咎人の正体
あの事件から、もう2週間が過ぎていた。
私は高級な海辺の喫茶店の窓際に座って、ふっくらと焼かれたトーストと1杯の珈琲を飲んでいた。二人掛けの、この窓の近くの席が、私の特等席だった。これだけの品で福沢諭吉が財布から立ち去るくらいの代物で、値段と同等なほどの味も風味も――もはや、そんなことは言うまでもない。
舌が、体が一流を求めるのは、自然の摂理。
丁寧に手で書かれた紋様の陶器のカップ。
そして、優しく口に流し込む珈琲はコピ・ルアク。珈琲の実を食べるジャコウネコの体内で、熟成される豆。そして、排泄された豆だけを選別し、焙煎する特別な珈琲である。
これが、至高の味なのだ。
「さすがね」
そう呟いて、私はテーブルに置いていたネットブックをカタカタと叩いた。
警察は既にあの部屋から物をいろいろと押収して、事件の調査を進めていたみたいだけど、結局鏡花が主犯として事件に関わっていたとされたようだ。私に事情聴取があったのは、最初の数日でしかなかった。
――カラン。
店のドアに吊られたカウベルが、来客の知らせを告げる。
私はそちらを一瞥もすることなく、ただ窓から外を見ていた。外にあったのは、蒼く澄んだ海だ。海は世界のどこにもつながっているのに、世界の至る所で見せる表情が違う。それが私は大好きだ。
だから、あそこで働いていたのかもしれない。絶海の孤島で、料理を作っていたのかもしれない。
トントン――と近づいてくる足音。
それは確かに、私の方にやってきた。
◆
「ここ、開いてますか?」
声変わりもまだみたいな高い声。
白い服の、少年?
外見は年端もいかない美少年のようだが、彼の眼はとても冷たい。そして、人よりも深い絶望の深淵を覗いた眼だ。私は知っているのだ。私が思う強さという秤であり、私が負ける相手――それが自分よりも強い獣であると認識する。
そして、この顔は見たことがある。
あの零の、だ。
彼の弟か。
だが、彼の眼は絶望に染まってない……無邪気な子どものような目だ。
「どうぞ。といっても、ここは二人掛けですけど……」
「ああ、大丈夫です。彼は座りませんから」
と言って、飼い犬を外で待たせるのは当然とばかりに前の席へとやってくる。
電動車椅子に乗る彼には、手も足も途中から無い……しかし、顔は笑みに満ちていて、私の前に並ぶ品々を楽しみとばかりに眺めている。袖を口に当てる姿は艶めかしく、少年愛好者じゃなくても、眼に毒だ。
メニューが届けられ、付き人がそれを広げる。
「どうしようかな……千尋さん、何かおすすめはありますか?」
店員に尋ねるでもなく、私に聞く。
私・峠千尋は丁寧に説明してあげる。
「私は、これが好きですけど。アナタはどんなのが食べたいんですか?」
「あ、この店って珈琲だけですかね? じゃあ、飲める物ないや。ボク、珈琲苦手なんですよね。苦いから」
じゃあ――と彼は悪戯した子供のように微笑んで、口笛を吹く。
どこの金持ちのやり方だろうと思ったが、それでやってくる店員もさすがに訓練されているようだった。高級と謳っているだけのことはあるらしい。
「この店で一番甘い飲み物。あとパンを2つほど、オススメで」
「かしこまりました」と頭を下げて去る、ウェイター。珈琲の店に来て、一番甘い飲み物って何だろと抱く普通の疑問は、彼らには周知の事実なのか。
私は珈琲を口に含み、そっとパソコンを閉じる。
「ところで、どうして私のことを?」
「ああ、警察に知り合いがいるから、その人から事件のことは一通り聞いた」
「で、何か御用なの?」
「うん」
「どんなことかしら?」
「まあ、飲み物が来てからでもいいじゃない」
そう言って、輝かせた目を厨房の方に向けている。
逆にずっと立ち続けている男の方を見れば、彼の眼は濁って死んでいるみたいだ。
私は前を向いて、珈琲を口にする。
ウェイターが運んできた、とんでもなく白いカフェ・オレは見たことがないほど甘そうだった。これが本当にメニューに載っているものなのかは知らない。
「で、何なの?」
「えっとさ……」
彼の熱いカフェ・オレは、隣の付き人が必死に冷まそうとしている。そして小さく「ん」と言うたびに、慎重に口元にカフェ・オレが運ばれる。おいしいのだろう、話すことよりもそれを飲む方に一生懸命だった。
ひとしきり飲んで、やっと話を戻される。
「今回の事件のことなんだけどさ。警察の、偉い人と警部クラスの人にも知り合いがいるんだけど――ああ、これはただの余談だから気にしないで。でね、その人に兄の事件の話を聞いたんだ」
と、無少年はテーブルに紙の束を出した。
100枚ほどもある小説の原稿だった。
「これ、この」
無は、立っている男を指して言う。
「彼が書いた小説なんだ。今回の事件を元にしてる。うまく書けてるとは思うけど、どこか物足りないんだよね。まあ、彼の感情が死んじゃってるってのもあるんだけど――ああ、そんなことは良いんだよ。千尋さんがさ、かなり正確に事件の話を警察に話してくれたみたいで良かった、安心したよ。まあ、それを元に書かせてもらったんだけど。ホントに良く覚えててくれたみたいで、兄の推理の内容もしっかりと。
だけどさ――おかしいんだよ。彼の推理におかしい点が少しあったのに、それを誰も否定しようとしないってのはおかしいよね。それはどういうことなのかなって思ったからさ。直接会いに来たんだよ。あと、隠している物も返してほしいし」
「お兄さん、想いなのね」と誤魔化して見せる。
それは通用しない。
彼は笑っていた表情をいきなり変貌させた。
天使から悪魔へ。
堕天し、堕落する。
「そんなのじゃないさ。あの人はボクの敵。ボクが天使なら彼は悪魔で、ボクが悪魔なら彼は天使だった。そういう存在だったから。
ただ、片羽をもがれた気になっただけだよ」
そんな彼の眼があまりにも本気で、私は言葉を失った。
本当に、この子は、私の敵だ。
「何がおかしいのかを説明するよ。一番引っかかったのは武蔵の態度だった。彼は、なんで泣いたの?」
この〈最後の晩餐計画〉で料理を作っていたのは、時坂鏡花という男だったと証言した。
私も、そして零も。
彼は推理して、私はそれを承認した。
「でもね、武蔵の料理が作られる前日に鏡花は死んでるんだ」
探偵は先にある程度の
「武蔵が泣きながらステーキを食べたのは、鏡花の死の翌日のことだ。そして、あの部屋から回収された資料によると、彼が最後に食べたい料理として希望していたのは、『ステーキ』で間違いはない。ここにちゃんと書いている『〇〇店のステーキ』ってね。
それをあの家の厨房では完全に再現していた」
彼が行きつけにしていた店のステーキを、再現する方法を見つけるのは、とても大変だった。その店は今や無いが、そのレシピはなんとか見つけ出したものだ。
彼は推理を続ける。
「でも、それってさ。誰が作ったの? 千尋さんじゃないの」
「……」
「彼が泣くほどの料理を作ったのは、アンタしかいないでしょ? でも、これはまだパーツの一つ。アンタはパソコンのデータを完全にクラックしたと思ってるみたいだけど、アンタが使ってた手駒は、それほど優秀な男じゃなかったらしい。時坂鏡花は、手元にかなりの量の紙データを残していてね。それが元で彼の犯行のだと言われてるんだよ。知ってた?」
私は出来る限り表情を崩さないように心掛けた。
「じゃあ、二個目。警官たちも馬鹿じゃないんだよ。あの島のネットの環境がどうなってたのかも一応調べている。これはさ、一時ネットを使えない環境があったとアンタも証言してるし。そして警察の調査によれば、あの家のネット環境の中枢が、あのレオナルドの部屋なんだね」
「何が言いたいの」
彼は笑う。
「あれは使えなくなったんじゃなく、誰かが使えなくしたってことでしょう。屋敷の中をパニックにするためにさ。鏡花ももちろん知っていた。そして、正式に仕事をしていたのは、アンタだった。彼を人柱にして、自分は無力な助手であるように隠れたんじゃないのか?」
それの――私は言う。
無表情に言う。
「どこに根拠があるの?」
「まあ、待ってよ。三個目、アンタが島から出た時の荷物は、服とあとパソコンだよね。ちょうど目の前にあるやつ。そもそもあれだけの機能を持ったAIを移動するなんて簡単なことじゃない。
このパソコンの容量は32GB程度。説明時に喋ったというタブレットだって、容量はそこまでない。それと同程度だろ。そんなものに人工知能を移動させることが出来るわけがない。ましてや、兄と複雑な受け答えが出来るほどの物がね。そんなことは不可能だ。つまり、『レオナルド』というプログラムは、そんな複雑な物じゃないってことでしょ」
フフ――笑みが毀れる。
ここまでの相手に恵まれたことに。
「そうよ。『レオナルド』というのは、簡単に言うなら『自殺志願者発見プログラム』なの。それはネット内で『死にたい』っていう言葉なんか呟いた人なんかを探すもの」
「自白?」
「まあ、反論しようが無意味でしょ? 全て私の作戦。深雪のことだって知っていたわよ。イジメられて参加させられたことくらい承知。でも、あの島でのルールは私。私がすべて正しいの。で、返してほしいものだっけ? そんなもの持ってないけど」
付き人が私の目の前に、1枚の写真を取り出す。
それは朝に見るには、相応しくない写真だった。
男の脹脛に、鋭く尖っ物で傷つけた跡だった。
「これは、兄の脚の写真です。死ぬ前に考えた暗号を、一応念のために傷付けたんでしょう〈128‐195‐475‐434‐935〉という、ただ不規則な数字。小さな頃に考えた無様なほど単純な暗号です。でも、解き方はボクたちしか知らない。」
無は、昔を思い出すように遠くを見つめている。
「素数を使うRAS暗号を中途半端な知識で知っていたために、この暗号は出来た。解説しようか。素数を順番に上げていくと、2、3、5、7、11……となる。それで、順番に問題の列の数字を割ると、64、65、95、62、85。それらを五十音の行と列に当てはめると、『めもをみろ』という言葉になるんですが、いつも兄がメモしていた手帳が見つかっていないのが分かった。それを返してくれないかな?」
「……」
何も言わず、どんと手帳を放り投げた。
それを勝手に広げ、中を読み始めた。
「ああ、すべてが繋がった。今回の事件の本当の意味が」
◆
「ずっと引っかかってたんだよ」
無は話を始めた。
「何故、幸せに自殺させることを目的とした会に、ミミとハルミという本物と泥棒が存在したのかが。でも、そういうことか。あの時、家を発つ前に手紙が来ていたのを思いだした。金持ちの一人娘がいなくなったってね……調べたらそれが理恵だった。
小泉リエ。
彼女は参加者だった。そして、彼女こそが、最も持て成すべき最高の
「いえ、違うわ」
それを私は否定する。
「ただ、いつもと違う方が楽しいと思っただけよ。まあ、確かに彼女を愉しませるという意図もあったのは事実だけど」
無は頭を掻いた。
そして、顔を赤くして口元を歪める。悔しいのか……
「あれはショーだったとでも。自分が愉しければ良かったんだね。これは僕の推理が間違っていたよ。あなたがそこまで獣じみた人間であるというところまでは、さすがに考えてもみなかった。ただ、あなたはいつもと違う余興を見て、組織の仲間のもとに帰れば良かったんだね。そうか、そうか……」
「組織? ……それは分かったのね」
「タブレットが良いヒントだった」
無の言葉は、的確だった。
「そうかぁ、最初に言ってた『喋れるわけない』ってのは、それまで分かってのことなのね。私の組織の仲間が喋ってくれたの。でも、そこまで分かっちゃうとは。協力してくれたベートーヴェンには、申し訳ないわ……」
「これは、想像でしかなかったんだけど……アンタの名前はもしかして」
「そうよ、私が本当の、コードネーム:レオナルド」
私は、胸元を開いて、その印を見せる。
左の乳房の上に彫られた、『Leonardo』のタトゥー。
「レオナルド・ダ・ヴィンチの絵より与えられし名前――料理と死を結ぶのが私の役目だから、でも……今回は引き下がるわ。もう、出来ることが無いものね。声を貸してくれたカレには申し訳ないけど、これまでね。私、捕まりたくないし」
私は、立ち上がった。
ポケットから、財布を取りだそうとしたけど、止められた。
「こういうのは、男の役割ですから……金だけは僕も腐るほど持ってるから。それに、ここで貸しを作っておけば、また会えるかもしれないし」
「それじゃあ、また逢いましょう、いずれ」
私はこの場から立ち去るしかなかった。
それが敗退と取られても、それでも去らなければならなかった。
名探偵の前には、何も残らないから。
***
「さて、帰ろうか」
レオナルドと名乗った彼女が立ち去るのを、神園無は止めなかった。
止めることは出来たと思う。でも、たぶん止めた所で意味はなかったんだろう。
そういうことでなければ、神園無だって彼女を捕まえただろう。
神園無がしたことといえば、目の前に運ばれたパンを二つ掴んで、僕にひとつ渡したことだけだ。そして、お金を払って店を出た。
彼は言う。
「まあ、いいか」と。
彼にしてみれば、
これは復讐ではなく、
ただの好奇心なのだ。
「また、会おう」
そう、嗤った。
〈 Nobody knows the ―― 〉
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