3 勢力増強とその弊害

 1929年1月6日にハイデンの副官であったハインリヒ・ヒムラーが第4代親衛隊全国指導者に任じられた。


 この時の親衛隊は280名ほどの弱小組織であったが、ヒトラーの演説とヒムラーの管理体制の下で親衛隊はその規模を急速に拡大させ、1929年末には1000人、1930年末には2700人、1931年には1万5000人、1932年4月には2万5000人、1932年末には5万人以上になっていた。


 これは1929年10月24日のニューヨーク・ウォール街の大暴落(世界大恐慌)により発生した世界恐慌が関係しておりドイツにも恐慌が伝播され失業者がなだれを打ってナチ党やナチ党組織へ参加を希望し、親衛隊にも入隊希望者が殺到した。もちろん突撃隊は親衛隊より多くこの人材源を吸収した。


 これによりドイツ各地で徒党を組んで無法行為を働く突撃隊員が増加した。


 急激に勢力を増幅させた影響でついには党首ヒトラーの統制すらも受け付けなくなるほどに荒れ、当時選挙による合法的政権獲得を目指していたヒトラーにとっては頭痛の種となっていた。


 ヒトラーはこの突撃隊の無法分子に対する警察組織の必要性を痛感し、その任務を果たす組織としてヒムラー率いる親衛隊に目を付けた。


 加えて親衛隊の拡大に強く反対していた突撃隊最高指導者フォン・ザロモンがヒトラーとの対立から1930年8月12日に辞職することになり、さらに同月終わりには東部ベルリン突撃隊指導者ヴァルター・シュテンネスが党指導部に対して反乱を起こした。


 こうした情勢からヒトラーは1930年11月7日付けの命令で正式に親衛隊を党内警察組織と規定し、親衛隊は突撃隊の指揮に従う必要はないと定めた。


 ヴァルター・ダレの『血と大地』のイデオロギーに強く影響されていたヒムラーは、1929年4月に親衛隊の組織規定の草案をヒトラーやフォン・ザロモンに提出し、人種的な問題を親衛隊入隊の条件に据えるようになった。


 数で圧倒的に勝る突撃隊を抑え込むためには親衛隊を「エリート集団」にせねばならなかった。そしてヒムラーやダレのいう「エリート」とは金髪で青い目をしている長身の北方人種のことであった。


 農業を学び、農薬会社に勤めていたこともあるヒムラーは、こうした基準について植物と絡めてこのように語っている。


「品種改良をやる栽培家と同じだ。立派な品種も雑草と交じると質が落ちる。それを元に戻して繁殖させるわけだが、我々はまず植物選別の原則に立ち、ついで我々が使えないと思う者、つまり雑草を除去するのだ。

 私は身長5フィート8インチ(約173センチ)の条件で始めた。特定の身長以上であれば、私の望む血統を有しているはずだからである」。


 人材の供給源は恐慌の失業者や突撃隊からの引き抜きなどで豊富であった。ただし採用されるのはヒムラーの「品種基準」を満たした者だけであった。


 ヒムラーは1931年12月31日の命令で親衛隊員の婚姻条例を定め、人種・遺伝の観点から隊員の婚姻に問題がないかどうか調査するための機関として親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)を創設し、ダレにその長官に就任してもらっている。


 ユダヤ人からドイツを守る世界観闘争を担うのは親衛隊であるとの自負心を強めていった。

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