2-1-2 親衛隊特務部隊

結果1938年以前のSS士官学校は最終学歴が小学校の者が40%を占めている。また農村出身者が多かった。陸軍の将校は軍人家庭の出身者が50%以上を占めていたが、特務部隊の将校は軍人家庭出身者は5%程度しかおらず、90%以上が農民家庭出身者であった。


 1936年4月1日には特務部隊と髑髏部隊はそろって国家機関として認められ、内務省の警察予算から経費を受けるようになった。


 1936年10月1日にはSS本部の下にSS特務部隊総監部(Inspektorat der SS-Verfügungstruppe)が設置され、ハウサーが特務部隊総監に就任。


 SS特務部隊はミュンヘンに駐留する「ドイッチュラント」連隊とハンブルクに駐留する「ゲルマニア」連隊の二個連隊から構成。


 さらに1938年のオーストリア併合後にはウィーンやクラーゲンフルトに駐留するSS特務部隊として第3SS連隊「デア・フューラー 」(SS-Standarte 3 "Der Führer")が創設された。


 しかしハウサーが特務部隊の指揮権を握るにはかなり苦労があったという。まずSS地区(政治予備隊はここに属していた)との間にも指揮権の争いが生じた。


 またライプシュタンダルテも特務部隊総監部の指揮下に入れられたが、指揮官のディートリヒはなかなかハウサーの指揮に服そうとしなかった。


 戦前期のSS特務部隊への入隊は一般SSより厳しく選抜が行われた。たとえば入隊条件として178センチ以上(ライプシュタンダルテは180センチ)以上の身長を要求していた。


 年齢上限23歳、「純粋北欧人種」であるか「圧倒的に北欧人種かファーレン人種」であることを要求。ヒムラーはのちに「1936年までは虫歯が一本でもある者はSS特務部隊もライプシュタンダルテも採用を拒否していた。初期の武装SSは最良の男たちを集めることができた」と豪語している。


 入隊後には厳しい訓練が行われた。特務部隊では陸上競技、ボクシング、ボートなどのスポーツ身体訓練がトレーニング計画の一部になっていた(陸軍では勤務後のレクリエーション扱いだった)。


 こうした訓練を特務部隊では将校・下士官・兵士問わず実施したため、将校・下士官・兵士の間に信頼関係が育ち、陸軍よりも強い仲間意識で結ばれていた。


 たとえばドイツ陸軍では部下が上官の大佐に呼びかける時には「大佐殿(Herr Oberst)!」と呼びかけねばならないところ、特務部隊では「大佐(Standartenführer)!」と敬称を付けずに呼び捨てることが許されていた。


 また戦前期の特務部隊は小規模な部隊だったため、陸軍歩兵部隊よりも高い水準の訓練を受けることができた。


 1939年には特務部隊はイギリス軍のコマンド部隊、アメリカ軍のレンジャー部隊に匹敵する訓練を受けていたという。


 実弾訓練や砲兵の弾幕射撃まで実施された。結果訓練で死傷者が出るようになった。「ドイツの優秀な若者を無駄に消耗させるのは止めよ」という批判に対してハインリヒ・ヒムラーはそれに同意しつつ、「平時に流れた血の一滴は戦時に流れる血の海を救う」などと反論していた。


 特務部隊の隊員数は1939年8月19日までに1万8000人に達した。

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