For what purpose do people have to die? ➀

 白のポーンをd4へと移動して、僕の手は終わる。

 昼前の時間を利用して、僕はハルミの部屋に来ていた。

 ハルミはこの部屋の外に出ることを禁止させられているために、気晴らし用にチェス盤を持ってきてみた。何も考えないままに「ボードゲームは無いですか」と千尋に聞いたのが悪かった気もするが……まさか、こんなもので勝負することになるなんて思ってもみなかった。

 細かな宝石に覆われた駒と盤。

 黒い宝石と透明な宝石で、白と黒を色分けられている。

 なんとも言えない輝きの宝石、明らかに高価な物。それが3センチ程のチェスの駒たち32個を、埋め尽くすほど使われている。

 

 もちろん盤の黒と白の塗り分けも、同じ宝石の使い分けで描いている。石の1つ1つは確かに小さいから安いモノだろうけど、これだけでいくらの価値があるのかなんて、考えるの馬鹿らしい。


「聞きたくはないけど、聞かざるを得ないよね。君なら宝石の真贋は分かるでしょ。これは本物なの?」

「もちろん、本物の炭素の結晶ですね。普通のダイヤモンドと色違いのブラックダイヤモンド、それらだけで作られてます」


 ……こんなチェス盤、見たことない。

 金持ちの自慢の種以外の何物でもない。

 不要な金の使い方だ。


「うちの父親も隠れて作ってるんじゃないかなと思ってしまうよね。下手すると部屋丸ごと宝石で埋めたようなのを隠れて作ってそうで怖い」

「言っては悪いですけど、お義父様も結構な浪費家ですものね」

「そうなんだよ。そんな父親も普通に働いてるだけで浪費以上を稼いでるし、家にはそんなことをしなくても腐るだけの財産があるし――本気でこんなの見せたら、作り得るだろうから怖いよ」

「やりそうですね」とd5へ彼女も黒のポーンを進める。

「僕の家に普通の価値観を持った人はいないのかな?」

 僕は次の手を考える。c4かなと思ったところで、ハルミは「いるじゃないですか」と声を上げた。

「弟さんが、いるじゃないですか?」

「まあ、普通と言うよりも、マイナスって感じだからね、アイツの場合は」


 父のような浪費家をプラス、普通の人間をゼロとするなら、それよりも下なのだ、アイツの場合は。異常に消極的な人間だから。どうにも普通とは言い難い。たぶん目の前に金を積まれたところで、その価値を否定しようとするような人間だから。

 普通にc4へポーンを移動して考えてみる。

 金に価値があると思わず、世間的に勝ちのあるものを認めず、自分が大切なものの方がどこまでも大事。そんなヤツだ。

 

「ああ、アイツならどう考えるのかな、これを」

「そうですね……でも、今は御休養中と聞きましたが」


 僕は頷いた。彼が病んでいるのは否定できない問題だ。

 しかし、その原因は僕にもあるのだが、それに僕は手を差し出せないでいる。


「彼なら、どう思うかな?」

 考える。

 考えるしかない。事件のことも、生きることも。



「少し良いですか」

 丁寧に三度のノックをして、静かに入ってきたのは千尋だった。

「ハルミ様にお尋ねしたいことがあります。昨日、鏡花さんがここに来たはずですが、どうでしたか?」

「え?」僕はハルミに向き直る。

「鏡花が、来たの? なんで?」

 その問いに答えたのは千尋で、彼女の眼はずっとハルミを見ていた。

「昨日の夜遅くに彼は出て行ったんですよ。『彼女』に会いに行くと言っていました。それがミミ様か、ハルミ様かであることは想像できたのですが、どちらなのかを彼は言いませんでした。ここに鏡花さんが来たのですか?」

「はい、来ました」

「ハルミ……何か隠してるのか?」

 と僕は恐々聞く。

「違います。でも――」とハルミは千尋に向き直る。「ただ意思を聞かれました」

 彼女の眼は澄み、まっすぐ千尋を見つめていた。

「そして、今もその意思は変わりません。そう彼にも伝えました」

「わかりました」と千尋は礼をして去っていく。

「それでは探偵さん。早く謎を解いてくださいね、たぶんピースは簡単な物たちのはずですから。

 あと、ハルミ様、出来れば昼食は一人でお取りください。あんなことが起きた以上、他の家族の方々が零様の言葉すら納得してくれるか分かりませんので。出来れば、この部屋から出ないようにお願いいたします。あとで部屋も整理いたしますから」

 

 千尋はそう寂しく言い残して、去り際に強気に駒を動かした。

 黒のポーンをc4へと。

 自分の身ごときを顧みない自由すぎる駒の動かし方だった。


「えっと……どういうこと、今のは?」

「今のと言うのは、『意思』という言葉の意味ですか?」

「もちろん」


 ジッと彼女を見つめる。

 でも、それから目を逸らす彼女に、僕は絶望せざるを得ない。


「なんで、何も言わないの?」

「じゃあ、これがこの家の人間からの正式な依頼と思ってください。この院宣家におけるすべての謎を解いてください。そして、この事件の黒幕を暴き、事件を終わらせたときに、私の真の愛はアナタのものになりますから」


 そうして彼女の目は、ようやく僕を見定める。

 静かに、僕はそれに応えるように駒を動かした。




 チェスの勝負は僕の3戦全勝だったが、彼女もそこまで弱いわけではない。最初の勝負は例外としても、あれはかなり千尋の一手が乱暴すぎたからで、残りの2勝は僕も危ないところを乗り越えての辛勝だった。

 3戦目はあやうく引き分けになりそうだったくらいだ。手数が掛かりすぎていた。

 そんな勝負を終えて、僕は昼食のために食堂へ降りて行った。ハルミは疑われているというクダラナイ理由のために、1人部屋に残された。僕は、ハルミの待遇があまりに不憫であり、心外であった。

 

 昼食の席。

 席の空白が目立つ家族の席。2つの空席。そこには1輪の小さな花が飾られ、死者に弔いを捧げている。いなくなった執事の、彼の為の席なんてものは、家族のための食堂には関係ないのかもしれないが。院宣家の屋敷には、もともと僕らを含めた10人がいたはずなのに、もう7人となった。

 

 10分の7。そして、ハルミも別の場所に移された。

 今や、10分の6。

 死を司る他人の絶望には、どんな明るさもそぐわない。

 

 死は、死んだ人間の魂を糧にして、生者たちを暗い所に閉じ込める呪いだ。死んだ人間に苦しみはなく、ただ周りの人を、繋がりある人を、ずっと苦しめ続ける呪いなのだ。その淵から逃げ出すことのない無限地獄の紫の霧が纏わりついて、生者を陥れる。

 だから、人はその淵に寄り添って悲しみ続けることで、死者に寄り添おうとする。


 

            ◇



 運ばれてきたステーキは、焼け方がバラバラだった。熱い鉄板の上に置かれているから、だんだんと肉は固くなる。最初に運ばれてきた武蔵は満足していたようだが、僕の所に来たころには、かなり肉はウェルダンな状態だったし、食べ終わる頃になるとすでにゴムのように固くなっていた。

 でも、味付けはそこまで酷くはなかった。

 塩コショウの加減も、酸味のあるステーキソースの味もなかなかうまい。だが、確かに昨日の料理に比べればかなり劣ってしまう。

 普通のステーキだったと思う。

 それに涙した人間が一人。武蔵だった。

 何の涙であるのかは知らない。死んだ鏡花を想ってか、亡くした家族を想ってか、何に対しても感情を大げさに示すことのなかった人たちの中で、僕は初めて感情の片鱗を見た。でも、涙という大きな感動が料理に対してだったことが、僕には理解できない行動に見える。

 おかしいことではないけれど、それまでの行動からは不自然だった。

 彼は料理を一番に食べ終え、それでも残って満足に浸っていた。

 

 僕はそんな彼を見ながら、ずっと食堂の席に座って考え事をしていた。

 何故?

 何で?

 頭の中で、渦巻く言葉たちが絡まり続けて、うまく筋道にならない。

 そんな時でも食堂からは、一人、また一人と部屋へと帰って行く。

 僕と武蔵だけになって、千尋は痺れを切らしてか食器を片づけ始めた。

 ただ黙々と作業を一人でこなしていく。鏡花がいなくなって家事の量が倍増したのが厳しいのだろう。大変そうに手際よく片付けてしまう。彼女は機嫌悪そうに眉間に深い皺を寄せたまま、冷めた鉄板を片づけていく。


 武蔵は、背広の内ポケットからシガレットケースを取り出して、咥えた煙草に火を点ける。吐き出された紫煙に、空気が少し明るくなった気がする。重苦しい死を少しだけ殺してくれた気さえした。

 千尋は少し武蔵を睨みながら、全員の鉄板をカートに乗せて調理室に去っていく。

 武蔵は睨んだ千尋の顔を関係ないとばかり、薄い目をしてみていた。その瞳の奥には笑みさえ感じるような瞳をしていた。


「なあ」と武蔵は僕に話しかける。

「なんですか。煙草なら要りませんよ」

 彼は笑った。クダラナイ僕のジョークとさえ取れない反論を、クダラナイ僕の嫌味でさえない皮肉を、ただ笑っていた。

「アンタは、どれだけ分かった?」

「何も、分からないことだらけですよ。それともあなたが何か知っているんですか?」

「ハハハ、それは規則に反するんだよ。それにアンタがそこまで馬鹿だとは思わなかったからさ。もっとマシなヤツだと思ってた」

「どういう意味です?」

「分かること、分からないことを冷静に見れば分かるはずなんだよ」


 彼は立ち上がって、食堂を咥え煙草で歩き回る。

 分類する。それで、分かる?

 だったら、何をどうして……


「でも、それじゃ何も」

「なら、老人の最後のヒントだ。この家のどこかにある隠し部屋を見つけろ。そこに全てがあるらしい。私が言えるのは、それだけだ」


 それに対して、千尋が飛び出してきた。

 怒りに満ちたその顔、彼女まで聞こえるような大声で話はしていないのだけど。武蔵は怒りの顔をなだめるように笑って誤魔化していたのだが、それをはねつける強い怒りが勝っていた。

 武蔵もそれを理解すると、自分のネクタイを外した。

 それからブローチを外し、宝石『涙』をテーブルへと丁重に置いた。

 ネクタイは院宣家の家紋まで入っている立派な物のはずだが、ネクタイを千尋に投げつけ言うのだ。


「もう、こんなものに意味はなくなったというのに」

 投げつけられたネクタイは、千尋の肩に当たって床に落ちる。まるで崩れてゆく戦国の城から、燃え残った家の旗が落ちていくみたいに――

 もう、この家も終わりだと語っているように。

 崩れ去る城。

「もう、終わりだよ。何もかも」

 武蔵は部屋を堂々と出て行った。



 僕はすぐに彼を追いかけたが、彼は玄関から外に出るところだった。僕も同様に外に出て、彼を見つけようと見回す。彼は家の裏の方に走りだしていて……

 

 そして、そのまま。

 ――彼は飛んだ。

 

 でも、彼は鳥ではない。

 当り前のことだが、人間は鳥ではない。

 風に乗ることは出来ず、すぐさま落下を続けるだけ。落ちて行った先の岩場に、叩きつけられた彼の体は、真っ赤なサンゴのように咲いてみせた。

 彼もまた自ら死を選んで逝った。

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