の片隅を借りて眠っている。次第に日は落ちてきて、僕らが外に出るようなことはしない方が良いと告げられた。
鏡花と千尋は散々言った。
暗い森の中を、懐中電灯一本で歩く気にはなれないからもあるが、危なすぎるという理由らしい。広い森の中を道というには頼りなさすぎる獣道を辿って、入り江に出ようとすることは正気の沙汰ではないと。
「ところで、警察への連絡はどうしましましたか?」
武蔵と向かい合うこの席で、僕は家族と執事が揃っているのを分かった上で聞いた。
その言葉に院宣家の面々が苦い顔をした。
そして、口を開いたのは鏡花だった。彼は落ち着きを崩さず、執事然として冷たく言い放った。
「していません。するわけがないでしょう?」
「何故ですか。この家の人間が自殺したんですよ」
「いえ、晶人様が自殺したからこそ、外に連絡することは出来ません。院宣家の人間が自ら命を絶ったなどとあっては、外の世界で恥となります。それを理解できない人間ではないでしょう。自殺したということは不名誉なのです。まだ世界には理解してくれない人間が多い。あなたも分からないわけではないでしょう?」
僕は何も言わないで、ギュッとナイフとフォークを持った手に力を入れた。
「ですから、外への連絡はしません。身内で秘密のまま処理します」
「そうですか」
正しくない。絶対に。これは晶人の名誉のためだと思った。
でも、名誉を守るのが正しいのか。
これは僕の問題ではない。家族の意見だ。
でも、彼の意思は?
『僕は生きていたと言いたいんだよ』
彼の声が、聞こえた――気がした。
何と言っていただろう、彼は僕に何と言った。深雪のことを頼んだ後、僕に何を頼んだ。自分のことをどうしてほしいかを言ったじゃないか。
だって、彼は。
『そうか。なら、頼んだよ。僕が僕であり、僕が君の友達であり、僕が彼女の家族であるのだということを、僕が確かに生きていたのだということを証明してほしい。僕はたいそうな人間ではないけど、僕が死んでも、僕は生きていたと言いたいんだよ』
生きていた。
彼は確かにここにいた。
なら、僕が何も言わないことは正しいのか。それは晶人に対する裏切りじゃないのか。
彼が生きていた証拠を握りつぶすことじゃないのか。
決断の重さに俯いていた僕の顔を、無理に前を向かせたのは、食器の割れる大きな音だった。何枚もの皿が、床の上で弾ける。深雪が食器を払い落した。
自分の前に置かれた皿を全て。
家族の人々の眼は割れた皿に向かっていただろう。でも、僕の眼は彼女の姿をまっすぐ捕えていた。彼女の眼に溢れた悲しみが、僕の胸を締め付ける。
痛いほど。
辛いほど。
「誰も、心なんてないのね」
深雪はようやく絞り出した震える声で言うと、食堂を去って行った。
千尋は箒と塵取りを手に調理室から走り出してきて、割れた食器たちを片づけ始める。院宣の人々は誰も動こうとしなかった。誰一人立ち上がることなく、また料理を食べ始める。その後ろ姿を、溢れ出る悲しみのことを誰も考えることをしない。
誰も追うことをしない。誰も。一人も。
何でだ?
僕は、食器を叩き割りたくなるのを堪える。
何でだ?
僕は、家族に喚き散らし当たりたくなるのを堪える。
「何でだ?」
僕は、それを声に出す。
「何で、アンタたちは誰も悲しまない。悲しんでいるフリをしているんだ。どうしてだよ、それでも人間か!」
誰も自分のことを見ている人間なんていない。
目は料理だけに向けられている。それはハルミも同じだった。
僕と同じ考えだと信じていたのに、彼女ですら裏切るのか。僕は崩れそうな心を何とか守ろうとして、何も出来ない無力さを噛みしめるしかない。
守るべき自分の精神が、ここにいては潰れてしまうと僕は逃げるのだ。
「――ッ」
銀のナイフとフォークを床に叩きつけ、食堂を飛び出した。
リビングから聞こえてきたピアノの音。彼女のピアノであることは分かった。
この曲は知っている。よく他の家の葬式に出れば、否が応にも聞かされる。
「『
彼女の悲しみを想うと何も出来なかった。
屋敷に訪れた夕闇に誘われるように、僕は外に出た。外まで静かに聞こえてくるピアノの音に、僕は少しだけ癒されていく。心を清水に洗われる心地よさのようだった。
満点の星の海の下で、僕は晶人の魂が良き所に行けることを願う。
天国とか地獄とか、そんなものを僕は信じようとは思わない。誰もが幸福な死を手に入れることを望むからだ。誰でも死んだら平等だ。そこに生前の行いなんて不必要であると思ってしまう。
人間は、間違う生き物だ。
人が生き物である限り、この前提は不可避なのだから。
ならば、間違いを肯定してほしい。人は間違って、誤って、謝って、それを直して成長するのだから。どうか、世界の人々がそうでありますようにと。
僕は、強く思う。心の底から強く、強く。
流れ星が――光る。すぐに消えてしまう輝きに、僕の願いは通じただろうか。
そんな夜に、僕は孤独だった。星屑の中に吸い込まれて消えてしまいそうになるほど、人は小さく孤独な生き物だと思わせられる。
宇宙が出来て130億年――その永遠に引き込まれるほどの孤独を想う。
玄関のドアが開いてきた音で振り返る。立っていたのはハルミで、顔は悲しそう。
僕は彼女の襟をつかんで問い詰めてまで、「どうして」とか「なんで」とかを聞いてしまいたいと思った。
さっきの『裏切り』に、答えが欲しかった。
でも、それをしなかったのは、僕が怖かったのだと思う。彼女が僕の仲間ではなく、この家族の一員でしかないのだということを理解しなければいけないみたいに。だから、何も聞けないまま、口を噤んだ。
「怒ってます?」
「いや、そうじゃないよ」
彼女は、僕の後ろで口を噤んでしまった。そして、僕自身もそれに続く言葉が出てこない。慰めも、ただ言い訳に過ぎない。
二人とも何も言えない時間が過ぎる。
「先に行っていいよ」と僕は鍵を渡し、「あまりに遅かったら、鍵を掛けて寝ててもいいからさ」
「わかりました」
彼女は静かに戻って行った。
まるで追い帰すような言い方だった。そんな自分の小ささに腹が立ち、静かに心を落ち着かせようと満点の星空を見ていた。偉大過ぎる宙(そら)は、自分の小ささを増長させるだけだった。
130億年すべてを見てきた星々に、19の若者はあまりに矮小だった。
◇
僕が部屋に戻ったとき、ハルミは寝入ってしまっているようで、部屋はロックされていた。自分の時計を確認すると、もう10時を回ってしまっている。そんなに遅い時間でもないが、彼女は晶人の自殺で心身ともに疲れたことだろう。
彼女を起こすのは気が引けて、謝るには時間が足りなかった。
どうせ部屋には入れないのだから。
それで良かったのかも。
鍵はハルミが持っていった。僕も針金さえあれば、開けることは出来そうな安そうな作りの鍵だ。僕のピッキングの師匠はハルミで、彼女から習った技だ。彼女の腕は実に見事だった。
それを僕は実家の鍵でやろうとしてみたのだが、それを見たハルミは笑った。
「社長、流石にその鍵は安全性抜群ですから開きませんよ。それは私でさえも無理です」
そのころは、ピッキング対策のなされた鍵では無理だということさえ知らなかった。今ではどんな鍵でも開けることは出来る。簡単な物なら、だけど。この家の鍵程度なら開けられるだろう。
例外は、武蔵の部屋の展示ケースくらいか。
この屋敷の鍵にピッキング対策は施されていない。鍵はとても古いタイプの物で、交換されていないようだ。僕の手でも簡単に開くだろうし、心得のある者ならば誰でも簡単に開けられるだろう。無論そんなことをしなくても鏡花に鍵を借りに行けば済むことだった。
屋敷の鍵は、鏡花が持っているのだという。
僕はリビングで寝ることにして、ソファに横になる。
ぼうっとしていると、少しだけ頭が冴えだしてくる。一瞬の強い閃きの後で、凄まじい下り坂が待っている。もし晶人の自殺に裏があるなら……なんていう思考は止めよう。考えたくもないと払拭する。そして、徐々に眠気に襲われていく。
今夜の嫌な夢を見そうだ。と、ソファに横になる。
「少し大丈夫かしら?」と聞く女性の声。
ソファから起き上がって、声の方を見る。ミミだった。
艶やかな紫のロングドレス。胸元が大きく開いていて、肩紐もない。体のラインが美しく見えるタイトな作りで、かなり高い位置までスリットが入っている。
「何か用ですか? 私はハッキリ言ってアナタを認めているわけではありませんよ」
「へえ、そう。まあ、そんなのは、放っておいて良いでしょう、お話くらい?」
僕は眉間にしわを寄せ、嫌な顔をしてみた。でも、彼女はお構いなしにソファへと座ってしまう。そして、僕にそっと近づいてくる。猫のようにすり寄り、腿へそっと手を乗せる。ハルミとは違う甘く、濃いオトナの芳香。
ハルミと瓜二つの彼女にすり寄られるのは悪い気はしないが、相手がミミだと思うと複雑だった。彼女は敵だから、耐えなきゃならない。
でも――
耳元に顔を寄せ、フッと耳に息を吹きかける。僕はそれを拒めずにいた。
吐息が音に変わる。セクシーな甘い声。
「ねえ、お酒でも飲みながら話をしましょうよ」
「まだ、二十歳じゃないんで」
「関係ないわ」
断るが、彼女には通じないらしい。ノーもイエスも。ミミは僕から離れて、リビングにある小さなバーカウンターへと酒を取りに行った。ロックグラスを二つと、ウイスキーの瓶を棚から取り出し、ソファの前のテーブルに置いた。リビング用の小さな冷凍庫からは氷を出して、アイスペールへ入れて、冷蔵庫から水を持って来る。
全てをテーブルに並べ終えて、彼女は慣れたように自分のグラスには氷とウイスキーを入れた。僕には少しの酒と水を入れて水割りを作ってくれる。そう言った店に行ったことはないけれど、こんな感じなのだろうかと思って恥ずかしくなる。
水割りを僕に手渡し、彼女は自分のグラスを持った。
「乾杯」と楽しそうに。
「乾杯……」不安げに。
僕は少しだけ口に入れ、痺れるようなアルコールの辛さに顔をしかめる。
彼女はロックの美しい琥珀色を何事もないかのように飲み込んでいく。唇がさらに濃く色付き、頬は桜色に染まる。小さな下をチロリと出し、唇を舐める。妙な艶めかしさに、僕がジッと彼女のことを見ていると、目が逢ってしまって視線を逸らす。
「あの」と僕は自分の弱さを誤魔化そうとした。「何か話があったんじゃないですか?」
笑って、その人は言う。
「ええ、あるわよ。『お酒を呑もう』って話がね」
「そんなことじゃなく。そんなことより、もっと大切な――」
その口を彼女の甘い紅が塞いだ。
ウイスキーよりも甘い、果実のような味がした。
「フフ」
赤が笑った。
紅が――。
魔性というべきか。
妖艶というべきか。
飲まれそうになるような魅力とは、このことだと理解した。まるで蛇の睨みのように、僕は動けない。その眼に徐々に引き込まれていくようだ。
僕の心は、巻きつかれてしまう。
それでも僕は必死に普通を取り繕おうとして、グラスの酒を口に入れた。それが思った以上に多かったらしく、僕の意識はそれから無くなっていった。
翌朝、僕が叩き起こされるまでの記憶は一切ない。
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