有無相生∼極彩の夜~

 信号が一斉に色を変えた。

 上下も左右も、対角にも、歩行者が渡り始める。

 海外の観光客が、スマホを掲げて渡り、その様子を珍しいもののように撮影している。

 くだらない。

 そんなものをとって面白いのかね……と俺は思う。

 黙って煙草に火をつける。

 何人かの日本人が、嫌なものを見るように俺を見てくる。

 知るか、バカが。睨み返す。

 くだらない。

 どんなことも。

 俺は、ため息交じりに煙を吐いた。

 上を見上げれば、うるさいほどの光が降り注ぐ。

 大きなモニターが、夜を無くすほどの光を放つ。

 何もかもが邪魔をしているような気がして、特に吸わないままに煙草を足でも踏んで消した。まったく何もかもも五月蠅い。

 

 ――べしゃり。

 

 目の前に何かが落ちてきて、俺の顔に飛沫のようなものがかかる。

 その落ちてきたものに目を移す。

 なんだか、人のカタチをしていた。

 血が、ゆっくりと地面に広がっていく。

 

「きゃあああああ!」

 俺よりも近くにいた女がいち早く悲鳴を上げた。

 上から、女が落ちてきたらしい。

 それに気づいて、ようやく恐怖が襲ってきた。


「うわああああああ!」

 人が落ちてきた!

 目の前で、人が死んだ。

 人生は想像以上に恐ろしいものだったらしい。

 

 

      * * *

 

 

 現着した警官たちが、落下地点を封鎖と離陸地点の検証を始めたのに五分もかからなかった。目と鼻の先、横断歩道の向こうの交番から警官が飛んでやってきて、すぐに応援も到着した。

「これは自殺だろう」という判断で話を進め始めた警官たち。

 だが、それは「上」の現場検証をしていた刑事たちに起きた事件によって覆された。

 

 落下地点の現場検証を行っていた警官の一人が、自殺しそうになったのだ。

 ふらふらとし始めたかと思うと、何もない方向へ体が倒れていった。

 それを危うく、隣にいた人間がベルトを掴んで事なきを得たが、なぜか飛び降りたくなってしまうのではないか? そのような疑惑が生まれた。

 ゆえに「彼」が呼ばれたわけである。

 

 

        * * *

 

 

「あの、なんで僕が目隠しされているんです?」

 僕は彼に尋ねた。

 状況が状況だ、訳が分からない。

「死にたくなられたら、困るからだよ」

「だとしても、『下』で待っていても良かったのでは?」

「現場に興味があったんだよ。おっと、有!」

 僕の肩がぐっと左に押される。

 落ちるところだったらしい。

 現在、僕が 無 を抱きかかえ、目隠しした僕は執事の有に支えられ、落下事件が起きた現場となるビルの屋上――それも落下防止のフェンスの外側を歩いている。僕は厚手の布で目隠しをされ、落ちれば死ぬ高さの危険な個所を歩かされていることになる。それだけでも無茶苦茶な状況だ。それに僕の主人の命を抱えているんだから、プレッシャーは尋常ではない。

 普通にこのままで死んじゃいそう……


「危ないんですから、いつものように待っていましょうよぉ……」

「見ただけで、本当に死にたくなるなら、興味があるんだよ」

「もう少しで、落下地点です」

 有が冷静に後ろから言う。

 神経を集中させ、一歩一歩と足を運ぶ。

 下で待っていたら、いいのに。

 こんな風に目隠しで狭いフェンスの外を、しかも目隠しの罰ゲーム付で歩くこともなかったはずだ。どんな拷問ですか?

 無は、安楽椅子探偵を気取ってはいるが、何かと首を突っ込みたがる。

 こんな変な所にも来たがる。

 人を殺す映像があるというなら見たいと言って。

 

 

 人を殺す映像。

 警官たちは、そう呼んだらしい。

 現場検証の警官は、ビルの上から見える他のビルの上にあったモニターの画像を見ていたところ、急に自分が自分ではなくなるような気分を味わったと証言したという。

 それが報告に来た怒木警部の言である。

 いつも通り「ないいいいいいい♡」と来た彼女は、上手に彼を連れ出してしまった。

 そして、これである……


 このビルからは、いくつかのモニターが見えた。

 一番目立つのは隣のビルのもので、こちらからまっすぐに見えているものだ。少し場所を動くと、左右にもモニターが見え、光の波が押し寄せる。彼女の落ちた位置からも、二つモニターが見えたようだ。まあ、僕はまともに観察するよりも先に、さっさと目隠しさせられたけれど。


「あと2歩ってとこだ。ぜってえ落とすなよ」

 怒木警部が、フェンスの内からドス利いた声で怒鳴ってくる。

 目隠ししていても分かる。絶対キレてるよ。

 無にだけ優しいんだ、この人は。

 殺気みたいなのが飛んでくる。

 僕はさらに恐々と足を踏み出した。

「よし。ここだ」と無。

「すり足で靴のマークはがすなよ」と警部。

「気を付けてください」と有。

 いっぺんに言わないで!

 ここに右足の方の靴が、置かれていたらしい。

 左足は、履いたままだったとか。

 恐らく、ここに靴の跡がテープで取られている、んだろう……

 何も見えないし……

「おい、それだと取れるぞ」とまた警部の怒号。

「もう少し、足を上げてください、零夜様」と有が的確な指示。

「もう少し、腕を緩められない? 苦しいんだけど」と無まで。

 ああ! もう!!

 マジでいっぱいいっぱいなんだって!!!

 と言いたかったが、肝心な言葉は出ない。

 はあ……。地上に帰りたい。

 でも、そんな気持ちと共に、確かに変な感覚が足から背中へと走っていく。まるで彼女が呼んでいるような……。僕が、今は思ってはいけない気持ちだ。そして、普通は誰もが。

 僕は頭を振る。

「どうした、零夜。回れ右だ」

「ええ……、はい」

 僕は無のいうように、体を『彼女』の方へと向けた。

 僕の眼には、飛び立った彼女の死が写る。

 彼の眼には、大きなモニターからの眩しいほどの光が飛び込んでいるんだと思う。

 

 ……。

 無は、急に黙り込んだ。

 そして、何も言わずに暴れ出す。

「おっと……、ちょっと大丈夫ですか?」

 必死に彼を抑え込みながら、目隠しを取ろうとする

 が――

「やめほ」

 くぐもった声。荒い息。

 何か口に?

 いや、そんなものはない。

 僕は、命令を無視して、目隠しを少しずらす。

 モニターを見なければいいんだ。

「おいっ!」と無は叫ぶ。

「なっ……」

 無は自分の手を必死に噛んでいた。

 歯は肉を割き、血が滲んでいる。

 まるで狂ったように。

 腕を噛んで……

「やめてくださいっ」

「ぐぅ……」と無は呻くだけだ。

「ちょっと……」

「うぅう……有っ!」

 はい、と後ろで有が短く返事をし、僕のことを掴んでいる手に思いっきり力が籠められるのを感じた――のも束の間、僕たちの体は宙に浮いていた。

「うぇ?」

「警部!」

 無は叫ぶ。

「おっけい! 私の胸に飛び込んできな」

 僕たちは、フェンスの内側へと飛び、彼女は言葉の通りに無の体を無事に受け止め、僕は固い地面に叩きつけられた。

 なんだ、この扱い……。

 僕は痛みが走る体(折れてないことを祈りたい)を無理やり起こし、無に駆け寄った。

「だ、大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫。でも、手も痛いし、帰ろう」

「はい」

 僕らは、彼の鶴の一声で屋敷に帰った。

 彼は、何も語らなかった。

 


        * * *


 

「ひどい目にあった」

 彼は、有に傷の手当てをされながら呟いた。

 この人もそういう感覚があったらしい。

 酷い目に、という。

「あの、でも……事件はどうなるんです」

「ああ、あれか。あれは自殺だよ」

「え?」

 僕は言葉を失う。

 でも、それなら……

 無は語る。


 

「あの事件は、自殺。それ以上でも以下でもない。死にたくなる映像なんてものは、なかった。まったく面白みがないよね、こんなに怪我までしたのに?

 え? これ?

 どうしても気持ち悪くなっちゃってね。

 なんとか耐えようとしたら、ああなっちゃった。

 あれは、映像酔いだよ。激しい光が連発するシーンがございますの、かなり激しいやつ。あの近さで映像を見たわけだからね、きつかったよ。死ぬかと思った。

 冗談じゃない? ああ、それはごめん。

「なら、どうして事故じゃないのか、だよね。あの屋上の仕組みにある。

 僕が気分を悪くしたのは、正面にまっすぐ見えるモニターの光のせいじゃない。

 あの光と、さらに横のビルからの光が同時に飛び込んできたからだ。

 だからこそ、光に酔ったというわけだ。

 けれど、光が見えるようになったのは、フェンスの外に出て、ちょうどあそこに立った時だった。うまく角度が合わなかったけど、あそこに立った瞬間、2つの画面が同時に飛び込んできたんだよ。それで僕は本当に苦しくなった。

 つまり、彼女はあそこまで自分の意思で行ったってことになる。

 画面を見たから死にたくなったわけじゃない。あそこまで行く意思が間違いなくあった。

 フェンスを越えてあそこまで歩いたからこそ、彼女は不幸な落ち方をしてしまったわけだが。

 そこにはちゃんとした理由があった……といういう所だろう」



 

 無の言葉を、有は翌朝怒木警部に伝えてくれたらしい。

 彼女の家からは、確かに遺書が発見されたようだ。


『美しい夜に死に、私は蝶になりたい』


 彼女の手紙は、そう結ばれていたらしい。

 極彩の夜の羽をもつ揚羽蝶に、なれたことを祈るばかりだ。

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