第2話「初めてのバッティングセンター」

 入団してから約半年、身体の使い方もある程度様になってきた。この頃になると、同世代のチームメイトたちにもついて行けるようになった。練習試合にも何度か出してもらうこともあった。まだ上級生たちとの技術は雲泥の差だけれど、最初の頃と比べたら飛躍的に上達したのは間違いない。


 練習が終わり、小野寺は自転車を漕いでいた。前かごにはリュックが積まれていて、この中にグローブやスパイクが詰め込まれている。彼が背負っている黒い筒状のケースの中には愛用のバットが入っており、ランドセルほど重たくないが、なにしろ形状が長いので少しバランスが取りにくい。


 ふと左に目をやると、少し寂れたバッティングセンターがそこにはあった。いつもは素通りしているのだがなぜかこの日に限ってはどうにも行きたいという欲求が勝り、小野寺は建物の方へ自転車のハンドルを切った。


 店内も閑静で、中には小野寺以外誰もいなかった。ただカウンターのラジオから野球中継が流れているだけで、利用客はおろか従業員も見当たらない。当然小野寺はバッティングセンターに来るのは初めてなので、どうすればいいのかわからない。店の真ん中で小野寺は棒立ちする。


「あれ、小野寺くんだ。珍しいね」


 松崎の声がしたので入口の方を振り返る。泥だらけのユニフォームを纏った彼女は普段より明るい笑顔で小野寺を見ていた。それと同時に、カウンターの奥から大柄な男がやってくる。190センチはあるだろうか。とにかく体格がとても大きかった。


「こら茜、店側から入るなっていつも言ってるだろ」

「だってこの後練習しようと思ってたんだもん」


 2人の会話をよそに小野寺は突っ立ったままだ。頭に白のタオルを巻いた大男は小野寺に向かって優しく微笑んだ。


「お客さんかい? すまないね、いろいろ立て込んでしまって。そのユニフォームは茜と同じチームかな」


 そう問われ、小野寺はコクリと頷く。大男は笑っているが、Tシャツ越しでも伝わる筋肉質の身体が小野寺を委縮させる。松崎は怯える様子もなく大男の方に近づく。


「えっと、私のお父さん。それでここは私の家。バッティングセンターやってるんだ。全然人来ないけど」

「一言余計だ」

「だってホントのことじゃん」


 べえ、と松崎は父親に向かって舌を出すと、どこからか取り出した300円を券売機に投入した。


「小野寺くんって、バッティングセンター来たことある?」


 彼女の問いに小野寺は首を振る。そっか、と松崎は呟くと同時に券売機のボタンを押した。すると取り出し口から専用のメダルが1枚出てきた。


「じゃあ教えてあげる。お金ある? 300円」


 松崎に促されるまま、小野寺はリュックから財布を探す。しかし財布はあるがお金がそれほど入っていない。100円玉が1枚とあとは10円玉と1円玉が数枚ずつあるくらいだ。昨日漫画なんか買うんじゃなかった、と小野寺は後悔した。


「お金、ない」


 寂しそうな声で小野寺は下を向く。お小遣いが毎月500円である彼にとって、300円という金額はそれなりに大きい。


「じゃあこれ使って。奢るから」


 松崎は自分で購入したメダルを小野寺に渡した。


「でも」

「お店からのサービスだと思って。ほら」


 勝手にサービスとか言わないでくれ、という父親からの横やりに彼女は「いいじゃん」と返す。やれやれと呆れる父親に目もくれず、小野寺を案内した。小野寺もきょろきょろと周りを見渡しながら彼女についていった。


 鉄網の扉を開け、小野寺はリュックをベンチに置く。目の前にはピッチングマシンがズラリと並んでいて、今から彼が使うのは一番右の初心者用だ。大体60キロから100キロのスピードでボールが放たれる。


 ケースからバットを取り出し、供えられていたヘルメットをかぶり打席へと向かう。ホームベースとバッターボックスはいつも練習で見ているのでわかるが、左打席の傍にある機械は見たことがない。松崎はマシンを指差した。


「まずメダルを入れて。速度のボタン押すとすぐ始まっちゃうから。小野寺くんは一番遅いのにしよっか。あとはいつも練習でやってることと同じ。ちゃんとボール見て、脇を締めて、思いっきり振る。OK?」


 コクリと小野寺は頷き、メダルを投入する。するとガシンと機械が起動する音が聞こえた。速度のボタンのところを見ると、100のところでランプが赤く光っている。


「一番遅い60のところ押して。そうすれば速度遅くなるから」


 言われるがまま小野寺はボタンを押し、右バッターボックスに立つ。アドバイス通り、脇を締め、バットを構える。ピッチングマシンから放たれたボールは、真っすぐ軌道を描き小野寺の元へ飛んだ。いつもの練習よりも少しだけ球速が早く、振り遅れてしまった。その後も次々と空振りを繰り返す。


 30球投げられ、打ち返せたのは10球程度だった。それも全てバットにかすめたものがほとんどで、まともにバットに当たったのは2球くらいしかない。あとは全て空振りだ。普段の練習も空振りが多いが、今回はさらにひどい。


「うーん、これは慣れだね」

「慣れ?」

「そ、慣れ。何事も経験あるのみ」


 鉄網フェンス越しに松崎はアドバイスを送ると、小野寺と打席を交代した。コインを入れ、80のボタンを押す。すると小野寺の時よりもずっと早いボールが松崎めがけて飛んできた。が、彼女はそれを難なく打ち返す。カーンと気持ちいい金属音が響き渡った。


 その後も松崎はバットを振り続けた。試合ならヒットになっているであろう打球が次々と飛んでいく。しかし小野寺の目線は打球の行き先などではなく松崎の姿勢だった。脇の締まり、腕の使い方、腰の回し方、足の支え方……どこを切り取っても完璧だ。


 30球打ち返し終わった。ホームランこそなかったが、打球は全てバットの芯に当たっていた。芯に当たることで打球は伸び、ヒットに繋がりやすい。バッティングの基本だ。


「私もね、最初はそんなにうまくなかったんだ。君みたいにへたっぴだった」


 バットを所定の場所に戻しながら、松崎は少し恥ずかしそうに語る。本当に? と尋ねたくなった。だって今の彼女からはそんな姿想像もできない。


「あ、信じてないでしょ」


 本心を見透かされてギクリとしたが、松崎は何も気にしていない様子で、むしろ小野寺の反応がおかしかったのか「まあそうだよね」ケラケラ笑っていた。


「でもね、上手くなりたかったから、必死で練習したんだ。毎日毎日練習して……だから小野寺くんも諦めちゃダメだよ。頑張ればきっと上達するんだから。私が保証する」

「本当?」

「うん、本当」


 屈託のない松崎の笑顔に、小野寺もつられて綻ぶ。とても野球が上手な彼女が言うんだ。大丈夫、間違いない。なんだか少しだけ自信が出てきた。けれどそれはそれとして今日の結果はやっぱり悔しい。少しは上手くなったかもしれないと思ったけれど、全然そんなことなかった。




 もっと上手くなりたい。あの人みたいに。




 その後奢ってもらったサイダーの味は、小野寺には少し炭酸の刺激が強すぎた。

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