第20話「バッティングセンターの恋」

 ああ、その笑顔だ。




 今まで小野寺にまとわりついていた緊張の糸がするりとほどけた。釣られて笑みを浮かべる。彼女はよく笑う方だ。笑顔の種類にもいろいろあるけれど、今の笑顔が一番好きだ。例えるなら、手を引っ張るでも背中を押すでもなく、ただ寄り添うだけ。そんな彼女の笑顔に小野寺は支えられ続けてきた。小さい時からずっと。


「俺、松崎さんと出会えて良かったです」

「いきなりどうした」


 呆れるように松崎は返した。構わず小野寺は続ける。


「松崎さんは俺が野球を始めたきっかけになった大事な人で、憧れで、超えるべき目標でした。だけど、こうして一緒に話していると、だんだん俺の中で松崎さんの存在が大きくなって、憧れとか、目標とか、どうでもよくなった訳じゃないけど……それ以上にもっと一緒にいたいって思った。松崎さんと、幸せになりたい。将来を一緒にしたい。これが今の、俺の夢です。だから……」


 言葉が途切れ途切れになる。本当はまだ続けたい言葉がある。だけど感情が高ぶってしまって喉奥につっかえてしまった。いつの間にか瞳からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。自分でもなぜ泣いているのかわからない。


「ああもう、ほら泣くな泣くな。こっちまで泣いちゃうじゃん」

「すみません。でも、涙が止まんなくて……」


 気が付けば松崎も涙を浮かべていた。ほんの少し小野寺の方に体を寄せて、よしよしと頭を撫で、空いた手で彼の手を握る。まるで赤子をあやしているようだ。それでも彼の涙は止まらなかった。


「松崎さん」

「何?」

「抱きしめても、いいですか?」


 ピタリ、と頭を撫でる手が止まる。流石にハグはどうだろう。再び松崎の脳内コンピューターが稼働する。やはり告白されてすぐにハグはどうだろう。でも、彼なら……。


「……いいよ。おいで」


 小野寺は松崎の方へ身体を寄せると、ぎゅっと彼女を抱きしめた。松崎の体は想像以上に華奢で細い。小さい頃はあんなに大きいと感じていた彼女も、すっぽりと小野寺の胸の中に納まってしまった。


 全身に多幸感が染み渡る。このまま離したくない。あれだけ咽び泣いていた小野寺も、ようやく落ち着きを取り戻し始めた。


「どう? ちょっとは楽になった?」

「少しは」

「そりゃどうも」


 ポンポンと松崎は小野寺の頭を撫でる。その姿は母親そのものだ。


「それで、さっき言いかけたのって何?」

「え?」

「ほら、『だから』の後。もしかしてこれ?」

「ああ、いや、違くて……」


 泣くのに忙しくてすっかり忘れていた。そうだ、さっき言いかけて感情が高ぶってしまったんだ。しかし冷静になってあの台詞を口にするのはとても恥ずかしい。多分告白した時と同じ、あるいはそれ以上の緊張感だ。勢いに任せるのと冷静になって言うのとは訳が違う。


 抱擁を解き、小野寺は松崎の目を見つめた。余計に恥ずかしさがこみ上げてくる。ドクン、ドクン、と心臓が張り裂けそうだ。受験でもこんなに緊張したことないのに。


「だから……松崎さん…………」


 言葉はもう喉まで出かかっている。あと少し、だけどその少しが果てしなく遠い。息遣いが荒くなってくる。言わなきゃ。そう思えば思うほど胸がどんどん締め付けられていくような感覚に襲われた。


 そんな彼の様子を見かねて、松崎は彼の両手を握った。




「頑張れ」




 優しい声だった。全てをあたたかく包んでくれるような、そんな声だった。彼女の手からもぬくもりを感じる。


「君がどんなことを言っても、私はちゃんと受け止めるから。大丈夫。勇気を出して」


 ほら、と松崎は笑った。勇気をくれる魔法の笑顔。今なら言える気がする。一度呼吸を整えて、彼女の目を見つめる。




「ずっと……ずっと俺のそばにいてください」




 声は震えていた。「大好き」より何倍も口にするハードルが高い。まだ心臓がバクバクと音を立てている。


彼の言葉を受けて、松崎はニッコリと笑った。




「喜んで」




 眩しすぎるくらいの西日に包まれながら、2人は口づけを交わす。ほんの2、3秒だったけれど、とても長く感じた。初めての唇は、とても甘く、幸せな味がした




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