6: 国家保安本部

 国家保安本部(Reichssicherheitshauptamt、略称RSHA)は、国家の警察機関である保安警察(ゲシュタポと刑事警察)と親衛隊のSD本部を統合する形で1939年9月に誕生した親衛隊の本部。


 ドイツ本国及びドイツ占領地の政治警察のすべてを統括する親衛隊の最重要本部。


 ドイツ本国およびドイツ占領地の敵性分子を諜報・摘発・排除する政治警察機構の司令塔。


 長官ははじめラインハルト・ハイドリヒSS大将が務めていたが、1942年6月にハイドリヒが暗殺された後にはハインリヒ・ヒムラーが長官を兼務して直接の指揮を執った。


 1943年1月からドイツの敗戦までエルンスト・カルテンブルンナーSS大将が長官に就任。国家保安本部は以下のように編成されていた。


 1933年1月にナチ党が政権を獲得した後、政権基盤を強化するためにハインリヒ・ヒムラーは反体制派を封じ込めることが必要であると考え、警察組織の中央集権が不可欠であることを認識。


 1936年に警察組織を親衛隊に吸収し、1939年に彼の右腕ラインハルト・ハイドリヒは保安局(SD)と国家機関の秘密国家警察局(ゲシュタポ)と刑事警察局を親衛隊の国家保安本部の傘の下にまとめ、全国的な国民監視機構を完成させた。


 これは第二次世界大戦の進展と共にポーランド総督領、ヨーロッパおよびソ連占領地区にも強権を執行し、恐怖支配の尖兵となった。


 特にゲシュタポはレジスタンスの弾圧、スパイ摘発、ユダヤ人の狩り立てに大きな役割を果たし、上位組織である国家保安本部以上に悪名高い存在。


 1925年、アドルフ・ヒトラーは自身を警護する部隊として突撃隊の下部組織として親衛隊を創設した。1929年、ヒトラーはまだ突撃隊上級大佐であったヒムラーを第4代の親衛隊全国指導者に任じた。1931年、ヒムラーはハイドリヒに自身の警護隊であるSDを指揮させ、党内外の敵性分子を諜報・監視する役割を与えた。


 1933年3月23日、ヒトラー独裁体制が合法化される(全権委任法)。ヘルマン・ゲーリングはゲシュタポ(プロイセン州秘密警察局)を創設し、ベルリンの政治的大掃除を始める。


 1934年4月、ヒムラーがこのプロイセン州秘密警察局長職を引き継ぐ。1934年5月、プロイセン州内務省はドイツ国内務省に移行し、ゲシュタポもその管轄権を全ドイツに拡大。


 1934年6月30日の長いナイフの夜では、ヒムラーはヒトラーの命令に従い、親衛隊を使って党内不平分子の突撃隊指揮官のエルンスト・レームやその他の反党分子を殺害。


 1936年、ヒムラーは全ドイツ警察長官 (Chef der Deutschen Polizei im Reichsministerium des Inneren) に任ぜられ、国内すべての警察権を握った。ヒムラーは手にした警察権を下記の通り部下に委ねた。秩序警察はクルト・ダリューゲに、保安警察はハイドリヒに指揮させた。


 秩序警察(オルポ) - 都市や地方の犯罪を取り締まる通常警察(制服を着た警察)

・都市警察

・都市部以外の特定地区を管轄する警察

・市町村警察


保安警察(ジポ) - 政治的、民族的な敵性分子すべてを取り締まる政治警察(私服を着た警察)

・秘密警察局(ゲシュタポ)

・刑事警察局(クリポ)


1939年、9月27日付のヒムラーの内務省令に基づき、ハイドリヒは、政治警察活動の重複を避けるために管轄分野を調整、党機関の親衛隊の SD と国家機関の保安警察を一つの傘の下に纏める。


 この傘が親衛隊の国家保安本部である。これにより親衛隊の主導による統一的な敵性分子の制圧システムが完成。しかし、国家保安本部の全員が親衛隊員であった訳ではなく、従来からの警察官僚がナチス党に入党することなく勤務することが可能であった。


 SDは第Ⅲ局(国内諜報)、秘密警察は第IV局、刑事警察は第V局に配された(詳細は下記の組織を参照)。この時からハイドリヒの官名は公文書に「Chef der Sicherheitspolizei und des SD」、つまり保安警察および親衛隊情報部の最高責任者と記載されるようになる。


 戦争の拡大によりドイツ海外における諜報部門として国家保安本部に第Ⅵ局が設けられ、局長には30歳で親衛隊少将兼警察少将であるヴァルター・シェレンベルクが配される。彼は以後、ヴィルヘルム・カナリス提督の率いる陸・海・空の三軍に関わる軍事情報収集を任務とするアプヴェーア(国防軍情報部)と海外諜報分野におけるライバル関係になる。


 1941年、独ソ戦開始に伴い、ハイドリヒは国家保安本部の SD(第III局)、秘密警察(第Ⅳ局)、刑事警察(第Ⅴ局)の各局から数個のアインザッツグルッペン(特別殺戮部隊、移動特別部隊、特別行動隊とも訳される)を創設し、占領地のユダヤ人を排除するために国防軍の進撃に追随させ、占領地でユダヤ系住民を移住させると称して集結させ、彼らを殺戮した。


 銃撃による大量殺戮は部隊員に過大な精神的負担を強いる(そもそも処刑を見学しに来たヒムラー長官自身がひどい精神的ダメージを受けてしまっている)こととなり、のちにアウシュヴィッツ収容所に見られるガス室(チクロンB)による大量殺害の方法が案出されるきっかけになった。


 要は人の手ではなく化学の力で間接的に殺すことにより精神的負担を軽減させるという考えでこれに成功。

 以後、彼らは毒ガス(サリン)により処刑を行うことになる。


 無抵抗の民間人の殺戮を見聞きした陸軍上層部にヒトラー排除の陰謀が広がる。民間にあってもミュンヘンにおけるショル兄妹の白バラ抵抗運動のきっかけにもなった。


 1942年6月4日、RSHA長官ラインハルト・ハイドリヒがプラハにて英国の派遣したチェコ人コマンド部隊に暗殺された。RSHA長官の地位は親衛隊全国指導者ヒムラーがしばらく兼務したのち、1943年にエルンスト・カルテンブルナーが引き継いだ。


 1944年、カナリス提督が反ヒトラーの陰謀に荷担したために国防軍情報部の海外諜報部門が国家保安本部に移行、軍事情報部 (Militärabteilung der RSHA) となった。

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