第3話「激闘の末に」

 まだ肌寒さが残る3月初頭のとある日。いつもの練習場所の河川敷から少し離れた場所にある野球場に小野寺たちはいた。この球場は以前も練習試合や公式戦で何度か訪れたことがあり、その度に小野寺は規模の大きさに飲み込まれそうになる。流石に甲子園球場やその他ドーム球場などとは比べ物にならないが、スタンドやバックスクリーン、それに芝生の外野が設備されているだけで彼の心は興奮した。


 この日は大事な公式戦がある。といってもここ周辺の地域が協賛して開いた小さな大会に過ぎないが、松崎たち6年生にとってはこの大会がこのチームで迎える最後の公式戦だ。先週予選2試合を難なく突破したが、今日はそうもいかない。準決勝の相手であるチームは隣町の強豪だ。何度か対戦したことがあるが、勝ったり負けたり、いわば互角の実力である。チームメイトは皆それがわかっているから余計に気合が乗っている。


「みんな! この試合勝って、次も勝って、最後に優勝しよう!」


 彼女の号令と共に、チームメイトは「おう!」と大きな声を出す。松崎の一声でチームの士気がさらに上がった。やっぱりあの人はすごい。そんなことを思いながら、ベンチで小野寺は投球練習をするピッチャーに「ナイスピッチ」と叫んだ。


 試合は相手チームの攻撃から始まった。初球のボールを弾かれた時は焦ったが、なんとかショートゴロで仕留めることができた。ここを守っているのが松崎だ。その後も一進一退の攻防が続き、4回の表になった。現在1対1の同点。流れがどちらに転んでもおかしくはない。


 打席に立ったのは4番バッターだ。4番に相応しい大柄な彼は、この試合の先制点を決める安打を放ち、チームが最も警戒している打者だ。ピッチャーもそのプレッシャーからか、2球連続で球筋が逸れる。しかし松崎の「落ち着いて」という声に調子を取り戻したのか、その後2球続けてストライクが続く。これは打ちとれるかもしれない、と小野寺は思ったが、次の球を見事に左中間へ打ち返し、バッターはあっという間に三塁へ辿り着いてしまった。あっという間に逆転のピンチだ。落ち着いて、と松崎は動じない様子で声をかけるが、さすが周囲の動揺は大きかった。次のバッターも打ち取ることができず、ノーアウトランナー一塁三塁のピンチを迎えてしまう。流れは完全に向こうだ。


 監督はタイムを取り、内野手はピッチャーの元に集った。流れが悪くなるとこうやって流れを断ち切るようなことはよくある。だけど再び試合を進めても流れはまだ向こうのままだというのが小野寺から見てもわかった。相手チームのスタンドの声援がどんどん大きくなっているような気がする。頑張れ、と応援したかったけれど、小野寺は声も出せなかった。


 6番バッターが打席に立つ。相手チーム一番の俊足らしい。ピッチャーも随分と疲弊した顔を見せている。ここでまずはアウトを取ってほしい。


 ボールがピッチャーの手を離れたと同時にバッターはバットを寝かせた。同時にランナーもスタートダッシュを決める。スクイズだ。松崎は反射的に前へ動く。


 コツン、とバットにボールが当たった。丁度松崎の方向へボールが飛んでいく。左手のグローブでボールをすくい、右手に持ち替えてキャッチャーへ投げた。そこまではよかった。しかし、彼女が放ったボールはキャッチャーの左側を通り抜ける。


 小野寺が状況を理解した時点で三塁ランナーはホームベースを踏んでおり、一塁にいたランナーは既に三塁に向かっていた。こんなことで逆転してしまうなんて。チームメイトは皆呆然としていた。だけど一番動揺していたのはやはり松崎本人だった。小野寺もあんな彼女の顔を見たことがなかった。


「取り返すぞ!」


 キャッチャーを務める主将が全体に声をかける。それぞれの守備位置からバラバラに返事が聞こえた。しかし松崎は顔を俯いたまま守備につく。その後松崎はミスをしなかったが、悪い空気は断ち切れないもので、結局この回だけで3点を失い、ぐんと点差が開いてしまった。


 ベンチに戻ってきた彼女はまだ浮かない顔をしていたが、ペチンと両頬を叩くと、「よし」と小さく呟いて打席に向かった。その行為がどのような効果をもたらしたのかは不明だが、松崎はこの回初球でヒットを放ち、チャンスを作った。勢いづいたチームメイトも打線を繋ぎ、すぐに1点を取り返した。みんな声を出して喜んだ。もちろん小野寺も例外ではない。


 結局この回はこの1得点だけで終わってしまったが、彼らの闘志に火はついたままだ。相手チームの攻撃をなんとか守り切り、こちら側の攻撃になれば積極的に攻めていく。しかし2点差という壁は意外と重たく、遂に7回ウラまで来てしまった。ここで逆転しなければ決勝に進むことはできない。


 ベンチからは仲間たちの声援が飛び交っていた。6回ウラの途中から相手ピッチャーが交代したが、チームの勢いは止まらなかった。アウトを重ねながらも出塁と進塁を繰り返し、ついに2アウト満塁までやってきた。一塁ランナーが帰ってきた時点でサヨナラ勝ちだ。大役を任されたのが、やはりチームの要である彼女だった。


 最初2球は見送った。いずれもボール球だ。次の球はバットにかすったがファールボールになってしまった。球速はそこまでスピードがあるものではない。しかしサウスポーなので少し勝手が掴みづらい。


 ピッチャーが構え、投げる。ど真ん中のストレートだ。松崎は左足を踏み込み、大きくスイングした。放たれた打球はなだらかな放物線を描き、右中間を越えていった。ライトとレフトがボールを追いかけている間に三塁ランナーと二塁ランナーが帰ってきた。これで同点。ベンチの中はみんな歓声に包まれた。


 一塁ランナーは二塁を経て三塁を蹴る。ボールはセンターからショートの中継を経てバックホームしていた。間に合わないと思ったのか、ランナーが砂埃を上げながらスライディングする。一瞬沈黙が会場を包んだ。どちらのチームも球審の判断を固唾を呑んで見守る。


「……セーフッ!」


 主審は両腕を広げたポーズをとって大声で叫んだ。まるで小野寺が初めて彼女の試合を見た時のようだ。うおお、と地鳴りのような雄たけびを上げながらチームメイトは歓声を上げた。監督も魂が抜けたように安堵の息をつく。


「すごい……」


 小野寺も感嘆の声が漏れる。こんな試合あとどれくらい経験できるだろう。ドクン、ドクン、と心臓が早く鼓動を打つ。見ているだけだったのにすごく興奮した。早く自分もプレーしたい。


 整列、と言う主審の号令に、ぞろぞろと互いのベンチからメンバーが出てくる。整列する途中で二塁ベースから戻ってくる彼女と目が合った。


「やったよ」


 その声は小野寺だけに届いた。それが彼に対して言っているのか、それともただの独り言なのか、小野寺にはわからなかった。とりあえず「うん」とだけ言った。


 ありがとうございました、と声が揃う。サイレンは鳴らなかった。当然校歌も歌わない。だけど小野寺にとって、この試合は今までの高校野球やプロ野球よりも興奮した試合だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る