4 情報部の設立

 1930年7月にクルト・ダリューゲが親衛隊に参加し、親衛隊に入る前からベルリン親衛隊をヒムラーから独立して指揮することをヒトラーから認められていた人物であり、親衛隊移籍後にもベルリン親衛隊をヒムラーから事実上独立して指揮していた。


 ダリューゲは1931年3月の突撃隊員ヴァルター・シュテンネスの再反乱の鎮圧に活躍した。

 この一件は親衛隊の地位を大いに高め、この際にヒトラーはダリューゲに対して「SS隊員よ、忠誠は汝の名誉(SS-Mann, deine Ehre heißt Treue)」という賛辞を贈っている。


 この時の言葉が後に「忠誠こそ我が名誉」 という親衛隊のモットーの原型となった。


 なおシュテンネスの反乱にはプロイセン州内相カール・ゼーフェリンクの政治警察が援助していたといわれ、ヒトラーは党内の情報組織の必要性を痛感し、ヒムラーに親衛隊情報部の創設を指示した。


 1931年6月には海軍を追放され失業中だったラインハルト・ハイドリヒが親衛隊に参加した。ヒムラーはこのハイドリヒに親衛隊の諜報部「IC課」を任せ、1932年7月にこの組織は親衛隊保安局(SD)に改組された。


 SDは後に全ヨーロッパに監視の目を張り巡らせる巨大諜報機関に成長するが、設立当初はハイドリヒの妻リナが秘書を務め、彼の部下は3人だけという状態であった。


 しかしハイドリヒは精力的に働き、彼の索引カードには党内外の政敵の様々な情報が記載されていった。


 ハイドリヒの組織は急速に拡大され、ナチ党の各支部にハイドリヒの地方機関が設けられるようになっていった。


 突撃隊諜報部など他の党の諜報組織を出し抜き、政権掌握後の1934年6月9日に副総統ルドルフ・ヘスの声明によりSDは党唯一の諜報組織と定められた。


1932年1月25日にはミュンヘンの党本部「褐色館」の警備の全権がヒムラーに任せられた。


 1932年7月7日にはこれまでの突撃隊と同型の制服を改めて親衛隊独自の制服が制定された。この制服は現在でもある某制服製造会社がデザインした制服で現在でも人気が高い。


 これが親衛隊の制服として有名な「黒服」で突撃隊からの独自路線を強く示すためであった。

 ヒムラーは親衛隊の模範としてイエズス会を意識しており、その急速な勢力拡大と黒い制服から親衛隊は「黒いイエズス会」とも呼ばれた。


 突撃隊の前身組織の指揮官でナチ党古参であるエミール・モーリスは一時追放されていたが、1932年の復帰後に親衛隊上級大佐(隊員番号2番)に任命された。

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