2-1-3 親衛隊特務部隊
はじめ国防軍はSSを「アスファルト兵士」と呼んで馬鹿にしていたが、次第に看過できなくなり、SSを敵視して圧力をかけてくるようになった。
特に陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将がSS特務部隊の勢力拡大について頻繁にヒトラーに抗議をしていた。国防軍は特務部隊については国防軍兵役免除相当と認めていたが、SS髑髏部隊とSS士官学校については兵役免除相当とする事を拒否し続けた。
マスコミを通じての特務部隊の隊員募集も国防軍から禁止されていたが、1937年10月には国防軍の圧力でSS国境警備隊も解散させられた。SS師団の創設という約束も毎年先延ばしにされていた。
しかし1938年2月4日に国防相ブロンベルク元帥と陸軍総司令官フリッチュ上級大将はSSや空軍総司令官ゲーリング上級大将の策動でスキャンダルを理由にして解任された(ブロンベルク=フリッチュ解任事件)。
ヒトラー自らが国防相を兼務し、国防省は国防軍最高司令部(OKW)に改組され、その長官にはヒトラーの「イエスマン」ヴィルヘルム・カイテル砲兵大将が就任し、また陸軍総司令官には同じくヒトラーに恭順的なヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ砲兵大将が就任した。さらに粛清人事が行われ、ナチ党に非協力的だった16人の将軍たちが強制退役させられた。
とはいえ国防軍を掌握したヒトラーがSSに肩入れするようになったわけでもなく、引き続き国防軍とSSの対立は続いた。ヒトラーに従順なカイテルでさえSSによる軍事介入の阻止が自分の任務と心得ていた。
国防軍からの統制要求もあってヒトラーは1938年8月17日に秘密総統布告を出した。これはSS特務部隊と国防軍の役割の区分を図るとともにSS特務部隊を恒久的戦力として認めるものであった。
この中でヒトラーは特務部隊について「国防軍の一部でも警察の一部でもなく、私の意のままに動く独立した武装部隊である」と定義した。
また「SSは基本的に政治組織であって武装はしないが、SS特務部隊、SS士官学校、SS髑髏部隊は内政に特別な任務を負っており、また戦時には陸軍の指揮下に戦時動員されるので武装・訓練・編成を施す必要がある」とした。
これによりこれまで軍事組織と認められていなかったSS士官学校とSS髑髏部隊も軍事組織として認められることとなった。
またSS特務部隊は常備部隊でありながら予備部隊を持っていなかったが、これについても「戦時にはSS髑髏部隊の特定の部隊をイデオロギーに適合する予備部隊としてSS特務部隊へ移籍させる」と定められた。
特務部隊の指揮権については戦時の戦場への出動の場合は陸軍に、平時の治安出動の場合は親衛隊全国指導者兼ドイツ警察長官(ハインリヒ・ヒムラー)にあるとされた。
平時には国防軍とSS特務部隊に組織上の繋がりはないとされ、これまで軍と揉めてきた特務部隊の人員確保の問題について裁可権はヒトラーにある事が確認された。
1936年3月のラインラント進駐にライプシュタンダルテが国防軍に従軍している。
1938年3月11日のオーストリア進駐(オーストリア併合)にもライプシュタンダルテの一個自動車大隊が陸軍第16軍隷下で従軍した。
1938年10月のズデーテン進駐(ズデーテン併合)にはライプシュタンダルテのみならず「ドイッチュラント」連隊と「ゲルマニア」連隊、また髑髏部隊の「オーバーバイエルン」連隊も従軍した。
このズデーテン進駐の際の教訓からSS特務部隊の自動車化が急速にすすめられ、1939年3月のチェコスロバキア併合の際にはSS特務部隊の4個連隊が従軍したが、陸軍の機械化師団に遅れることなくプラハに進駐できた。
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