有無相生

亜夷舞モコ/えず

有無相生 ~克蘇魯の海~

 四月の海風は、冷たい。

 冷え切った湿った風が、ホテルのテラスへと吹き込む。

 着席した僕らの周りに、今ちょうど5台目のガスストーブが運び込まれ、ホテルマンがそれを着火する作業中だった。

 寒いのなら、中で朝食をとれば良かったのでは?

 そう思って恨めしそうに彼を見たが、こちらを見もせず海の方を見ていた。

 

「あの……」

「ん? どうしたの?」

「中の……」

 

 彼の目が、自分を射抜く。

 キレイな顔立ちに、言葉はさらに言いよどむ。

 

「まったく、君は――」

 彼は、手を口元に当ててほほ笑む。

「もう少し慣れなよ……お互いの裸も見た仲だろうに」

「もっと言い方を……」

 

 ホテルマンは、明らかに僕たちの会話を聞いていたが、一切顔には出さずに黙々と作業を続けていた。とはいえ、僕は考えてしまう。絶対にバックヤードで、噂になるよな。絶世の美男子というべき彼と、下の下――(彼は「中の中くらいはあると思うけど?」というが)――の醜男が……と。

 はあ……。

 

「まあ、いいから。零夜れいや、こっちに来て、世話を頼むよ」

「はい……」

 

 僕は、席をずらして、彼のすぐ隣へとやってくる。

 手の使えない彼のために、僕は手の代わりとなる。テーブルのナプキンを取り、それを膝の上にかける。どちらかと言えば、胸にかけてやりたいところだが、マナーを優先しろという彼の命令に従う。

 不器用なので、服を汚しそうで毎回怖いというのに。

 

「ねえ、また君、風呂に入ってないな」

「えっ……臭いですか?」

「匂いよりも、自分の身だしなみを考えなよ。そんなベタベタな髪で」

 

 確かに、数日入ってない。

 そんな気力は、なかった。

 

「食事が終わったら、一緒に風呂に入ろう。君もちゃんと自分を洗うんだよ」

「……はい」

 僕は恥ずかしさとわざと耳元で話しをする彼の声に赤面する。

 

 

 

 そして、食事が運ばれてくる。

 まずは軽い前菜のようなもの。

 ナイフで切り分け、フォークで僕が彼の口へと運ぶ。

 落とさないように、そして彼に嫌な思いをさせないよう細心の注意を払う。

 彼の口が、食べ物を受け取り、咀嚼していく。

 

 

 

 彼は、先天性四肢切断というものを抱えていた。

 両腕は二の腕の途中から、足は太ももの途中から、その先がない。

 移動は電動の車いすで行い、こういった周りの世話は人にやらせていた。

 自分でできることもあるが、彼はあえてすべてを僕にやらせる。

 あの日、僕の命は、この人に拾われた。

 それからの僕は、彼のペットである。

 

 

 

「ねえ」

 彼は言う。

 美しい顔。

 まだ高いキレイな声で、僕を呼ぶ。

「はい」

「あれ、見て」

 彼の目線の先には、ダイビングショップがあった。

 

 まだ寒い春先の海、周りにはこのホテルの他にはほとんど建物もないという立地に似つかわしくない店だった。僕らのいるホテルは、一泊途方もない値段を取られる、正直誰が止まるんだろう――いや、ここにいるのか――という高級ホテルだ。

 こちらの客が、立ち寄ってくれるとは思えない。

 例えば彼ならば「ダイビングしたいから、ハワイに行こう」などと言い出す人間だからだ。

 そんな彼が、寂れた印象のあるダイビングショップを指し示した。

 

「どうか、しました?」

「なんか、おかしいんだよね」

「?」

 

 僕もよくよく店を観察する。

 道路を挟んで斜め向かいに、店はあった。その先にはすぐ海がある。

 店の入り口には、CLOSEDがかけられ、中の電気もついていない。

 

「あれが……なにか?」

「さっきまで、電気ついてたんだけど、消えちゃったんだよね。もしかすると、、なにかあったのかなって」

「だから……?」

 嫌な予感はした。

「だから――いつもどおり、見てきて♡」

 

 ぐ……、

 だから、嫌なんだ。

 しかし、僕が彼に逆らうことはない。

 彼の命じるままに、僕は席を立った。

 このおかげで、僕は何度見たくないものを見ただろう。

 

 

 

 ダイビングショップの中は、真っ暗だった。

 表側の入り口は、鍵がかかっているようだ。

 このまま帰ると叱られるので、裏へと回り込む。

 裏にも扉があった。

 そこから砂浜を通り、海へと行けるようになっているようだ。

 砂浜から2本、往復した足跡が続いている。

 

「すいません……」

 中に声をかける。

 反応はない。

 僕の声の小ささもあるのかもしれない。

 

「あの、すいません」

 今度は、もう少し大きく。

 だが、反応はない。

 

「す、すみません」

 そういいながら、ドアノブを捻る。

 鍵がかかっておらず、扉は簡単に開いた。

「あの、入りますね。向かいにいたんですけど、急に電気が消えたと、僕の主人が言ってまして……それで、その……大丈夫かなって……」

 

 中に、入っていく。

 

 すると、急に、

「ぎゃあああああああ!」

 と悲鳴が響いた。

 

 何事かと僕は声のする方へと向かう。

 問題の場所はロビーだった。

 女の人が、床の上で震えている。

 そして、目線の先には……

 

 

 

 男が、死んでいる。

 ロビーにある熱帯魚の水槽に頭からつっこんで。

 あまりに異様な光景だった

 

 

         ◆

 

 

 僕の通報ですぐに警察がやってきた。

「あなたが第一発見者なのは分かるが、彼は?」

「ぼ、僕ですか?」

「なんで、いるんです?」

「向かいの……あの、ホテルで」

「ホテルぅ? あの高そうな?」

 中年の刑事は、変な顔でこちらを見た。

 

 それには確実に「なんで?」という疑問と、「お前みたいなもんが?」という蔑視が見える。

 僕には、つらい視線だ。

 

「で、どうしてここに?」

「いえ、僕の『主人』が電気が消えたから、見てこいと」

「主人? どういうことだ」

「神園……」

 

 そこまで言って、刑事はやめろというように手を突き出した。

 そして、深く息を吐き出し、頭を押さえる。

 

「あー、本当に言ってる」

『ええ、冗談ではないです』

 

 室内に彼の声が響く。

 さっきからずっとケータイは繋げてある。

 室内の様子も、少しは理解しているだろう。

 

「……本当に、いるんだな」

『火のないところに、煙は立たないっていうやつだよ』

「で、事件をかすめ取っていくと?」

『あなたたちの仕事が早ければ済むだけのことですよ』

 と言って、神園無は嗤った。

 

 おかげで、刑事の表情には青筋が浮かび上がったが。

 

 

       ◆

 

 

 神園無。

 、なんて。

 子どもにつけるべき名前じゃない。

 ましてや、彼に、だ。

 だが、彼の父や祖父は、生まれてきた子どもに恐るべき名前をつけ、彼を家から追い出した。神園家は、財閥とも呼べるほどのいくつもの企業グループを抱える大金持ちだ。ゆえに彼に一生遊んで暮らせるだけの金と屋敷――すべてのものを与え、家に関わることだけを奪った。

 そこから彼は、自由に生きている。

 好きに遊び、好きに生きた。

 そうして事件が起きれば、首を突っ込んだ。

 事件現場には、出向かず安楽椅子探偵あんらくいすたんていを気取って。



      ◆



「あの、主人は自殺なんですか」

「いえ、それはまだ」

 

 店の奥さんが、警官に詰め寄る。

 現実が受け入れられていないのか、それとも何か隠していることでもあるのか。

 

「大丈夫でしょうか、あの人」

『多分だけど、誰も君には言われたくないと思うよ』

「それは……そうでしょうけど」

 僕もまた心を壊した一人だ。

『ねえ、さっき見た感じ、奥さんの髪も濡れてたよね?』

「ええ、でも、その時にはシャワーを浴びていたって」

『ふうん……もう一度、ぐるりと店の中回れる?』

「はい」

 

 僕はカメラを掲げながら、室内を回った。

 さっきの刑事さんからは、すごい目で見られる。

 一度、海の方へと出て、入り直す。

 入ってすぐのところに、使いかけのボンベが2本とバケツが転がっていた。他にもいくつかの装備が乱雑に置かれていたり、干からびた海藻が落ちていたりと少し散らかっている。ホコリがうっすらと積もっているものもあり、予約者のリストは空白が続いているようだ。外から見たとおりに、寂れているのは嘘ではないのだろう。

 現場は、警官が行きかいバタバタとしている。

 ロビーの雑誌のナンバーは古く、日に焼けていた。

 男の遺体は、水槽から降ろされ、床に寝かされている。

 思いのほか小柄で、ダイビングスーツを着たままだ。

 死に顔は、酷く歪み、苦しみに満ちていた。

「……」

 死んだ姿とは、こんなものか。

 僕は、彼を見つめる。

 

『つまり、海から上がってきた夫が、なぜかわからないが自分の店の水槽に身を投げて死んだ。その時に水槽の水がこぼれて、ポンプのケーブルにかかりショートした。それを僕らが見たということか――それかそうしたかったか』

「何があったんでしょう。海の中で、変な物をみたとか?」

『いや、それは空想が過ぎる……おっと、それは?』

「どれです」

『死体の横、顔の右の方』

 

 確かに何かある。

 寄ってみて、気付いた。

 クラゲだった。

 透明で、見えにくい。

 だが、それは確かにいる。

 

『ああ、理解した。零夜、帰ってきていいよ』

「え? 帰ってきていいって……」

『これは、殺人でも自殺でもない。だから、帰ってきていい』

「はあ」

 

 僕は、ホテルに帰ってきた。

 当たり前ながら、刑事たちがそんなことを許すわけもなく、僕が呟いた「はあ」とは別のイントネーションで雄たけびを上げると僕に着いてきてしまった。

 

 

 

「高級ホテルだよ、着いてくるなよ」

「いえ、現場を見るだけ見て、何も言わずに帰るのはやめてください」

「君たちだって、調べればわかることだ。あれは、事故なんだから」

「事故!?」

 刑事も僕も驚く。

 全員が、ダイビングショップの奥さんを見つめる。

 

「ねえ、ダイビングショップは、旦那さんの趣味? それともアナタの?」

 ないが、ダイビングショップの奥さんに尋ねる。

「……わ、わたしのです……」

「だから、守りたかった?」

「いえ、彼が……もうダメだからって最期に」

「そう」

 

 

       ◆

 

 

「つまりは、彼女の旦那さんはダイビング中に事故に遭った。そこで、もう助からないと悟った旦那さんは、自分を自殺に見せかける細工を頼んだってことだ」

「自殺にするなんてことをして、何の得が?」

 

 刑事は聞く。

 普通はそうだ。

 事故に見せかけこそすれど、自殺に見せかけるのは普通ではない。

 保険金は半額になるところもあるという、それにはメリットがない。


「いや? けど、ってこともあるよね」

「事故であるほうがリスク?」

「そう、店を続けるには、事故が起きてはいけない。評判が下がる」

「だから、自殺のほうが良かった?」


 ゆえに異常な状況を生んだ。

 しかし、それには……


「証拠は?」

「そうです、証拠は?」

 刑事と奥さんが、詰め寄る。

「簡単な話だよ。使いかけのボンベが2本、あれは2人でいた証拠。なにより1人で潜るのは危ない」

 

 それは、そうだなと納得。

 ないは、続ける。


「あとは、部屋に落ちていたクラゲ」

「クラゲ? それは水槽から……」と刑事。

「そう。水槽があるから、当然のように見える。が、魚の水槽にクラゲは入れてはいけないんだよ。クラゲの毒で魚が傷むんだ。あれが部屋にいたとすれば……旦那さんを水槽に入れたときに上手にポンプに水でもかからなかったとか?」

「……」

 

 奥さんはただただ俯いていた。

 

「それで海まで水を汲みに行った。その時に濡れたし、クラゲも入ってしまったんだろうね。水を汲みに行ったときや海から帰ってきたときの足跡の話は不要だよね。いろんなところでやりつくされているわけだし」

 

 そういって事件は幕を閉じた。

 この後の話は、僕も知らない。

 彼は、本当に興味をなくしたようで、普通に食事を楽しんだ。

 朝食がブランチになったと悲しみながら。

 

 

 

 

       ◇

 

 

 久しぶりに筆を執ってみた。

 まだ本調子でもなければ、『死』は僕のすぐ隣にいる。

 だが、他の死を見つめることで、少しだけ自分の隣にいるそれの理解できた。

 こんなことを思う僕もまた壊れているのかもしれない。

 

          Wright by 雨野零夜

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