2 結成

 本来は禁固刑5年の筈だったが政党員の罰金や彼自身の素行の良さから減刑され1924年12月20日に8ヶ月ぶりにランツベルク刑務所を出獄したヒトラーは、バイエルン州首相ハインリヒ・ヘルトと会談して二度とクーデターを起こさない事を約束するなどして、1925年2月25日にナチ党に対する非常事態宣言の解除にこぎつけた。


 これによりナチ党を再建することが可能となり、2月27日にヒトラーはナチ党の再結党宣言を行った。


 補足としてこの刑務所に投獄最中に書いた著者が『我が闘争』である。


 ナチ党組織の再建の中でヒトラーは、1925年4月中旬にユリウス・シュレック(初期ボディーガードの一人)に自らの警護部隊を再建するよう命じた。2週間後の5月にこの組織は「親衛隊 (Schutzstaffel)」の名前を与えられた。発足当時の親衛隊隊員数はわずかに8名であった。


 この8名は何も第一次世界大戦のドイツ義勇軍に従軍した戦争のエキスパート。


 初期の親衛隊には以下のような入隊条件があった。


年齢23歳から35歳まで

2人以上の保証人が立てられる

同一の住居に5年以上居住している旨を警察に届けてある

健康で頑強な体を持っていること

また親衛隊の行動指針にはアルコール中毒者、おしゃべり、非行歴がある者は酌量されない


 と定められていた。


 現在の警備員やボディーガードとしては最低限の条件とも言える。


 ドイツ人であればほとんど誰でも入隊できた突撃隊と異なり、親衛隊は設立当初から一定の入隊条件が存在していたことになる。


 親衛隊は設立後すぐにドレスデンにおいて共産党員50名によるナチ党集会襲撃の企みを未然に防いで功績をあげた。


 シュレックは親衛隊の拡張に努め、1925年9月には全ての地方党グループに親衛隊を設置するよう命令を下した。


 1925年クリスマスの親衛隊の報告によれば隊員数は1000人になっていたという。1926年春には「親衛隊司令部(SS-Oberleitung)」が創設された。


 1926年4月にベルヒトルトが亡命先のオーストリアから帰国してシュレックから親衛隊隊長の職を受け継いだ。


 1926年7月4日のヴァイマルでの第二回党大会で「血染めの党旗」が突撃隊から親衛隊の管理に移されることとなった。


 1926年11月1日にフランツ・プフェファー・フォン・ザロモンが突撃隊最高指導者に任じられたのを機に親衛隊は突撃隊の傘下に組み入れられ、同時にベルヒトルトは「親衛隊全国指導者」(Reichsführer-SS)(後に説明)の肩書を得た。


 ベルヒトルトはフォン・ザロモン(後の突撃隊の指導者)との軋轢を強めて辞職した。


 1927年3月にベルヒトルトの副官エアハルト・ハイデンが代わって親衛隊全国指導者に就任した。


 突撃隊最高指導者フォン・ザロモンは各地区の親衛隊員数を突撃隊員数の10%以下にすることを命じ、これによりハイデンは隊員数の削減を迫られた。


 そのため1928年までに親衛隊の隊員数は280人にまで落ち込んだ。フォン・ザロモンの命令もあるが親衛隊の規律の高さも厳し過ぎていたのもあった。


 ハイデンもフォン・ザロモンとの軋轢を強めて1929年1月6日に辞職することとなった。

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