第12話「卒業」

 松崎が卒業してからは何もない穏やかで平凡な日々が続いた。まあ元々何もない日々だったのだけれど。彼女が進学したことで少しは会える機会が増えるかと思ったが、案外変わらない。けれど休日になるとちゃんといるのはやっぱり嬉しかった。


「学校、どうですか?」

『楽しいよ。小野寺くんこそ後輩できてどんな感じ?』

「先輩って響きに全然慣れないです」


 彼女との作業通話もまだ続いている。ほとんど松崎が一方的に喋るだけの一時的なものなのだが、聞いていて心地よかった。


『私も一応先輩なんだけどな』

「松崎さんは……松崎さんですから」

『なにそれ』


 ケラケラと松崎は笑った。朗らかな彼女の笑い声が好きだった。こんなこと恥ずかしくて言えないけれど。


 松崎と通話してからは成績は徐々にではあるが右肩上がりになっている。元々彼女は勉強も秀でていた。小野寺が「ここがわからない」と尋ねると、松崎は丁寧に教えてくれた。それはもう教師とは比べ物にならないくらいに丁寧だった。


 そんな2年生の日々を送っていた夏、3年生が引退した。準レギュラーポジションだった小野寺もなんとかレギュラーを勝ち取った。榎並と秋元も同じくレギュラーだ。柴山ももちろんそうだが、主将という肩書まで手に入れていた。


 バッティングセンターにも相変わらず通っていた。それは柴山ももちろん、榎並や秋元も常連客になった。柴山がキャプテンになって「いいお店がある」と広めてくれるのかと思ったが、そんなこともなく、あまり客足は増えなかった。


「別に広めてもいいけど、学校と離れてるからあんま来ないし、客が来たとしても松崎さん狙う輩が増えるかもしれないの、お前嫌だろ?」


 柴山はまだ小野寺が松崎のことを好きだと思っているらしい。そんなことはない、と否定し続けるのも面倒臭くなったので、現在は小野寺もなあなあで返している。それでも「好きでしょ?」と問われれば「違う」と真っ赤にして返すけれど。


 だけど……柴山の言っていることはどこか的を得ている。確かにこの店の客が増えるのは嬉しいが、松崎目当てでやってくるのは嫌だ。それは健全に野球をやってほしい、という感情からではなく、彼女を誰のものにもなってほしくない、という不純な思いからだった。


 結局そのまま何事もなく、小野寺たちは3年生になり、あっという間に卒業の時期を迎えた。卒業式を終え、高校受験も終えた小野寺は、久しぶりにバッティングセンターへと足を運んでいた。受験の報告と、鈍った体を動かすためだ。


「そっか。私と同じところ行くんだね」

「はい。そこなら甲子園狙えるかなって」


 元々彼女が通っていた学校は野球が強いと常々言われていたが、ここ数年でさらに勢いを増している。特に昨年の夏の地区大会準決勝では前年甲子園優勝校と対戦し、見事勝利した。決勝では惜しくも敗れはしたが、それでも前年優勝校を負かせた、というニュースはすぐさま全国ネットで知れ渡り、一気に学校の評価を底上げした。


 ちなみに柴山は少し離れた進学校、榎並はこの近くの工業高校、秋元はそこから数駅離れた場所にある普通の高校にそれぞれ進学することが決まった。


「やっぱり坊主にするんだ」

「そうなるんですかね」


 少し伸びた短髪をさすりながら、小野寺はコインの自販機に300円を投入する。


「その髪型見られなくなるの寂しいな。なんで野球部って坊主しか認めてないんだろうね。私ずっと気になってた」


「知らないですよ。まあ、坊主だと頭洗うのすごく楽ですけどね」


 自販機から出てきたコインを手に取り、バッターボックスに向かった。中学の野球部を引退してからは受験勉強であまり身体を動かせていなかったため、久しぶりにバットを持つとやはり感覚が鈍っている。いつもと比べて当たりが悪い。


「やーい、三振してやんのー」

「うるっさい!」


 後ろから聞こえる松崎の野次がほんの少し煩わしい。その感情を振り払うかのようにぶんとバットを振った。しかしボールには当たらなかった。


 結局今日は何一ついいところなしで、小野寺は打席を出る。待ち受けていたのは、ニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべる松崎だった。


「……なんですか」

「いやあ、そんなんでうちの野球部に通用するのかねえ」

「久しぶりなんで、仕方ないでしょ」

「言い訳するんだ。へえ」


 松崎は嫌見たらしく笑った。そこまで煽られると、断らざるを得ない。小野寺はもう一度コインの自販機の前に立った。まいどあり、と彼女が言ったのを聞こえないフリをして、再びバッターボックスに向かう。


「そういえば、松崎さんって就職先決まってるんですか」


 鉄網の扉の前で、小野寺は松崎に尋ねた。


「隣町に最近スポーツジムができたんだけど、そこのトレーナー。ちょっと遠いけど、駅から近いから通勤は楽だよ」


 ジムのトレーナー。確かにスポーティな彼女にはうってつけの仕事場かもしれない。てっきり父に代わってここを経営するのかと思っていたけれど、どうやら違ったらしい。そもそも松崎の父親は数年前の胃潰瘍事件の後、身体には細心の注意を払っているらしく、ここ数年の健康診断ではどこも異常が見られないらしい。


「ここは継がないんですか?」

「それはもっと先かな。お父さんまだピンピンしてるから。あれはあと50年は生きるね」


 50年後、となると100歳はゆうに超えているだろう。流石に松崎のわざとらしい口ぶりから冗談だというのはわかるが、それを冗談だと思わせない彼女の父親の生命オーラもすごい。初めてここに訪れた時よりも筋肉の量が段違いに増え、その仕上がり具合は小野寺も密かに憧れている。あれだけ逞しければ、この店は客足が少ないということを除けば大丈夫だろう。


「松崎さんが継ぐ前にここ潰れなきゃいいですけど」


「失礼な。まあまあお客さんは来てるから。それに、君という常連客がいるからそんな心配は全然ないよ」


 ニッ、と松崎はいたずらっぽく笑った。昔から小野寺はこの顔に弱い。それにさっきの彼女の台詞……あれは口説き文句か何かだろうか。身体中を駆け巡る照れを抑え切れない。顔が火照っているのが自分でもよくわかる。それはバッターボックスに立っても収まる気配はなく、そのせいか普段よりも集中ができなかった。なんてことをしてくれたんだ、と少し恨みながら小野寺はバットを振り続けた。


 結局ヒット性の打球は全30球のうちわずか5本ほどだった。カウンターの方を見ると案の定松崎はニヤニヤと気持ち悪い笑顔で出迎えている。このまま終わるのは悔しいが、残念なことにお金がない。今度来るときは彼女がいないときにしようか、なんてことを考えながら小野寺は店の扉を開けた。


「また来ます。今度は勝負しましょう」

「お、いいね。負ける気がしない」


 その言葉は冗談を言っているようには思えなかった。不意に見せた不敵な笑みが何よりの証拠だ。ブランクは圧倒的に向こう側にあるのに、それでも勝つ自信しかないなんて、やはりこの人は恐ろしい。


「小野寺くん!」


 店を出たと同時に、松崎は彼に向かって叫ぶ。小野寺も「なんですか」と振り返った。


「卒業、おめでとう」


 その笑顔は、今まで見たどんな彼女の笑顔よりも綺麗で、美しかった。直視するのも難しいくらい眩くて、すぐに目線を逸らしてしまった。


「あ、ありがとうございます……」


 そこから数日は彼女の笑顔が頭から離れなかった。

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