エピローグ
4月も下旬になると、桜はもう春の役目を終えようとしていた。薄桃色の花びらが道路に散り、枝にはもう新緑の葉っぱが点在している。ここの桜並木はシーズンになると桃色の美しい光景が見られる。あともう少し早ければな、と小野寺は駅の壁にもたれながらスマートフォンの時計を確認する。時刻は10時5分を表示していた。
この日は小野寺が大学生になって初めてのデートだ。電話でのやり取りはほぼ毎日とっているが、小野寺が進学してから直接会うのはこれが初になる。
待ち合わせ場所であるこの駅は彼の下宿先の最寄り駅である。この駅から毎日片道30分かけて大学に通っている。本当は大学近辺が良かったが、合格が決まった時点ではもう既に入居者が決まっているところが多く、渋々この辺りの物件を選んだ。この周辺は交通の便が良く遊ぶところもたくさんあるのでそういった意味では便利だけれど。
「ごめんなさい、遅れちゃった」
駅の中央出口から松崎が駆けてくる。普段の動きやすい服装とは違い、今日は白のワンピースだ。いつものポニーテールではなく、そのまま髪を下ろしているから余計に大人っぽさが引き立つ。
「5分遅刻です」
「だって駅広いんだもん。迷っちゃって」
彼女自身この駅を利用するのは初めてではないが、建物内があまりにも複雑である上そこまで利用頻度が高くないためこの駅限定で迷子の常習犯だ。小野寺も引っ越して数日は迷っていたが、1週間も経てば流石に慣れた。
「じゃあ行きましょう、松崎さん」
「あ、待って」
小野寺は松崎の手を引いたが、彼女は動こうとしなかった。それどころか小野寺の進行方向と逆向きに腕を引っ張る。
「どうしました?」
「ほら、敬語。戻ってる」
「あー」
松崎に指摘され、ぎくりと小野寺は目線を逸らす。「もう恋人同士なんだから敬語はやめようよ」と彼女が提案したのが1週間前だ。それから通話の度に小野寺は松崎に指摘されている。
「ごめん。やっぱり癖抜けなくて」
小野寺は申し訳なさそうに釈明するが、松崎は膨れっ面のままだ。こうなると彼女は止まらない。
「あとさ、前からずっと思ってたんだけど、そろそろ名前で呼んでよ。私たち付き合って1ヶ月なんだし」
「いや、まだ恥ずかしいから……それに俺には『松崎さん』の方がしっくりくるし」
まだ照れが残っているのか、小野寺の顔は赤い。長年慣れ親しんだ呼称を今更変えるのはやはり勇気がいる。今だってタメ口で話すのも違和感しかない。しかし松崎にはそんなもの関係なかった。
「言い訳しないの! ほら、早く」
松崎は小野寺の顔をじっと見つめる。その視線の圧に小野寺も逃れることはできない。目をそらそうとするも、「こっち見ろ」と松崎に顔を抑えられて逃げられない。
「今ここで言わないとダメ?」
「ダメ」
「そっか……わかったからまず手をどけてくれない?」
観念した様子で小野寺は鈍色の息を漏らす。なんだか付き合い始めてから、彼女の傍若無人な性格がどんどん増している気がする。それでも松崎と一緒にいて楽しいという感情が強いから苦になるほどではないけれど。
小野寺の言う通り松崎は彼の顔から手を下ろし、その手を小野寺が握った。少しは勇気がもらえるだろうか。
「…………わかったから、早く行こう、茜」
やっぱりまだ恥ずかしい。この場からすぐに立ち去りたい。そんな一心で小野寺は彼女の手を引っ張る。彼の様子がおかしかったのか、くひひ、と松崎はいたずらっ子のように笑った。
「やれば出来んじゃん、太陽」
下の名前で呼ばれて更に小野寺は顔を赤くする。電話越しで耳にするより破壊力が桁外れだ。
「ああもう、からかうなよ」
「だって君が面白いんだもん」
仲睦まじく街並みを歩く2人を祝福するように、柔らかい陽の光が優しく2人を照らす。2人の恋はまだ始まったばかりだ。
バッティングセンターの恋 結城柚月 @YuishiroYuzuki
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