第14話「未来に向かって」

 野球部を引退した小野寺に待っていたのは「受験」の2文字だった。将来なりたいものなんて特にないが、今すぐ就職したいという訳でもない。とりあえず大学生にはなっておこう、ということで近隣の私立大学をいくつか受けることにした。近隣と言っても家からはかなり離れた場所にしかないからどこを受けても下宿生活になるのは間違いないだろう。


 勉強は得意でも不得意でもない。教科書に書いてあることは理解できるし、授業もちゃんとついていっている。学校の定期考査だって、どの教科も平均点以上は取れる。至って平々凡々な成績だ。


 ついこの前まで野球で慌ただしかった1日も、今となっては勉強色に染まってしまった。午前中から午後まで図書館の学習室に籠り、ひたすら参考書や過去問と対峙する。そんな毎日の繰り返しだ。作業のような毎日に疑問を抱くことすらせず、小野寺は学問に勤しんだ。当然、バッティングセンターにはあれ以来顔を出していない。


 夏休みが終わっても勉強漬けの生活は変わらない。学校が終われば時間の許す限り図書館で勉強だ。2学期に入ると夏の時よりも学習室を利用する学生が多くなった。やはり考えていることは皆同じなのだろう。


 それからあっという間の秋が過ぎ、寒さが厳しい冬になった。あのうだるような夏の暑さが恋しい。今年は例年よりさらに冷え込むらしく、11月の時点で既に1月並の寒さだった。そろそろ氷河期に入るんじゃないか、なんて考えながら、この日も小野寺は図書館に足を運んでいた。


 館内はクリスマスの装飾がいろんなところに点在していた。そういえばもうそんな時期だったか、と空いている机を探した。しかし学習室はどこも席が埋まってしまっている。なんだか中学の頃柴山たちと一緒に勉強したのを思い出す。あいつらは今元気にしているだろうか。


 他に空いている席がないか、図書館の中を散策した。と言っても他に館内勉強できそうなところは窓際のカウンター状になっている席だけだ。


 丁度1席だけ空いていた。事件が起きたのは席に座ろうとしたその時だった。


「うげっ」


 思わずカエルが潰れたような声が出た。その奇声に気付いた彼女も振り返って「うわっ」と小さく驚嘆する。見慣れない眼鏡をかけた姿に少しだけ興奮した。よく似合っている。


「なんでこんなところにいるんですか、松崎さん」

「なんでって……来ちゃ悪いか」

「ダメとは言ってないけど、でも……」


 突然の事態で言葉が詰まる。まさかこんなところで彼女と再会するなんて思ってもみなかった。どうしよう。反射的にあの夏のことが脳内でフラッシュバックする。今にもここから逃げ出してしまいたい。


「……ま、とりあえず座ったら? 勉強したいだろうし」

「あ、いや、あの……はい、失礼します」


 正直遠慮しておきたかったが、断る理由もなかった。小野寺は渋々松崎の右側に座り、リュックから勉強用具一式を取り出した。


 黙々と問題集を解き進める小野寺だが、隣が気になって仕方がない。ひょっとしたら他人の空似なのではないか。いやしかし彼女のアイデンティティであるポニーテールは健在だ。彼女が着ているネイビーのセーターに黒のジーンズだって何度か見たことがある。そもそも話しかけられた時点で松崎であることは確定だ。


 ちらりと小野寺は松崎の方を一瞥した。彼女が読んでいるのは食生活や食育など「食」に関する本だった。彼女の左側で山積みになっている本も同じ類いのものだ。松崎は真剣な表情で本を読み進める。眼鏡姿と言い、彼女のこんな様子を見るのは滅多にないことだ。


 いつの間にか小野寺の手は止まっていた。じっと松崎の方を見つめるばかりだった。その熱い視線に松崎が気付かないはずがない。


「邪魔だったかな」

「いえそんなことは。俺の方こそ、すみません……」


 それから会話はなかった。どことなく気まずい空気が2人の間を流れる。元来図書館は静かな場所だが、今の沈黙は気持ちが悪いものとなって肌にまとわりついている。その沈黙を破ったのは松崎だった。


「実はさ、資格取ろうと思ってるんだ。最近ジムに『痩せたくて運動始めた』っていう人増えててね、だったら運動だけじゃなくて食事の方にも気を遣ってほしいわけよ。でも今の私の知識だけじゃちょっと限界があってさ」


「だから資格取るんですか」

「そ。スポーツ栄養プランナー」


 他にも取りたい資格はいくつかあったらしいが、スポーツ栄養プランナーが松崎に一番合っていたらしい。今年の頭に受講し始め、2カ月後の試験に合格すれば晴れて資格が取れるそうだ。2ヵ月後と言えば、小野寺が受ける大学の試験日も大体同じような時期だ。


「だから小野寺くんも頑張って」

「あ、はい。善処します……」


 松崎に激励されても、あまり嬉しくなれなかった。むしろ、なぜあの日のことを訊いてこないのか、不気味で仕方がなかった。彼女なりに気を遣ってくれているのだろうか。よくわからない。ともかく今は目の前の勉強に集中しなければ。しかし問題集の内容はあまり頭に入ってこなかった。


 正午になり、外の方からぼんやりと時報の音楽が聞こえる。丁度解いていた問題集がキリのいいところで終わったところだ。この辺りで昼休憩を取ろう。館内は飲食厳禁だから外に出なければならないが、戻ってきたらちゃんと席はあるだろうか。


 席を立とうとしたところを、松崎は「ちょっと」と呼び止めた。


「お昼? なら一緒に食べよ?」

「え、マジですか」

「うん、マジ。いいでしょ?」


 当然断る理由なん全くない。むしろ彼女と一緒に食事ができるなんて、とてもありがたい話だ。夏までの小野寺だったら喜んで返事をしていたと思う。


 しかし小野寺の脳内はどうにか言い訳して回避しようと必死だった。結局言い訳の最初の1文字目すら出てこなかったけれど。


 松崎は続けた。


「それにあの試合のこと、小野寺くんまだ引きずってそうだしさ」

「ああ……はい、そうですね」


 これはいろいろ聞きだされるやつだな、と思った。しかし断ることもできなかった。この言葉が決め手となり、小野寺は松崎と共に昼食を取ることを了承した。

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