第13話「最後の夏」

 青い空、白い雲。まさに夏を象徴する天気だ。


 地区大会決勝。遂にここまで来た。学校にとっては4年ぶりの晴れ舞台だが、昨年、一昨年とベンチ入りすらできなかった小野寺にとってはこれが最初で最後のチャンスだ。奇しくも対戦相手は昨年の代表校。雪辱を果たしたいところだ。


 9回ウラ2死ランナーなし。2対1。もう後がないところで打席に立ったのは小野寺だった。守備では堅実なプレーを見せた彼だが、打席ではまだいいところがない。ここで打って次へ繋げなければ負けてしまう。まるでいつかの松崎の試合みたいだ。あの時は鮮やかな逆転ホームランだった。10年以上経った今でも鮮明に覚えている。


 バッターボックスに入ると不思議と周りの音が聞こえなくなった。ベンチからの声援も、ブラスバンドのサウンドも。まるでこの世界から音が消え去ってしまったようだ。その分肌を伝う汗や熱がいつもより鋭く伝わってくる。


 相手はプロも注目する2年生スラッガー。多彩な変化球と最高時速150キロのストレートを変幻自在に使い分ける厄介なピッチャーだ。昨年の決勝もこの投手にやられた。実際小野寺もこのピッチャーに手も足も出ていない。


 クイッと右手でヘルメットのつばを触り、左手に持ったバットをピッチャー方向に伸ばした。小野寺のルーティーンだ。その後すぐにバットを構え、投手を睨む。絶対に、絶対に次へとつなげなければ。自然とグリップを握る手に力が入る。


 1球目は空振り。2球目は三塁アルプスへのファウルボール。あっという間に追い込まれてしまった。やはり変化球だ。バッターが嫌がるところへボールを運ぶのが本当に上手い。球がバットに当たらない。当たったとしても飛ばない。これで自分よりも一つ年が下なのだから、本当に化物だとつくづく思う。


 弱気になるな。


 小野寺はそう自分の中で言い聞かせながらバットを構えた。胸の鼓動が、頬を伝う汗が、先程までとは比べ物にならないほど鮮明に五感を刺激する。


 ピッチャーの指からボールが離れた。それと同時に小野寺は瞬時に軌道を計算する。おそらくど真ん中のストレートだ。打ち返す、と判断したのは脳よりも身体だった。腰の回転を軸に、小野寺は勢いよくバットを振る。しかし金属音は聞こえず、放物線も見えず、自分たちではない野郎軍団の歓声だけが情報として入ってきた。




 負けた。




 それを理解するのに少し時間を要した。ピッチャーマウンドで円陣を組む相手校、首を垂れる自分たちのチーム。沸く三塁アルプス、沈む一塁アルプス。マウンドでの少年たちは皆天に向かって人差し指を掲げていた。ここで小野寺はようやく自分たちが敗北したことを受け入れた。


 整列、と審判の号令と共に小野寺たちは野球帽を取り、頭を下げた。グラウンドに虚しいサイレンの音が響き渡る。隣を見れば、入学時からずっと切磋琢磨してきた同級生たちが天を仰ぎ、目元を手で押さえていた。肩が震えている。まるで声のない叫びを聞いているようだ。


「ごめん、みんな……」


 なんだか自分が不甲斐なく思えてきた。何もできなかった。次へ繋ぐことができなかった。悔やんでも悔やみきれない。目頭が熱くなる。小さい頃からずっと憧れていた舞台。高校に入り、1年、2年ではベンチ入りすらできなかった。3年目にしてようやくスタメンになることができたのに、それなのに……。


 小野寺は周りのチームメイトと同じように、目元を抑え、咽び泣いた。現実というものはいつだって残酷だ。




 *




「俺、次の試合スタメンなんですよ」


 店に訪れて開口一番に小野寺はそう言った。昨日の夕方のことだ。


 昔から小野寺は表情が顔に出る方ではなかった。不愛想で無口。それでも彼がどんな感情を抱いているのかはわかる。表情に出にくいだけで、ちゃんと笑ったり、ふてくされたり、いろんな顔をする。だけどこの時の彼はいつもに増して嬉々としていた。仏頂面からにじみ出る笑顔、何より声がいつもよりも弾んでいる。よほど嬉しかったのだろう。


 小野寺の上達ぶりは彼の幼い時を知っているからよくわかる。昔は練習にもついて行けず、よくぜえぜえと息切れを起こしていた。大丈夫かな、なんて当時は幼いなりに心配していたけれど、今となってはもうあの時のか弱い野球少年の姿はどこにもない。いつの間にか背丈は松崎よりも頭一つ分大きく、しっかりと筋肉がついていて、どんなに激しい運動をしたってバテない体力も身についた。


「すごいじゃん! おめでとう。じゃあ明日は私も応援に行くから、ちゃんと頑張っておいで」

「頑張ります」


 そっけない台詞だが、声には確かに気合が入っていた。いつものように小野寺はコインを購入する。高校球児にもなると、140キロのボールにも対応できるようになった。カキン、カキン、と身体の使い方を確認するようにバットを振る。


「……大きくなったなあ」


 彼の後ろ姿をカウンターから眺めながら松崎はポツリと呟いた。まるで母親になった気分だ。思わず少年の頃の小野寺と今の彼の姿が重なる。今も昔も野球に一生懸命なところは変わっていない。だけどあんなにひょろひょろだった子供が甲子園を目指し、スタメンにまで上り詰めた、なんて今でも信じられない。本当に立派になったな、と松崎は微笑んだ。


 勝ってほしい、と本気で願った。いや、きっと勝てるだろう。小野寺は強い奴だ。これまでずっと彼の成長を見てきた自分が言うのだから間違いない。


 しかし現実はそう甘くはない。小野寺の守備は悪くなかった。ライトで構えていたが、飛んできたフライやヒットを的確に処理し、堅実なプレーを見せた、しかし打撃では何の活躍も出来なかった。やはり相手投手が強い。それは松崎の目から見てもわかることだった。あんなに練習したのに、手も足も出ない。そんな彼の様子を見るのが辛かった。頑張れ、と叫ぶ気力もなかった。勝ってほしい。ただそれだけを信じ、願い、祈り続けた。


 泣きそうになった。それは試合に感動した、なんていうものではなく、努力は必ず実るとは限らない、ということを突き付けられたからである。




 *




 試合に勝っても負けても蝉がうるさいのと夏が暑いのは変わらない。表彰式が終わり、小野寺たちは帰りのバスに向かっていた。まだ何人か鼻を啜り、涙を流している。小野寺はすっかり落ち着きを取り戻したが、その目に生気はない。周囲の空気はお通夜ムードだった。


「あ」


 小野寺の前方に見知ったシルエットが現れた。白いTシャツに紺色のジーンズ、相変わらず高く括られたポニーテール。そうか、松崎さんも応援に来ていたんだった。笑顔とも何とも言えない歪な彼女の表情は、自分たちを気遣っていることくらい小野寺も見抜いていた。それが彼女の優しさだということも知っている。だけどその優しさがより自分たちを惨めにさせた。キリキリと胸が締め付けられるように痛い。




 情けないな、俺。




 そこから小野寺はバスに乗るまでずっと下を向いていた。松崎の方を見たくはなかった。そんな憐みの目線を向けられたくない。背負っているバットやグローブなどの荷物がいつもより重く感じる。溜息をつく余裕すらない。悔しくてどうにかなりそうな感情を押し殺しながら、小野寺は座席についた。




 夏が終わった。呆気ない夏だった。

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